イライザ5
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しばらく、医務官アデルが道具を片付ける音だけが響いた。
ルーフォスは視線を彷徨わせたり、口を開けたり閉めたりして結局何も言わない。
しかし、イライザの手のひらにしか傷がないと分かったようでほっとした表情になった。
「酷い怪我をしたのかと思った」
独り言と主張してもギリギリ通るような声だった。
ルーフォスはいつもこうだった。
彼を放置して引ったくりやスリを捕まえて戻っても、いつもこんな風に柔らかく笑う。
あぁ、でも、ごろつきに絡まれた時は違ったな。あの時は目を逸らした。
「じゃ、じゃあ私はこれで」
アデルはそそくさと立ち去ろうとする。
「おい」
振り返っていないが背後でアデルがびくびくする気配があった。
「面白い謝罪の方法を考えておけよ」
か細い返事が聞こえたような気がしたが、それでもイライザはルーフォスを見つめていた。
なんだ、魅了持ちの魔物だというからもっといいものを見せてくれるかと思っていたのにあの程度か。
現物と幻覚のルーフォスは全然違うじゃないか。
幻覚みたいにシャキシャキしていないし、どの程度の速度で走ったのか知らないが目の前のルーフォスはみっともなく息を切らしているし。
それでも、イライザは己の無事を無邪気に喜んでいるこの男が好きだったのだ。
「今、魅了持ちの魔物を倒して機嫌がいい。マグノリアに何を言われてここに来た?」
「ここに来ることを決めたのは、王女殿下の助言じゃなくて私自身が決めたことだ」
「でも、何か言われただろ」
「……素直になれ、とだけ」
また舌打ちしそうになる。
クライヴには具体的な案を示しておいて、ルーフォスには素直になれとだけ?
「あんなものに引っかかるお前は愚かだ」
「うん、私もそう思う。情けないし愚かだ」
「大体、学園で二年になった辺りから私を避けたのはなんだ。あの頃はあの変な令嬢はいなかっただろ。魅了なんて関係なく私のことがどうでもいいのなら、もうこんなおかしな茶番はしなくていい」
「それは、違う。その、イライザの腰巾着とか子分とか、釣り合ってないって言われたのを気にしただけで……」
「なんで、どうでもいい雑魚の言い分を気にする。私はルーフォスの腕っぷしのことなんて気にしていない。私が守ってやる」
そもそもそんなことを気にしていたら最初から「こんな婚約者は嫌だ」と駄々をこねてどうにか解消に持ち込んでいる。
「気にするよ。だって、イライザは出会ってからずっと変わらずにカッコいいから」
「それで……浮気したのか。魅了で」
ルーフォスからのカッコいいという賞賛はいつも心のどこかを満たしてくれる。このウェリントン領では、その賞賛はいつも兄や父のものだったから。
でも、イライザだって分かっている。
魅了持ちの魔物が見せる幻覚は、生死は問わず大切な人の姿と決まっているのだ。だからこそ人間たちは騙される。
皮肉にも魅了持ちの魔物のせいで、イライザはまだ自分がルーフォスのことを好きだと突きつけられていた。兄リカルドの姿だったら、兄が森に入るのはよくあることなので騙されたかもしれない。
「うん、ごめん……全然似てないのに、彼女をイライザだと認識していた」
イライザも魔物がルーフォスに見えていた。魔物のくせに臭くもなかったし、人の言葉を喋っていた。なんて恐ろしい。
「イライザはもう私のことを信用できないと思う」
「あぁ、そうだな」
「でも、多分、他の男性のことも信用できないと思うんだ。もし魅了にかかったらって。私みたいに裏切るって脳裏にその考えが付きまとうと思うんだ」
「お前に言われる筋合いはない」
言われる筋合いはないが、図星だ。
自分の隊の騎士たちも誰一人魅了を破れていなかった。訓練して鍛えて、魅了持ちの魔物が出ると警戒している騎士たちでもだ。
イライザだってあと数秒手のひらを切るのが遅かったらまずかった。
「イライザが誰も信用できなくても、私は側にいたかったんだ。イライザが男性を信用できなくなるのは私のせいだから。だから、誰か他の男性を婚約者にして信用できなくてケンカして傷つくよりも、私を責めてほしかったんだ」
こいつはバカなのか。
裏切られたことは簡単に忘れられない。もしかしたら一生ルーフォスを責め続けるかもしれない。そんなずっと責められる結婚がしたいだと?
「私が一生許さない場合はどうする。どうせ嫌になる癖に」
「それでもいいよ。だってイライザは私のそのままを見てくれる人だから。イライザをカッコいいと思うのも私だし、ごろつきに恐怖して一歩も動けないのも私だし、魅了にバカみたいに引っかかったのも私なんだ。自分がやったことで責められるなら何の問題もない。だってイライザは私の腕っぷしが弱くても怒らない」
「小柄で可愛い令嬢のところに行った癖によく言う」
「本当にごめん……私はイライザのことをずっと、最初から、カッコよくて素敵な女の子だと思ってる……自分にはもったいないくらいの婚約者だなって」
イライザはルーフォスをじっと眺めた。
彼がウェリントン領に来てから、むしゃくしゃして心で暴れ回っていた感情が今は静かだ。
「なぁ、あの王女様は何を考えているんだろうな」
「マグノリア王女殿下のこと?」
「そうだ。あいつしかいない。なんでわざわざ半年間も懺悔なんて」
「魅了にかかっていた日数もあるけど、半年だったら学園の卒業パーティーにちょうど間に合うからじゃない?」
イライザはまた舌打ちしそうになる。
すっかり忘れていた。
「なんで分かるんだ、そんなこと」
「考えてみてちょうどそのくらいだなと。魅了にかかっていた日数ももちろんあるけど、私たちも半年間ずっとかかっていたわけじゃない。最初は近づいてきたあの令嬢をスパイかなと警戒していたし……だから厳密ではないけど半年間はおかしいなと思って……じゃあ、もしかしたら王女殿下は卒業パーティーに間に合うように区切ったのかなって」
あの王女。本当にどういうつもりだ。三組とも婚約を続行すると最初から思っていたのか。
それじゃあ、あのバカ王太子は失脚しないじゃないか。
イライザは思わず立ち上がって屋敷に戻りかけ、ルーフォスを振り返った。
「私はお前を完全に許したわけじゃない。信用も信頼もしてない」
イライザの背を見送ろうとしていたらしいルーフォスはその場に立ったまま、神妙に頷く。
「どうせ次も魅了に引っかかるんだろうと思ってる」
「耐性ができていたらいいんだけどね……」
イライザはプライドの高い男が好きではなかった。
弱いくせにこちらを女だと見て侮って見下す奴も嫌いだ。性別だけで優位に立とうとするなんて虫唾が走る。
ルーフォスの兄なんてものは本当に嫌いだ。股間でも蹴り上げてやりたいくらいにアホだと思っている。
「だから次からは素直に言え。ちゃんと。私が嫌になったと」




