第262話 兄妹喧嘩は犬も喰わぬ
アイラは調練場へ足を踏み入れた。
一瞬で緊張感に包まれる。アイラは知らなかったが、模擬戦の真っ最中だった。
これまで戦場に立ったことなどない。しかし独特の雰囲気はすぐに感じ取れた。それは、天性としか言いようがない。
アイラは迷わず藪へ分け入った。すぐに兵の気配を感じた。藪の中に潜んでいる。音を立てず近づく。
やはりいた。およそ20ほど。敵を待ち伏せしているのに違いない。静かに一人の背後に立った。兵は気づかない。軽く肩を叩いた。兵は驚いて振り向いた。その顔に一発喰らわせた。兵はその場に崩折れた。
周囲にいた兵が異変に気づいた。そのときには身を滑らせ殴り倒した。あっという間に三人が気絶する。さすがにそのときには残りの兵に囲まれていた。
兵たちは一様に驚いた顔をした。それはそうだろう。調練場に綺麗なドレスを着た美女がいるのだから。
兵たちが戸惑っている間に跳躍した。ドレスのスカートが翻った。包囲の頭上を越え背後に降り立つ。相手を見もせずに回し蹴りを喰らわした。二人が吹っ飛ぶ。
兵たちがようやく動き出した。剣を向けてくる。しかし遅い。アイラは既に懐に飛び込んでいた。殴り、蹴り、また蹴って殴る。
敵のすべてが地面とキスをするのに、ものの5分とかからなかった。
藪の外で、歩兵部隊が走り去った。アイラは、藪から出た。間を置いて、騎馬隊が近づいてきた。先頭には。
「あっ!? お兄さまっ!」
アイラは笑顔で手を振った。サイノスは、馬を急いで止めた。驚愕のあまり薄墨色の瞳が見開かれている。
「アイラ!? こんなところで何をしている?」
「お兄さまが私の相手をしてくださらないから、来てしまいました」
「なんだと…!?」
サイノスは、ハッとしたように藪を見た。
「……待ち伏せか?」
「―!」
ふいに殺気を感じてアイラは横に跳躍した。たった今アイラがいた空間を刃が斬り裂いていた。いつも自然体のアイラが咄嗟に身構えた。
ゆらゆらと身体を揺らしながら、ミラベルが立っている。今まで相対したことのない、強烈な殺気がぶつかってきた。
(―この人、強い!)
思わず鳥肌が立った。ミラベルは、ただ身体を揺らしているように見える。しかし、アイラにはわかる。下手に手を出せば大ケガをする。
「―ミラベル!」
先ほどアイラの目の前を駆け抜けた歩兵が戻ってきた。
「なんだァ!? これはどういう状況だ? 伏兵はどうした?」
ミラベルとアイラが対峙しているのを見て、先頭の男が素っ頓狂な声を出した。だがアイラはそれどころではない。一瞬でも隙をみせたらミラベルが打ちかかってくる。脂汗がにじみ出てきた。
「二人とも、それまでだ! やめろっ!」
サイノスの大音声が轟いた。途端、ミラベルから殺気が消えた。アイラは、肩で大きく息をついた。呼吸するのを忘れていたことに、今初めて気がついた。
「……これが、『ブラッディ・ドールのミラベル』…」
アイラは、生まれて初めて戦慄という言葉の意味を噛み締めていた。
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「何を考えているんだ、お前はっ!」
サイノスは、怒鳴りつけた。兵舎の食堂である。
アイラは、ふくれっ面でそっぽを向いている。とても愛らしいその様子だけでも多くの男性を虜にしてしまいそうだが、今いるのは至宝天だけだ。
もっとも、イザクだけは、ポカンと口を開けてぼうっと見惚れていたが。
「調練中だぞ! 勝手に入ってくるなど言語道断! ましてや軍の敷地への無断侵入だ。普通なら拘束されて処罰ものだ!」
「……だあって、お兄さまは私のこと放ったらかしにしたままで、ちっとも構ってくださらないのですもの。つまらないから、暇つぶしに調練というものを少し覗いただけではありませんか」
「暇つぶしだと!? ふざけるな! お前のわがままでどれだけみんなに迷惑をかけたと思っているんだ!?」
「まあまあ、サイノス。そう頭ごなしに叱るなよ」
見かねたエーヴが口を挟んだ。サイノスは怒りで打ち震えている。
「確かに、調練場への不法侵入かもしれねえ。だけどよ、そもそもアイラを兵舎内に泊めたのは、サイノス。お前だぜ?」
「……」
「始めっから、軍の敷地内に入ってるんだ。それで調練場に入ったことを咎めても仕方ねえだろ」
「……」
「そ、それに、アイラの拳術は、す、凄いよ。わ、わたしの小隊二つ、一人で全滅させられちゃったんだから」
ミラベルは手を叩いた。彼女なりにアイラを称賛したらしい。アイラは、なぜか唇を噛んで下を向いた。
「そんなものは、何の免罪にもならん!」
サイノスの怒りは容易に収まらない。
「俺は、こいつの性根が気に食わん。勝手に押しかけてきたのはアイラのほうだ。それを誰も相手にしてくれないだの、つまらないから暇つぶしで乱入しただの、そんな自分勝手は到底許すことはできない」
「―だったら、処罰してください」
アイラは挑戦的に桔梗紫色の瞳を兄へ向けた。
「お兄さまから罰を受けるなら本望。どうぞ、お好きにご処分を」
「なんだと…!?」
サイノスは目を瞋らせ立ち上がった。
「……よく言った。妹の不始末は兄である俺自らがケリをつける。俺と立ち合え。この手でそのそっくり返った鼻をへし折ってやる」
「えっ…!?」
アイラではなく、エーヴのほうが驚いて腰を浮かせた。
「ちょ、ちょっと待てよ、サイノス。相手は妹だぞ。何も立ち合わなくたって―」
「へえーっ。面白そうだね」
エーヴの声をかき消すように、ジュスタンが声を弾ませた。
「世紀の兄妹対決だ。やれやれ!」
「ジュスタンっ! 煽るようなこと言うんじゃねえっ」
エーヴはお気楽なジュスタンに噛み付いた。しかしジュスタンはどこ吹く風で、
「いいじゃないの、エーヴ。アイラは既に、小隊長クラスの実力の持ち主であることを証明している。真の実力がどんなものか、サイノス相手で計れるというものさ」
「そんなこと言ったって…」
「―お兄さまと立ち合えるなんて、願ってもないこと」
心配そうなエーヴなど眼中にないかのように、アイラも立ち上がって言った。
「ただし、条件があります」
「条件だと? お前、立ち場がわかっているのか?」
「まあまあ、サイノス」
ジュスタンが間に入った。なぜか俄然張り切り出した。
「彼女の言い分を聞こうよ」
「……」
無言を肯定と取って、ジュスタンはアイラを促した。
「もし私が勝ったら、一日デートをしてください」
「なっ…!?」
絶句したのは、当事者を差し置いて、またまたエーヴであった。
サイノスはというと、何かを測るように無言でアイラを見つめている。
「面白いっ! その条件、乗った!」
ジュスタンがはしゃぐ。エーヴは、キッと睨みつけた。
「てめえが決めるんじゃねえっ!」
「―いや、エーヴ。俺は構わない」
「そ、そんな…サイノス…」
エーヴはショックを受けてよろめいた。それを健気にミラベルが支えた。
「無論、こっちも条件をつける。俺が勝ったら、ルプスへ帰れ」
一瞬、アイラの桔梗紫色の瞳が妖しく光った。
「……ええ、いいですわ。どうせ勝つのは私ですから」
「―ちょっと待ったぁーっ!」
ジュスタンが割って入った。ノリに乗ってる。
「レディにドレスを着せたまま立ち合わせようっていうの? 不公平だよ」
「……」
「彼女にも軍服を貸してあげなよ」
「……エーヴ! お前の軍服を貸してやれ」
ジュスタンの言をもっともだと思ったのか、サイノスは怒鳴るように言った。
「えっ…!? わたしの…?」
「そうだね。背格好は同じくらいだから、ちょうどいいかもね」
びっくり顔のエーヴにジュスタンがうなずいた。ただ、目は笑っていたが。
「……エーヴさま。お願いいたします」
「……お、おう」
「わ、わたしもお手伝いするっ!」
ミラベルが元気に飛び跳ねた。
こうして女性陣は、エーヴの部屋へと消えていった。
そして、しばらく時は過ぎた。
着替えが終わったらしく、女性陣は足音高く戻ってきた。すると―
「―あはっ」
アイラを一目見て、ジュスタンが吹き出した。
確かにエーヴとアイラは背格好が同じだから、サイズはピッタリだった。……一部を除いて。
胸が今にもはち切れそうにパッツンパッツンだったのだ。軍服のブラウスに収まりきらず、谷間が丸見えだった。ボタンも可哀想に悲鳴を上げている。
「……エーヴ。きみのせいじゃないよ。決して」
お腹を抱えて笑い転げるジュスタンを、エーヴは親の仇のように睨んだ。
「……殺すっ!」
「お、怒らないで、エーヴ」
ミラベルが抱きついた。胸に顔を押し当てた。
「わ、わたし、エーヴのちっちゃい胸、す、好きだよ」
「ミラベル…はっきり言うなよ…」
この世の終わりのような顔で、エーヴはがっくりと肩を落とした。
「……やべっ! 鼻血、出た」
イザクが鼻を押さえて後ろを向いた。
「―そんなことは、どうでもいい」
サイノスは、立ち塞がるようにして、アイラの前に出た。
「立ち合いの条件、忘れるなよ」
「当然ですわ。お兄さまこそ、反故になさならいでくださいね」
兄妹の間に、早くも火花が飛び散った。
【裏ショートストーリー】
ジョエル「まさかあの女、サイノスの妹だったとは、たまげたな」
レイモン「面目ない」
ジョエル「……伏兵はお前が率いてたんだよな。手も足も出なかった、というのは本当か?」
レイモン「本当だ。気づいたときには3、4人やられてた。サイノス隊の伏兵返しかと慌てて取り囲んだんだが、相手はドレスを着たべっぴん一人だけときてやがる。戸惑っているうちに次々やられちまった」
ジョエル「大したもんだ。入隊すりゃ、すぐに小隊長間違いなしだぜ」
レイモン「ありゃあ、至宝天並みの化け物だ。小隊長どころか、中隊長だってすぐになれらあ」
ジョエル「あのミラベルが、対峙したまま動かなかった。下手に突っかけりゃ、手痛い反撃が来るとわかってたんだ」
レイモン「まさに鉄拳の妹だ」
ジョエル「でも、サイノスは、えらい怒ってたぜ」
レイモン「そりゃ、そうだろ。部外者が調練場に入ってくるなんざ、前代未聞だし、軍の恥だ」
ジョエル「恥ったって、兵舎に泊めるからだよ。セリーヌに頼んで皇宮に泊めりゃ良かったんだ」
レイモン「そこはそれ、久し振りに会った妹だろ、側に置きたかったんだよ」
ジョエル「あれだけの美人だしな」
レイモン「彼女、軍に入らねえかな」
ジョエル「……お前、何を考えている?」
レイモン「ミラベル隊に入ってくれば、優しく教えてやるのによ」
ジョエル「……鏡見てから言え」
レイモン「ざけんなっ! お前にだけは言われたくねえっ」




