第272話 獅子は花園で愛を唱う
サロンに入っていくと、アニェスが一瞬、怪訝そうな顔をした。
しかし、すぐに表情がパアっと明るく輝いた。
「お義姉さま! ご機嫌麗しゅう」
「アニェスさまも、ご機嫌麗しゅう」
お互い、笑顔が花開いた。女神の如き華やかさだった。
「良かった。お義姉さまには、やっぱり笑顔が一番お似合いです」
「ご心配かけてごめんなさい。いつまでも塞ぎ込んでいても前に進めないから」
「そう思えることが、既に前に進んでいる証拠ですわ」
「……そうですね。ほんとにそうだわ」
「もっとも、こちらの方は、前に進むどころか、後退しているかもしれませんけど」
アニェスは、ぐったりと椅子に沈んでいるリオネルに視線を投げた。
夕べの深酒がかなり効いているようで、酒の匂いがまだ消えていない。朝も起きられず、食欲もないというのでそのまま置いてきたのだ。
寝言のことをちらっと聞いてみたが、当人はまったく覚えていなかった。
(―でも、いいんだ)
シルヴィアは、暖かい眼差しを夫に送った。
(覚えていなくても、あたしにとっては、かけがえのない言葉だった)
リオネルがいる。アニェスがいる。サンドラを始め多くの友人がいる。
そのことを気づかせてくれた。リオネルの胸の中で、心のおりがすべて取り除かれるのを感じた。
今なら、何のわだかまりもなくマノンに礼を言える。感謝を伝えられる。例え初めは監視役だったとしても、一人で輿入れして以来、ずっと寄り添ってくれた。
シルヴィアにとって、無二の親友なのだ。
「旦那さまは、弱いくせにお酒が大好きだから、仕方ありませんわ。二日酔いの方は放っておきましょう」
「……うるせー。大して飲んじゃいねえよ…」
言葉に力がない。かなり具合が悪そうだ。
「しかも、お兄さまったら、ウィンストン殿下に全部話してしまったそうですね」
「そうなの。すべて台無しだわ。よっぽどウィンストン殿下を気に入ってしまったらしいですわ」
「一度信頼すると、という例のクセが出てしまったのね。まったく、性のないお兄さま」
「……ウィンストンは、信頼できるっ。皇帝の俺が言うんだ。間違いない」
「はいはい。皇帝陛下の御心のままに」
シルヴィアは、膝折礼の真似をしてみせた。
「アニェスさま。初めから手の内を晒してしまったようなものですけど、ウィンストン殿下との交渉、どうしましょうか」
「……いえ、予定どおり話を進めましょう。下手に小細工しても見透かされるだけだと思います」
「そうですね。―さて、旦那さまのお酒のお相手をなさったウィンストン殿下のほうは、まともにお話しできる状態なのかしら」
「―失礼」
ノックする音が響いた。シルヴィアはアニェスと顔を見合わせると、コレットにうなづいた。
「―おや? 俺は花園に迷い込んでしまったのかな?」
コレットに案内されて入ってきたウィンストンは、開口一番、軽口を叩いた。表情は生き生きとしている。少なくとも酒の影響は残っていなさそうだ。
「右を見ても左を見ても、美しい花ばかりだ」
「あら。ウィンストン殿下もまだお酒が抜けていらっしゃらないみたいですわね」
シルヴィアの金色の瞳がくるめいた。
「……シルヴィア陛下は、奥ゆかしい方かと思っていたが、今日は別人のようですね」
ウィンストンは、興味深そうにシルヴィアを見つめた。
そういえば、ウィンストンが来訪した折は、マノンの件で落ち込んでいる真っ最中だった。文字通り、塩対応だった気がする。
「私は初めから私ですわ、殿下」
「ほう。それは何より」
とぼけたやり取りをすると、ウィンストンは今度はアニェスに目を向けた。
「―アニェス殿下はお変わりなく今日もお美しい」
「ありがとう、殿下。お世辞でも嬉しいです」
「世辞ではありませんよ。私は女性に対して正直になることにしているのです。アニェス殿下ほどの方はクリフォードにはいません。まさに、地上に降りた女神そのもの。あなたには、地上にいるすべての男が跪くでしょう」
「あら、殿下。私への対応とずいぶん差をつけるではないですか」
シルヴィアは、拗ねたように口を尖らせた。
「アニェスさまのことばかり褒めて、私には何も仰ってくださらない」
「陛下は気が早い。これから陛下を称える詩を歌おうとしていましたのに」
「まあ。それは楽しみ。どんな詩ですの?」
「―君は聞いたか。リシャールに咲く猫耳の花を。どのような大輪の花よりも、華やかで麗しい。君は見たか。リシャールに咲く猫耳の花を。どのような可憐な花よりも、清らかで香しい。ああ、我が麗しの猫耳王女よ。最高の花束を奉らん」
しん、と静まり返った。あまりにあけすけな愛の詩に、皆、なんと返したらいいかわからなかったからだ。
しかし当然ながら反発する人物がいるわけで。
「おい! ウィンストン。ふざけるな。シルヴィアは俺の…ヒック! ……女だぞ、口説くんじゃ…」
「ンもうっ、旦那さまったら、説得力ない!」
リオネルは青ざめて口元を押さえ、最後まで言い切ることができない。シルヴィアは、文句を言いながらも心配そうに覗き込んだ。
「なんだ、リオネル。いたのか」
ウィンストンの碧眼が笑っている。
「なんだと!? 初めから気が付いていただろ―」
リオネルの動きが止まった。
「旦那さま…?」
「―気持ち悪い。吐きそう」
「にゃにゃーっ!?」
慌てたのはシルヴィアである。両手を口元に差し出した。
「こんなところで吐かないで!」
「―失礼します、シルヴィアさま」
間髪入れずギーがリオネルの肩を担いだ。反対側はピエールが支える。
「ギーさま!?」
「リオネルさまを運びます」
ギーはできるだけ急いで主を連れ出した。洗面室で吐かせようというのだろう。
「―気持ち悪い…」
「旦那さまっ、まだよ、まだ我慢してっ!」
シルヴィアは横について歩きながら、夫を叱咤激励した。コレットたち侍女も、ぞろぞろとその後に従った。
「……駄目だ、こりゃ」
ほぼ引きずられてサロンを出ていくリオネルの後ろ姿を、ウィンストンは呆れながら見送った。
「あんなに酒に弱いなら、しこたま飲ませるんじゃなかったな」
「―ウィンストン殿下は、ずいぶん兄と仲良くなられたのですね」
サロンに残されたアニェスは、ウィンストンに微笑みかけた。
「ええ。リオネルは面白い奴です。いろいろな意味で」
「兄のこと気に入ってくださって、とても嬉しいわ」
会って間もない一国の皇帝を『奴』呼ばわりするウィンストンもウィンストンだが、彼の『無礼』を咎めようとしないアニェスもアニェスである。
「ぜひ末永くお友だちでいてください。兄も喜びますわ」
「それは私も望むところ。貴国とは、末永く友人でありたいと願っています」
アニェスの顔に笑顔が広かった。神々しいばかりの美しさであった。ウィンストンの碧眼が、じっとアニェスを見つめた。
「平和条約などという形式ではなく、本心から真の友となりたいのです」
「申し訳ありません、ウィンストン殿下。兄があのような状態ですので、条約交渉はまたの機会にいたしたく存じます」
「条約交渉なら、あなた方の提示する内容を全面的に受け入れます」
「……国王陛下に諮らずにお答えしてしまって、よろしいの?」
「もともと人質として来ているのです。我々に選択肢はありません。父も私の判断を尊重してくれます」
「そうですか。いずれにしろ、私一人で判断はできかねます。また機会を設けますので―」
「アニェスさま」
言いかけたアニェスを遮るようにウィンストンは口調を強めた。しかも『殿下』の敬称を省いて。
「条約交渉について、ブランシャールの申し出はすべて受け入れる。ただ、一つだけ要望があります」
「要望…?」
「いや、警戒なさらなくていいですよ。難しいことではありません。アニェスさまのお心一つで決まることです」
「……」
「経緯はどうあれ、父ヒューバートはアニェスさまに私との婚姻を申し入れている。そのことは当然ご存知ですね?」
「え…。ええ、それはもちろん。でも、我が国への侵攻で立ち消えになったものと理解しているのですが」
「であれば、尚更仕切り直したい」
「えっ―」
アニェスは目を瞠った。もしや、この男が言わんとしていることは―
「アニェスさま。私と結婚してくださいませんか」
再び、風が吹いた。強く、大きな風が。
【裏ショートストーリー】
コレット「あ〜あ。リオネルさま。夕べは相当飲んだのですね」
サンドラ「いくらなんでも、飲み過ぎだ」
コレット「いつも不思議に思っていたのですけど、男の人って、弱くてもお酒が大好きですよね」
サンドラ「さあな。女でも酒好きはいるけどな。エーヴという名だが」
コレット「ふふっ。キス魔のエーヴさま」
リオネル「オエ〜っ!」
シルヴィア「旦那さまっ! しっかり!」
コレット「うわっ。丸聞こえですね」
サンドラ「……」
コレット「……ここ、男子の洗面室ですよね。シルヴィアさまといえど、入っちゃ駄目なんじゃないですか?」
サンドラ「皇后なら、いいんだろ」
コレット「そうかなあ」
リオネル「ゲェ〜っ」
ギー「シルヴィアさまっ。あまりご覧にならないほうがいいです。ここは私たちにお任せをっ」
シルヴィア「いやよっ。妻なんだから、面倒は私がみるわっ」
コレット「シルヴィアさまって、ほんとに素晴らしい方ですよね。嫌がらずにご主人のお世話をよくなさるし、お優しいし…」
シルヴィア「旦那さまっ、全部出したほうが楽になりますっ。……おらっ! 早く出せーっ!」
リオネル「ぐえ〜っ」
サンドラ「……お優しい、ね」
コレット「たははは…」




