魔より生を呼び戻す声
---ワン・グレイグ視点になります---
みんなが……夢見た光景と同じだ……このままじゃ……みんな……みんな死んでしまう……。
満身創痍のワン、その身体は、圧倒的な暴力の連続により深く傷ついていた。
彼はこの一週間、バリスの都の休憩スペースに匿われ、籠の鳥のような生活を強いられていた。
その間、見るのは悪夢ばかり――そして昨夜。
マスター、ガリス、冒険者たちだけでなく、王国軍すらも無惨に敗れるという悪夢を見た。
「これは……正夢なのではないか」
そう感じた彼は、マスターとの約束を破り、一週間ぶりに外へと飛び出した。
だが運悪く――王国軍からわざと後れを取っていた、兄ザナクス率いるグレイグの一団と遭遇してしまったのだ。
退く選択肢などなかった。
「道を開けてくれ!」
そう懇願するも、ザナクスは冷淡にそれを突っぱねた。
ワンは強行突破を試みた。
だが――捕らえられた。
そしてそのまま、兄の鬱憤のはけ口として、容赦のない暴力を浴びせられた。
ザナクスは、殺さぬ程度に痛めつけ、治癒魔法で治してはまた傷を負わせるという非道を繰り返した。
その怒りの矛先は、ベールド、ミュルク、マーマレードといった王国軍の面々へ向けられていたはずのもの。
それを――血の繋がった弟にぶつけていた。
「聞いているのか?」
ザナクスは血まみれで倒れるワンの元へ歩み寄ると、無慈悲に馬の蹄でその身体を踏みつけた。
「ぐあぁああああ……!」
骨のきしむ音が耳に刺さる。
「起きているな? 私の問いに遅れるは死に繋がる。実の弟であっても例外ではない」
「……お、お願いです……兄さま……おれを……皆のところに……行かせてください……」
「お前一人に何ができる? 虫けらが向かったところで、死ぬだけだ。それよりも――」
ザナクスは側近に目配せすると、ローブをまとった魔法兵団が一斉に詠唱を開始した。
「に……兄さま……な、なにを……?」
ザナクスは狂気を帯びた笑みを浮かべる。
「極大魔法を放つ。ベールド……いや、アーレスよりもグレイグが上だと、世界に示してやる」
「……!? そ、そんなことをしたら……みんな……巻き添えに……!」
「良い餌になっている」
「え、えさ……?」
「そうだ。ベールドに忠誠を誓う愚か者どもがまだ残っている。あのモンスターの意識がそれらに逸れている今――意識の外から撃ち込む」
「そ、そんな……!」
返答するより早く、ザナクスの軍馬がワンの足を踏み砕いた。
「があぁぁああぁぁッ!!」
悲鳴があたりに響く。だがザナクスの表情は一片たりとも揺るがなかった。
「誰に口を利いている? 私はグレイグだ。私が良いといえば、それがすべてだ」
「準備整いました!」
魔法兵団が放った魔力が、一点に集束される。
それは、黄金級炎最上位魔法――焦天焔舞。
巨大な火球が弧を描きながら飛来する。地を焦がし、空を割り裂くかのような熱量。
標的へとまっすぐ向かうそれは、まさに一撃必殺だった――だが。
『神級魔法 〝漆黒虚核〟』
虚空に、漆黒の裂け目が開いた。
太陽すら呑み込む深淵が、焦天焔舞を丸ごと消し去ったのだ。
「な、何が起こった……!? なぜ、当たらなかった……!」
ザナクスは狼狽し、側近に問いただすが――誰も、その現象を理解していなかった。
ーーー
同時刻、大地を割る〝神級魔法──震耀崩天〟によって、王国軍はほぼ壊滅状態に陥っていた。
ベールドを庇おうとしたマーマレードの足元に、地の裂け目が口を開ける。
「マ、マーマレード!?」
「後は……頼んだよ……」
瞼を閉じ、死を受け入れようとしたその瞬間。
「させないよっ!」
突如、大地が巻物の力で閉じた。
一瞬の猶予、だが、その一瞬がマーマレードを生き延びさせた。
「マスター! 今だ!」
振り返ると、そこにはガリスの肩を借りながら魔力を注ぐミュルク、そして駆け寄るアウィルの姿があった。
「マーマレード! こんな所でくたばってんじゃないよ!」
「マスター……ああ……よかった……!」
救われた。
それは彼女にとって、予想もしていなかった出来事だった。
〝太陽道〟と呼ばれた者――皆を照らし、導く存在。
だが今、自分が照らされ、救われたのだ。
一線を退き、王国軍の支援に徹していた彼女。
戦場で死ぬ覚悟はとっくに決めていた。
けれど、いざ助かった時……彼女は初めて、生の重みを思い出した。
愛する人がいる。帰る場所がある。
だからこそ、マーマレードは笑った。生きていることが、こんなにも嬉しいことなのだと。
――だが。
『邪魔くさい……』
突如吹き荒れる突風。
その冷たい息吹が、再び、彼女たちに絶望をもたらす。
城の如き体躯が、漆黒の両翼を大きく広げて宙に舞い上がると――狙いは変わった。
その冷たい視線の先にいるのは、ザナクス率いるグレイグの一団。
一度羽ばたけば、空気が裂け、音が遅れて追いかけてくる。宙を切るようなその飛翔――次の瞬間には、すでに滑空体勢へと入り、地上の影へ迫っていた。
だが、空高くからすべてが見えるこの巨獣の視界とは違い、地に立つ者たちにはその動きすらも捉えられない。
王国軍は、〝神級魔法、震耀崩天〟の揺れにより、足元へ意識を奪われていた。
さらにザナクスの命により放たれた焦天焔舞。
その魔法の光さえ、地上にいた彼らには届いていなかった。
魔術師ミュルクの、土属性巻物、大地偽装も重なったことで、地形はすっかり変貌。
もはやどこに何があるかさえ把握できず、マーマレードたちは魔獣使いの動きにただ戸惑うしかなかった。
「な、なんだ……どこに行く気だ?」
アウィルが困惑の声を漏らす。マーマレードはただ息を呑み、その一挙一動を注視していた。
迫り来る絶望が、今この瞬間、自分たちに向けられていない。
それを本能的に察した彼女は、状況の整理を優先し、ベールドに問いかける。
「ベールド、あの場所に何がある?」
「……分からん。全軍で移動してきた。だが、あんな遠方に布陣を命じた記憶はない」
「なら何故、アレは私たちを襲ってこなかったんだい?」
問いながら、マーマレード自身も疑念に囚われ始めていた。
ベールドは周囲を見渡し、ふと、何かに気づいたように呟く。
「――ない」
「……何が?」
「……グレイグの軍旗だ……彼らの影も、どこにも見当たらない」
ーーー
「……なっ!?」
縛られ、地に倒れたままの視点では、戦況の全貌は把握できない。
だが、空を見上げれば分かる。
夢で見た絶望が、現実となって迫っている。
『狡猾で、薄汚い人間共……獣に仇なす者、全て……滅ぼしてくれる』
上空に、それがいた。
規格外の巨躯、見上げることすら恐ろしい存在。
見たこともないモンスター……いや、それはもはや災厄だった。
額に宿した闇の魔力を凝縮させ、その黒き渦が膨れ上がっていく。地すら抉りそうな魔力塊が、いまにも放たれようとしていた。
「もう一度、極大魔法を放て! グレイグの威を見せつけよっ!」
そう叫ぶザナクスは怯まずとも、兵たちの顔には明らかな動揺があった。
――ヒヒィィィン!!
それは前兆だった。軍馬たちが突如として暴れ出し、騎士たちを投げ捨てるように逃げ出す。
まるで本能が、ここに“死”があることを知っていたかのように。
どんな訓練にも耐えてきたはずの青鹿毛の軍馬、ザナクスの愛馬すら同様だった。
騎手を振り落とし、暴れ、逃げる。
ザナクスもまた足元を取られ、重力に引かれるまま、地へと転がった。
「どういう事だ……? なぜ馬たちが逃げ出した?」
理解が追いつかず、状況を飲み込めないザナクスは地に膝をついた。
「おい、聞いているのか!?」
近くの側近に問いかける。だが、返ってきたのは――彼の問いとはまるで関係のない、一言だった。
側近は遥か上空にある“それ”を見上げ、ただ呟いたのだ。
その声には震えがあり、希望も理性もなかった。
ザナクスが聞けば、即刻その場で首を跳ねかねない――それほどの禁句。
だが、それを前にしてしまえば、恐怖こそが真実だった。
「貴様、いま何と言っ――」
「に、にげろぉぉぉぉぉぉぉ……っ!!」
恐怖に突き動かされた側近は、ザナクスを置き去りにして駆け出した。
ベールドに忠誠を誓った兵とは違い、ザナクスの配下の忠義は表面だけのものだった。
その一人の逃亡を皮切りに、まるで堰を切ったかのように、また一人、また一人と兵士たちが脱兎のごとく逃げ出していく。
「止まれっ、戻れぇ!! 命令だ、命令だぞ!!」
叫ぶザナクスの声など、もはや誰の耳にも届かない。
気づけば、グレイグ傘下の騎士団はすべて崩れ去り、壊滅状態となっていた。
その場に取り残されたのは、哀れにも配下に見捨てられた男と――その実弟。
だが、それが狙ったのは、彼らではなかった。
巨大な敵は、逃げ惑う兵士たちへと標的を定めたのだ。
額に集められた魔力は凝縮し、やがて鋭い“光線”と化して放たれる。
直線上に並ぶ兵士たちの列へと、それは突き進み――そして、地を穿つ。
一瞬の静寂。
次いで、凄まじい爆発音。
爆風がすべてをなぎ払い、縄で縛られていたワンを遠くへと吹き飛ばした。
ザナクスは、かろうじて地に突き刺した剣にしがみつき、その場にしがみつく。
……だが、視界に広がる光景は、もはや悪夢そのものだった。
オルロック街道、隣接する草原地帯――そのすべてが、たった一撃で、焼け野原に変わったのだ。
「なんだ……これは……なんなのだ……なんなんだ……なんなんだこれはぁぁぁぁぁ!!」
断末魔のような叫びを残し、
『――滅びよ』
その呟きと共に、漆黒の巨体は地を割って降下、ザナクスの身体を、重厚な躯で押し潰した。
「う……うぅ……」
吹き飛ばされたワンは、運よく――いや、運悪く、生き延びていた。
『まだ、居たのか』
その声が、再び彼を捕らえる。
否――生き延びたのも、束の間。
巨獣の瞳は、確かに彼を捉えている。
……マスター、ガリス……。
ワンの胸を去来するのは、死への恐怖ではなく、悔いと感謝。
どうやら……俺はここまでのようだ。
ようやく、仲間というものを知った。
ようやく、誰かと笑い合えることが楽しいと感じた。
ようやく、生きる意味を見つけたというのに。
グレイグを見返すためだけに生きてきた俺に……最後の最後に、いろんなものを教えてくれた。ありがとう……ピノン、ミルフィ、ダンバさん……どうか、みんなだけは……生きていてくれ。
『滅びよ……魔獣に仇なす者よ』
また、額に魔力が収束する。
だが、先ほどと何かが違う。
黒い渦はゆっくりと……白い光へと変わっていく。
そして、ワンの耳に届くのは人の声だった。
「スーフィングスさん……もういいんだよ」
誰の声だ……?
『な、何故……顕現できるんだ……き、君はクリスタルに取り込まれたはずじゃ……』
圧倒的な巨体が、一歩、また一歩と後退する。
……なにが起きてる?
「絶望しているのは、スーフィングスさん……あなた自身だったんだよ。だから、もういいの」
――額に集まった魔力は、ついに穢れを脱ぎ捨てた。
それは――光。
救いを呼ぶ、希望の輝き。
『じゃ、邪魔をするな……僕は魔獣に仇なす全ての者をこの世から消し去る……それは、何があっても……変わらないっ!』
「違う。今のスーフィングスさんは、過去の怒りに囚われているだけ。オルフェルさんの憎しみが、あなたを覆ってしまっているだけなんだよ」
――そして、現れた。
その姿をワンは知っていた、光の中から歩み出たその人影。
それは――
「……あれは……魔獣使い。顔の薄い女……」




