ギデオン5
何が起きたかは分かっている。
クリスティナがキスをしてきたのだ。
目には見えているのだが、頭がついていかない。
「ギデオン様、私を傷物にしましたね」
「してない」
「ちゃんと、責任を取ってください」
そもそもキスしてきたのはクリスティナだ。侍女も止めればいいのに。
クリスティナは首に手を回したまま離れず、そのまま頭をギデオンの胸に預けた。
「私のことが嫌いで邪魔なら、そうおっしゃってください。私を利用したとか、婚約を破棄したかったとかじゃなくて。はっきりおっしゃってください。私とは結婚もしたくないし、顔を見たら虫唾が走るし、私よりもルナさんの方がいいのだと」
視線を落とすと、震えるクリスティナのつむじが自分の肩辺りに見える。
なんでこんなことになっている?
話をして呆れ果てられて婚約をなくしてさっさと帰るはずだったのに。
「クリスティナ、今の君はおかしい。公爵令嬢らしくもない」
「ずっと魅了でおかしかったんですから今更です。ギデオン様だって、おかしいです。黙ってキスを受け入れて、私のことが嫌いなら叩いて不敬だと叫んでもいい案件なのに、それもしない」
それはそうだ。あの男爵令嬢に同じことをされていたら叩いて騎士に捕縛させていただろう。
「それに、魅了にかかったフリだって……するならもっとちゃんとやってください。他の方みたいにあの男爵令嬢が婚約者に見えたとか、他の好きな人に見えたとか言って下されば……私はこんなことしなかったのに。ギデオン様が全部中途半端だから、私はあなたを嫌いになれないんです……」
好きな女性に抱き着かれてこんなことを言われたら、弱い心は簡単に流された。そもそも、クリスティナはいつも公約令嬢らしく毅然としていてこんなに縋りつくようなことはしない。きっと自分も彼女も動揺している。
「あんな女がクリスティナに見えるだなんて、そんなこと言えるはずがない」
クリスティナが顔を上げる。涙の溜まったハシバミ色の目が綺麗だった。
「あの女のことを愛していると嘘は言えても、あの女とクリスティナを重ねて見ることなどあり得ない。クリスティナはあんな媚びた声を出さないし、あんな上目遣いだってしないし、もっと教養のある話をするし、所作だって全く違う」
こんなに情けなくても、譲れない一線はある。
ギデオンが好きになったクリスティナは、あんな男爵令嬢のようなことはしない。
アイザックの話を聞いて、ルナの使う魅了はウェリントン領に出る魔物と同じで、幻覚を見せるようなものだと分かっていた。その幻覚は該当人物の最も大切な人だ。そしてその大切な人本人のことは認識できなくなる。
アイザックには十三歳のマグノリアが見えたため、彼は大いに混乱したのだ。マグノリアは十八歳の外見でなければならないはずなのに、アイザックの記憶の中のマグノリアは十三歳で止まっているからこそ、そう見えたのだ。
その時ついでに記憶が戻ったことは良かった。王妃の罪が消えるわけではないが、それでも苦しむ人が減るなら良かったのだ。
「ギデオン、様? それって……」
湿った声で呼ばれたが、クリスティナの肩を押して距離を取った。
これ以上はいけない。
「クリスティナ、俺たちに未来はないんだ。俺は王太子の座を下りて、あとはマグノリア次第だが他国に婿入りするか、ルナの父親が治めていて今回罰として没収された男爵領を治めることになるのか……」
「ギデオン様は、本当に中途半端です。もっと、早く言ってくれれば……私は……」
「クリスティナにもリヴィングストン公爵家にも俺の我儘で迷惑をかけたな。本当にすまなかった。クリスティナのことは好きだったよ。だから、幸せになってくれ」
クリスティナが転ばない程度の力で押しのけて、ギデオンは今度こそ去ろうとした。
彼女ももう何も言ってこないので、唇を噛みながらも公爵邸の庭に咲く花をぼんやり眺めながら歩き去ろうとした時だった。
後ろから腰のあたりに衝撃があった。
驚いて霞んだ視界の中で何が起きているかよく見ると、クリスティナが腰に後ろから抱き着いてきたところだった。
「ギデオン様。リヴィングストン公爵家に、婿入りしてください」
「それはできない。親戚の子供が継ぐ予定だっただろう。君は彼と結婚すれば公爵家に残れるし、他にいい縁談もある」
「彼には好きな令嬢がいて、そっちに婿入りを考えていたんです。あとは、両親とマグノリア王女殿下にお願いしましょう。王女殿下だって、リヴィングストン公爵家を敵に回したくないはずです」
何もしてこなかった自分にこんな都合のいいことがあってはいけない。
それなのに、何度も練習した拒絶する言葉が出てこない。王妃を切り捨てて、こんなにいいことがあっていいのだろうか。
「ギデオン様は、確かに王太子には向いていません。だって、今日のギデオン様の言葉は全部、私のことが大切だって聞こえましたから。全然、隠せていません」
「罵れば良かったな」
「本当に、そうですよ」
「俺は弱くて中途半端な人間だから、好きな女性に嘘でもそんなことはできなかった。母の脅威があればできただろうが、母は部屋からもう出てこられないしな」
腰に回されたクリスティナの細い白い手をそっと撫でる。
「俺なんかを選んだら絶対に苦労する。やめるなら今のうちだ」
「私はそれでも、ギデオン様と一緒にいたいんです」
この手をまた取っていいのだろうか。
その迷いを見抜いたかのように、クリスティナは手に力を入れて抱き着いてきた。
好きな女性に情けない姿を見せたのに、これほど好きと示してもらえるのは奇跡だろう。
クリスティナの手を今度はちゃんと握った。
「私たちは全員元通り……元サヤという結論なのでしょうか」
「……いいや、あと一組がまだだ」




