Be positive
ーーー青山鈴音視点になりますーーー
オルフェルさんと別れた私は、確かに喫茶店の出口を出たはずだった。
けれど――気がつけば、暗がりの中で、一筋の光を見つめていた。
神々しく輝くその“何か”の中には、誰かがいるような気がする……オルフェルさん?
――違う。
オルフェルさんじゃない……何故か分からないけど、それだけは確信できた。
じゃあ……誰?
気がつけば、私はその光に導かれるように、自然と歩き出していた。
けれど、ふいに足元に違和感を覚える。
「……なに?」
暗闇に視界は効かない。
けれど確かに、何かが足を――
「誰か……いるの?」
返事はない。代わりに、静かに、美しく光る先の光景が私を誘い続けていた。
それでも私は、何かに惹かれるように前へ進もうとする。
だが今度は――肩を、腕を、腰を、頭を……全身を掴まれ、動けなくなった。
「な、なに……これ……」
その問いかけに、ようやく暗がりに潜む何かが応えた。
――イタイ、イタイ。
「……えっ?」
――シニタクナンテナカッタ……。
――ユルシテホシカッタ……。
ぬるり、と闇の中から現れたそれは、亡者のように呻きながら、ただ涙を流しているように見えた。
「ひっ……」
恐怖が、心の中を這い回る。
――ア……ア……タ……イ……アタタ……カ……イ……。
やだ、やだやだ。動けない。怖い。わけが分からない。
――オカ……ア……サ……ン……。
「……え?」
目の前にいたのは……人間ではなかった。
小さな動物のような、泣き顔の――何か。
その瞳が、私と合った瞬間。
――クライ……ノ……サム……イノ……オカア……サ……ン……。
そして私は、思い出した。
あの場所――書庫。
オルフェルさんと出会う前、魔石の世界に入り込んだ時に最初にいた場所。
そこに並んでいた本は、魔石と関係する者たちの記録だった。
魔石に取り込まれた者、失敗し命を落とした者、再生した者、破壊された者……。
そこにいた彼らもまた、同じように魔石に縛られた魂なのかもしれない。
自我は失っていても、彼らはまだ、この場所で苦しみの中にいたんだ。
命も、身体も、心すらも失って、なお……絶望の中で、誰にも届かぬ声を上げて。
私に群がってくるのも、生者だから?
オルフェルさんに自我があったのは、資格があったから……?
分からない。分からないけど――胸が、張り裂けそうだった。
こんなに、こんなに悲しいことってある?
この暗がりで、ずっと泣き叫んで……誰にも届かないままなんて――でも、泣いちゃダメだ。
負の感情に魔石は反応する。
なら私は……私が届けなきゃいけない言葉がある。
だから私は、彼らに微笑んで言った。
「もう、絶望しなくていいんだよ。その苦しみも、悲しみも――全部、私が預かる。あなたたちの想いを、私が背負う。あなたたちの叫びを、希望に変えてみせる。だから……だからもう、この場所に縛られなくていいんだよ。 さあ、一緒に行こう。この世界を、私が――変えてみせるからっ!」
私は、彼らを受け入れた。
涙ではなく、笑顔で。
その瞬間――光が暗闇を切り裂いた。
神々しく、優しく、包み込むような光。
その中心にいたのは、かすかに微笑む“未来”だった。
ーーー
私は、顕現した。
魔石――クリスタルから解放されて……いや、違う。
スーフィングスさんは、私を媒体として魔石の力を行使している。
私の意思を超えて、いまもなお彼の身体からは魔力が溢れ続けている。
この力を、どう止めるか――。
負の感情。それは、生きていれば誰もが抱えるもの。
だがそれと同じように、生の感情もまた、誰もが持っているはずだ。
ということは、前を向く私の中にも、まだ――負の感情があるということ。
感情とは、紙一重。
ほんの些細なきっかけで、良くも悪くも転がっていく。
それを完全になくすのは、簡単なことじゃない。
だけど、私は決めたんだ。
どんなに最悪でも、どんなに絶望が押し寄せても――笑って、前を向いて、元気よく、生きていく。
マイナスが生まれたなら、プラスで上書きするの。
-50なら+100。
-100なら+1,000。
-1,000なら+10,000!
そして、マイナスを完全に打ち消す。
それが、私の選ぶ生き方。
Be positive。
私は、もう振り返らない。
絶望を笑い飛ばして、希望に変えて、皆の哀しみを――未来へとつなぐ。
だから今、この瞬間に。
私は負の感情を、手放してみせる。
私なら……私なら、きっとできる!
「スーフィングスさん。あなたの絶望は、私が晴らします。それが――オルフェルさんの、願いだから!」
私は白き光を纏い、地上へと舞い降りた。
オルフェルさんも、気づいてくれているだろうか。
あの暗闇の中で、私が出会ったもの――それは、未来。
神々しく、美しい光に包まれた、確かな未来だった。
それを、今ここに成すために。
スーフィングスさんを、解放しなければならない。
魔石という名の、負の連鎖から……!
『……ふざけるな』
私の願いに、鋭く反発する声が返ってきた。
『君に……僕の何が分かるっていうんだ? オルフェルの願い?君が……僕たちの、何を知ってるって言うんだっ!』
スーフィングスさんの身体から溢れる闇は、あまりにも禍々しく、深く、重い。
「クリスタルの中で……私は、オルフェルさんと会いました。彼と話して、彼の想いを聞いた。そして……あなたとの出会いを、教えてもらったんです」
『嘘だっ!!』
怒りに満ちた叫び。スーフィングスさんの瞳が、血のような深紅に染まる。
『オルフェルは、この世界の人間に殺されたんだ……!僕がそばにいれば、そんなことにはならなかった……志半ばで、終わってしまったんだ!!』
「――愛する人を、生き返らせようとしたんですよね」
その一言に、彼の動きが止まる。
表情に、明らかな動揺が走った。
「オルフェルさんは“魔石”と呼んでいました。膨大な魔素の源……それは、世界中の負の感情や穢れの集合体。だからこそ彼は、我を忘れ、すべてを憎んでしまった。 その結果、あなたをも……自分自身さえも、見失ったんです」
『ほ、本当に……会ったのか? オルフェルに……?』
私は、真っ直ぐ頷く。
たとえこの瞳が砕けようとも、逸らさない。
『オルフェル……オルフェル……』
一瞬だけ、スーフィングスさんの瞳から深紅の色が消えかける。
……だが。
『違う……嘘だっ!彼は、僕にだけ教えてくれたんだ!大切な人を理由に逃げ出したって……弱さを、僕だけに見せてくれたんだ……!オルフェルと僕には、特別な絆があるんだっ! 君みたいな他人に、見せるはずがないだろっ!!』
その叫びと共に、額に禍々しい魔力が凝縮されていく。
『認めないっ……!オルフェルは僕を待っているんだ!僕が彼を復活させて、この世界にいるすべての人間を蹂躙する、その日をっ!!』
これは……私の中の負の感情ではない。
スーフィングスさんの中に渦巻く、嫉妬と哀しみ、そして絶望の穢れ。
『もう、お前なんかいらない……オルフェルと僕の絆を汚す奴は、みんな――死ねばいいっ!!』
――額から放たれた魔力が、私を狙う。
「お、おいっ! 逃げろ!!」
振り返ると、満身創痍の男が叫んでいた。
全身を血で染めながら、それでも他人の命を案じるその姿。
やっぱり、この世界は……闇に満ちてなんかいない。
「大丈夫です」
私は、静かに微笑んで返した。
命あるものは、笑顔でいなきゃいけない。
どれだけ哀しくても、苦しくてもーー嬉しい、楽しい、愛おしい。
その気持ちが、この世界には、ちゃんとある。
「スーフィングスさん。あなたは……一人じゃないっ!」
私は白き光を全身に纏い、それを解き放った。
放たれた光は天へと昇り、空に向かって――聳え立つ光柱となる。
「こ、これは……!」
その光は爆発的に膨れ上がり、スーフィングスを、ワンを、王国軍の崩壊寸前の残党を、焼け焦げた草原も、崩れた街道も――すべてを包み込んだ。
「世界は、こんなにも美しい。こんなにも、明るい未来が広がっている。届かない想いなんて、きっと、ひとつもないんだ……!」
温かい。優しい。
説明はつかない――けれど、この光に包まれた者たちは皆、そう感じていた。
まるで、心の穢れが浄化されていくかのように。
「……私はこの世界に来る前、保護猫喫茶で、傷ついた子たちと出会いました。彼らの姿を見て、こんな私でも、何かできるんじゃないかって思った。何も持たない私だったけど……あの子たちのために、何かをしたいって、そう思った。絶望は、どこにでもある。私のいた世界でも、この世界でも。だけど、絶望があるということは――希望もまた、あるということ。その想いは、きっと光になる。だから私は、進むための道標になる。どんなに苦しくても、私が導く光になってみせる。もう、誰にも絶望なんてさせない。私を通して、思い出して、この世界の美しさを。 あの温もりを――っ!」
スーフィングスさんは私を媒体として、負の感情――クリスタルの力を使っている。
ならば、同じ媒体である私から生の感情を送り込めばいい。
魔石の中にある想いごと、繋げてしまえば――スーフィングスさんは、きっと再会できる。
『あ……なんで……こんなに温かいんだ……オルフェル……僕は……君を失って三百年……ずっと、ずっと一人で……君を想い続けて……』
深紅に染まっていたスーフィングスの瞳が、白き光によって本来の色を取り戻す。
その巨大な魔獣の姿は、次第に崩れ――残されたのは、小さな黒猫の姿だった。
その小さな身体を、そっと包み込む誰かの腕。
「……すまなかったな」
『えっ……?』
聞き覚えのある、あの声。
その光の中に立っていたのは、Yシャツにサスペンダー付きのズボンを履いた――あの男。
『オ、オルフェル……!? オルフェルッ!!』
「……長い間。本当に、長い間――私のことを想い続けてくれていたんだな。ありがとう」
スーフィングスは、いや、“スー”はその胸の中で、ぽろぽろと涙をこぼす。
けれどその涙は――悲しみではない。
生の感情から生まれた、美しい雫。
『いっぱい……いっぱい話したいことがあるんだ!オルフェル! 僕、ネコヴァンニャを……ヴァンニャを守ってきたんだよ……!』
「そうか……本当に偉かったな、スーは」
『スー……嬉しいな……! そんな風に呼んでくれるの、オルフェルだけだよ……!』
その言葉に、オルフェルは静かに首を振る。
「もう一人、いるだろう?」
『……え?』
オルフェルが穏やかな笑みを浮かべながら、ある一点を指差す。
その先に立っていたのは――私。
『……スズか』
「鈴、と仲良くなったものだな」
『え? な、仲良く……なったのかな……』
「なっただろう。その呼び方はきっと、私がスーと呼ぶのと、同じ意味を持っていると思うぞ?」
黒猫の顔が、耳の先まで真っ赤になる。
小さな肉球で、オルフェルの胸をぷにぃっと叩く。
「ははは、図星だったか」
『いいじゃないか。だって……ムルカと三人でいたあの時間、なんだかんだ楽しかったんだから……ム、ムルカ……』
「どうした?」
『……ムルカ、し……死んじゃったんだ……そうだ、ムルカは……人間たちに……』
幸せな光景の中にも、ふと芽生える負の感情。
だが私は――否定しない。
けれど、沈ませもしない。
オルフェルさんも、それを分かっていたのだろう。
彼は優しく、スーの頭を撫でながら語りかけた。
「……大丈夫だ。スーに分かりやすく言うなら……魔石とは、負の感情によって生まれた穢れの集合体――だと、私もそう思っていた」
『……何の話?』
「けれど、違っていたんだ。それを教えてくれたのが――青山鈴音さんだ」
オルフェルはスーを抱きしめたまま、私に微笑みかける。
「彼女が戻ってくる時に掴んだ光……それは“未来”だった。あんなものが魔石の中にあるということは……」
そして、言う。
「あれは確かに魔石でもあるが、同時に――まったく別の石でもあった。そういうことだろう?」
その微笑みに、私は満面の笑みで応えた。
「はい。負と生が紙一重のように……魔石、いえ――クリスタルの存在もまた、紙一重なんです」
それはつまり――クリスタルは、生の感情すらも取り込む、“光の石”でもあるということ。
あの石の中には確かに、負の感情が多く沈殿している。
オルフェルさんの日誌が納められていたあの書庫も、光を感じ取れるような場所ではなかったかもしれない。
闇の中で、絶望を叫び続ける想いばかりが詰まっていた……書庫に並ぶ本たちもまた、負の記録に満ちていたのかもしれない。
でも、でもね。
私が、オルフェルさんの日誌を読んだのと同じように――オルフェルさんもまた、私の日誌を読んでくれていた。
クリスタルの世界に飲まれたばかりの私が、あの“図書館”のような空間で戸惑っていたとき――
確かに、オルフェルさんの声を聴いた。
彼は私の綴った言葉を見て、呟いたのだ。
「面白いな……」
「幸せだったんだな」
と――。
私は、この世界に来るまでは人付き合いが下手で、人の気持ちを汲み取るのも苦手だった。
それでも、彼氏ができて、保護猫喫茶の店長と出会い、心に深い傷を抱えた猫たちと向き合って――「私にも、何かできるかもしれない」と思えるようになった。
未熟で、稚拙だったかもしれない。
でも私は――確かに、変わった。
満たされていた。幸せを感じていた。
そんな想いも、あの場所では“読む”ことができるのなら――クリスタルは、もはやただの魔石なんかじゃない。
何度も言うように、感情は紙一重。
ほんのわずかな出来事で、生にも、負にも揺れ動くもの。
たとえ失ってしまった想いでも、そこにあるのは闇だけじゃない。
光もある。物語がある。
綴られた本たちには、その一つ一つに、確かな“生きた証”が宿っている。
だからこそ、クリスタルは触れる者の心に強く反応する。
負の感情を抱いて触れれば、魔石となり。
生の感情を持って触れれば、光石となる。
もちろん、それを受け止められる“資格”が必要なのかもしれない。
けれどオルフェルさんの言葉を借りるなら――あの石を作った者は、“神”なのかもしれない。
ネコヴァンニャの洞窟は、負の想念が集まりやすい場所と言われている。
だけど、生の想いだって……きっと、そこには眠っている。
見えなくとも、確かに誰かはそこにいて、見ている。
神は試練を与える存在かもしれない。
だけど――負の感情に呑まれず、希望を灯し、未来を信じて生きようとする者にこそ、奇跡は訪れる。
その奇跡を、私は知っている。
だから私は、クリスタルに込められたそれぞれの想いを――光に導く。
暗闇に迷う者を照らす道標として、明日へ、未来へと連れていく。
異なる経緯でこの世界にやって来た“資格者”たちは、きっとそのために選ばれたのだ。
オルフェルさんはかつて負の感情に囚われ、過ちを犯したかもしれない。
けれど、今――彼は悔いている。
スーフィングスさんに「申し訳なかった」と、深く、強く。
その悔いもまた、決して無駄じゃない。
彼だけじゃない。
この世界にいる誰もが、哀しみや苦しみを抱えて生きている。
その想いを綴っていくのは、今を生きる者たちだ。
だから私は、この世界の人々と――モンスターたちの間にあるわだかまりを解いていく。
想いを、未来へ連れていくために。
光ある未来へ、共に――。
「だから、オルフェルさん。クリスタルとは魔石だけではなく、光の石でもあって……想いひとつで、善にも悪にもなれるものなんです」
私の言葉が届いたのか、彼は――押し黙った。
そして、静かに体を震わせる。
『オ、オルフェル……大丈夫?』
「……あぁ。大丈夫だ。大丈夫だよ、スー」
彼は深く呼吸を整え、天を仰ぐ。
「神よ……あなたは私に、試練を与え、その先にある“奇跡”を掴み取れと――そう、導こうとしていたのですね。大切なものを喪った私だからこそ、私を選んだのですね」
その目から零れ落ちる涙は、たしかに後悔という負の感情から来たものだった。
でも――
「オルフェルさん。もう、哀しむ必要はありません……私は、オルフェルさんを絶望で終わらせたりなんて、しません」
「こんな愚かな私に……君は、何をしてくれるというのだい?」
私は、笑った。
心からの、晴れやかな笑みを浮かべて。
「私とオルフェルさんは、違う世界から来ました。魔法によってこの世界に連れて来られた私と、神に呼ばれたあなたでは、確かに経緯が異なります。でもきっと、それにも意味があるんです。想いは経緯を越え、世界すら越えて届きます――だから、私が……届かせてみせますっ!」
私は右手を天に翳す。
神は、試練ばかりを与え、与えるばかりで何も施さないのかもしれない。
苦しみしかないこの世界では、どんなに足掻いても光は得られないのかもしれない。
ならば、道を誤った者に、二度と光は届かないのか?
闇に堕ちた者に、救いはないのか?
――否。
どんな者にも、希望はある。
光はある。
救いがなければ、命は輝けない。
だからこそ、誰にでも、奇跡は訪れる。
「こんな……これは夢なのか……私は、夢を見ているのか……?」
オルフェルの目が、天から舞い降りる“それ”に吸い寄せられる。
哀しみの涙が、今――嬉し涙へと変わる。
滲む視界の先に、確かに“それ”はいた。
これは幻でも夢でもない。
今、この瞬間、この現実に。
「……会いたかった。私は、君に……君に会いたかったんだ……!」
オルフェルの目に映ったのは、彼が命を懸けて愛し続けた……一人の女性の姿だった。




