第264話 去る者来る者
「―失礼いたします」
アイラがそっと入ってきた。
「どうしたの、アイラさん。何か元気ないけど」
一目見て、シルヴィアは眉をひそめた。
「……そうですか? 私は元気ですが」
「……」
シルヴィアは、ジロジロと眺めた。明らかに初めて会ったときと様子が違う。表情は暗いし、終始うつむき加減だ。何より、輝くオーラのようなものがすっかり影を潜めている。
「この度は、皆さまにご迷惑をおかけしました。特にサンドラさま。大変失礼をいたし、お詫びの言葉もございません。申し訳ございませんでした」
アイラは、殊勝に頭を下げた。
「私は気にしていません。どうぞお顔をお上げください」
「とんでもございません…」
頭を下げ続けるアイラは、サンドラに再三促されて、ようやく顔を上げた。
「……本当に皆さま、お優しい。私など、ただの礼儀知らずで世間知らずの小娘ですのに」
強気で何事にも物怖じしないアイラの、この変わりようはどうしたことだろう。シルヴィアは、不審感でいっぱいになった。
「やっぱり変よ。何かあったのね? 私で良ければお話を聞くわ」
「……いえ。すぐに出立しますので、その前にご挨拶と思って伺っただけですから」
「にゃっ!? 出立、ってどういうこと?」
「ルプスへ帰ることにしたのです」
「来たばかりじゃないの。もう帰ってしまうの?」
「……」
アイラはうつむいたままだ。両手をにじり合わせて身動ぎ一つしない。
「―そのこと、サイノスには伝えたの?」
「―!」
アイラがピクリと動いた。
「……兄には伝えました」
「それを聞いて、サイノスは何て言ったの?」
「……別に何も…」
「―サンドラ!」
「はい、シルヴィアさま」
「サイノスをここに連れて来なさい。今すぐに」
アイラから視線を外さずにシルヴィアは命じた。
「はい。承知いたしました」
「えっ!? お、お待ちください!」
アイラは慌ててサンドラに立ち塞がった。
「後生です。どうか、どうかそれだけはお許しください」
「主命です。おどきください」
「いいえ、どきません。そんなことされたら、本当に兄に嫌われてしまう。どうしてもと仰るなら、ここで死んだほうがましです」
アイラはナイフを取り出して自分の首に当てた。
「……」
コレットが息を呑むのが伝わってきた。メロディは、子どもたちが泣き出さないように、懸命にあやしている。マノンは何があってもいいように、身構えている。そしてサンドラは、じっと対峙したままだった。
緊迫した空気が張り詰めた。息苦しいほどの時間が流れた。
それを破ったのは、シルヴィアだった。
「―わかったわ。サイノスは呼ばない。だから、その物騒なものはしまって。ここで死なれちゃ、後味が悪いし」
「……」
アイラは、素直にナイフをしまった。
「……申し訳ありません、またお騒がせしてしまって」
アイラはうなだれた。
「初めてお会いしたときに、皆さまにはご迷惑をおかけしてしまったので、出立する前にお詫びしたかっただけなのです」
「本当にいいの?」
「えっ…!?」
思いがけないシルヴィアの言葉に、アイラは顔を上げた。
「サイノスと言葉も交わさずこのまま帰ってしまって、本当にいいの?」
「……構いません。兄は、私がいては迷惑のようなので…」
「ご兄妹の間に無理に踏み込もうとは思わないわ。あなたが何も話したくないというなら、それも結構。でも、後悔だけはしてほしくないの」
「……」
「サイノスの顔を見に来ただけでは、ないのでしょ? 彼に何か伝えに来たのではないの?」
アイラは、じっとシルヴィアを見つめた。まるで何かを測るかのように。やがて、にっこりと微笑んだ。例のエマを彷彿とさせる嫣然とした笑みだった。
「―シルヴィアさまは、本当にお優しい。もっと早くお会いしたかったです」
「……」
「お気遣いいただき、感謝の言葉もございません。本当に良いのです。一目、兄の顔を見られただけで、充分」
アイラは、再三礼を述べると、深く頭を下げて出て行った。
部屋の空気が安堵に包まれる。特に、固唾をのんで見守っていたコレットは、ほっとしたように言った。
「……びっくりしました。一時はどうなることかと思いました」
「感情の現し方が、激しい方なのね」
シルヴィアは、アイラがいなくなったというのに、未だ眉をひそめたままだった。
「心配だわ。サイノスと喧嘩別れしていなければいいのだけど」
「―シルヴィアさま。刻限です」
マノンが言う。実はリオネルから、招集がかかっているのだ。場所は執務室なので、公的な緊急事態が発生したらしい。その直後、アイラから訪問の連絡があったので、わざわざ時間を割いて待っていたのである。
結局、アイラから本心を聞き出すことができないまま、執務室へと向かった。
「―遅い。何をしていた?」
執務室へ入ると、リオネルの不機嫌顔が待ち受けていた。シルヴィアは、既に揃っている五公に頭を下げた。
「遅れて申し訳ありません。アイラさんとお話ししていたものですから」
「アイラ…?」
「ほら、お兄さま。サイノスの妹さまですよ」
「ああ…! 例の女丈夫か」
アイラの指名手配犯捕物譚は、既にリオネルの耳に入れていた。
「そっちはそっちで大変なんだろうが、こっちはこっちで大変なんだよ」
「どうかなさったのですか?」
「ベルジェール会戦の賠償金について、礼部尚書のエルキュールに交渉させていたんだが、お前発案の人質要求、呑んできたぞ」
「にゃにゃっ!? ウソでしょ!?」
クリフォードとの交渉術として、賠償金のほか王太子を人質に要求する。当然拒否するだろうからそこで賠償金の増額を要求する、という段取りのはずだった。
それなのに、クリフォードは王太子を人質に差し出すという。
「信じられない…。国王は何を考えているの!?」
「そう、いきり立つな」
リオネルは苦笑いを浮かべた。
「交渉内容を聞いたウィンストンが、自ら応諾を申し出たらしい」
「ウィンストン王太子が…」
シルヴィアは、考え込んだ。
マノンの報告によると、ウィンストンは国民から絶大な人気があるという。それを人質にとればブランシャールに対する国民感情は一気に悪化するだろう。
和平を結ぶべきこの状況下で、なぜ国民を煽るようなことをするのだろう。
「―申し訳ありません。条件闘争のつもりが却って苦しい状況になってしまって」
素直に頭を下げるシルヴィアに、リオネルは鷹揚に笑ってみせた。
「仕方ないさ。こんなの、誰も予想できるわけない」
「でも旦那さま。こちらから申し込んでしまった以上、受け入れざるを得ませんが、ご信条に反してしまわれますわ」
「人質というより、賓客としてもてなそう。頃合いをみて送り返せばいい」
「発想を変えて、和平交渉の使者として扱うのはいかがでしょう」
アニェスが考え考え言った。
「同盟とまでは言いませんが、北の大国クリフォードと平和協定を結べれば、我が国の周囲の安全保障が強固になります」
「それは良い考えです。アニェス殿下のご意見に賛同いたします」
セルジュが賛意を示した。
「俺も依存はねえ。ただし―」
トリュフォーがスキンヘッドを撫でた。
「王太子の行動を制限するか、もしくは監視をつけるべきだ。人質を承知したのは、もしかしたら俺たちの内情を探る思惑もあるかもしれねえ。勝手に動き回らせるわけにはいかねえぞ」
「トリュの懸念はもっともだわ。紅烏団を陰で張り付けることにしましょう」
アニェスが輝く笑顔で応えた。
「―それに加えて、世話役の名目で一人、王太子に随行させるのはどうですか?」
シルヴィアが言った。
「……世話役という名の監視役ね?」
「アニェスさまの仰るとおりですわ」
「その世話役、どなたか心当たりでもお有りになるの?」
「ええ。―ガブリエルさまですわ」
「えっ…!?」
驚いたのは、当人ではなくリオネルだった。皆、一斉にガブリエルに注目した。
ガブリエルは、天使の微笑みを浮かべた。
「それは大任ですね。僕に務まるかなあ?」
「ガブリエルさまなら、必ずお出来になるわ。ご身分も王太子に対し皇弟でいらっしゃるから申し分ないし、うってつけです」
「……」
「私も賛成です。とても良い考えだわ」
アニェスがじっとガブリエルに視線を注いだ。ガブリエルは、その視線から逃れるように殊更シルヴィアへ微笑みを向けた。
「―わかりました。そこまで仰るなら、粉骨砕身、義姉上のため微力を尽くします。必ず義姉上のご期待に応えてみせますよ」
【裏ショートストーリー】
天使のアイラ(お兄さまにこ迷惑おかけしてしまった。もうここにはいられないわ)
悪魔のアイラ(どうして? 気持ちに忠実に従っただけじゃねえか。それのどこが悪い?)
天使のアイラ(悪いわよ。お兄さまにこれ以上嫌われたくない)
悪魔のアイラ(気持ちを言葉にして伝えなきゃ、あいつには一生伝わらねえぞ!)
天使のアイラ(ダメよっ。私のことは妹としか思っていないのだもの。言葉にした瞬間、これまでの関係ではいられなくなるわ)
悪魔のアイラ(弱気だな〜。強気がお前の唯一の取り柄だろうが。攻めないでどうする?)
天使のアイラ(攻めて玉砕したらどうするのよ? あなた、責任取ってくれるの?)
悪魔のアイラ(バカか。オレが責任取るわけねえだろ)
天使のアイラ(だったら、やっぱりこのまま帰るしかないわ)
悪魔のアイラ(……何のためにはるばるブランシャールくんだりまで来たんだ? まったくの無駄足じゃねえか)
天使のアイラ(いいのよ。しょせん、報われない恋なのですもの)
悪魔のアイラ(血の繋がりはねえんだ。想いを遂げたって、何の不都合もありゃしねえ。それは既にオレたちの間で決着はついてるはずだぜ?)
天使のアイラ(それはそうなんだけど…いえいえっ。ダメよ、ダメ。お兄さまに嫌われたら、元も子もないわ)
アイラ「……ああっ、うるさい! 二人とも、いい加減にしてっ! これ以上、私の心を乱さないでっ。もう帰るって決めたのっ!」




