魔と生の境界線
「第一隊、第二隊は迂回し、側面から攻め込め!」
「第三隊、第四隊は魔法兵団を援護せよ! 中央軍と連携し、合図を待って極大魔法の準備を進め!」
王国軍総指揮、ベールド・ソニアス・アーレスは、眼前に現れた“何か”を見上げながら状況を即座に把握し、的確に号令を飛ばした。
その動きに迷いはある——だが、少なくとも兵の士気を損ねるほどの動揺は見せなかった。
「太陽道、貴女は冒険者と負傷兵の援護を――」
『神級魔法──震耀崩天』
だが、指揮の言葉など待つ理由がモンスター側にあるはずもない。
「な、なんだっ……!?」
その言葉とほぼ同時に、大地がうねるように激しく揺れ、輝き始めた。
ヒヒィィィンッ!!
魔力の奔流に直感的な恐怖を感じ取った軍馬たちは、一斉に騎士を振り落とし、四方へ逃げ去る。
それは、ベールドの馬も同じだった。
「なに、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔してんのさ」
マーマレードの声が静かに響く。彼女は驚いてなどいなかった。
いや、冒険者たちの多くも、あの光景に対して動じる様子を見せていない。
「……軍馬が皆、どこかへ……」
「そら、行くでしょ。 こんな魔力を前にしたらさ。 獣の第六感は、人間よりよっぽど優れてるもんよ」
「そうか……すまん、取り乱した」
「いいさ……それより」
ドンッ!!
揺れがさらに増し、大地は亀裂を走らせ始める。
「なっ、これは……いったい、なんなんだ!?」
「立たせる気すら、ないって訳かねぇ……」
うねる波の如き大地の揺動。地面が裏返るような錯覚と共に、兵士たちの足場は次々に奪われていく。
「い、いかん! 総員退――」
ベールドの声が空しく響く中、大地は次々と口を開け、人を飲み込み始めた。
まるで、何百、何千の人々を一瞬にして呑み込む悪魔のように。
信じられない光景だった。
誰もが、勝てると信じていた。
軍は一枚岩ではないにしても、冒険者との共闘によって新たな希望が生まれるはずだった。
だが、それは幻想だったのか。
彼の理想は、ただの戯言だったのか。
王国の未来を信じて、貴族制度の変革さえ夢見たベールドの心に、重く冷たい絶望が沈み込んでいく。
「馬鹿がっ……!」
マーマレードが動いた。
雷光のような速度でベールドに飛びかかり、巨体を突き飛ばした直後――大地が彼女を飲み込む。
「ハッハッハ!」
それを高台から見下ろし、哄笑をあげる一人の男がいた。
白銀の甲冑に蒼穹套を纏い、茶の長髪を風に踊らせる男。
青鹿毛の軍馬に跨りながら、彼はその凄惨な光景を愉快そうに眺めていた。
ザナクス・グル・グレイグ。
「ベールドめ……やはり家柄だけの男だったか。 ハハ、良い見物だったぞ」
彼はわざと部隊から遅れて到着し、戦場を観察していたのだ。
「なぁ……お前もそう思うだろう?」
ザナクスが振り返る視線の先には――縄で縛られ、捕虜のように転がされた青年の姿。
ワン・グレイグ。
血を流し、意識も朦朧としたまま、彼は何も語らなかった。
ーーー青山鈴音視点になりますーーー
暗闇の中。
なぜかそこにあると分かる本棚へ、私は黒の日誌をそっと戻した。
「すまないね。その先は、憎悪に取り憑かれた人間の歴史があるだけで、あまり面白いものではないんだ」
――誰かの、声がした。
そう感じた瞬間、景色が一変する。
さっきまでいたはずの書庫のような暗がりは跡形もなく消え、代わりに目の前に広がっていたのは――喫茶店。
私がかつて働いていた、あの喫茶店によく似ている。
でも、違う。
猫たちの気配がない。店長もいない。そして、見知らぬ男性がひとり、椅子に凭れて座っていた。
ここは私の世界じゃない。
それでも、私は直感的にその人物が誰なのか分かってしまった。
「オルフェルさん、ですね」
自然と、そう言葉がこぼれる。
「どうも、こんにちは。青山鈴音さん……初めまして、オルフェル・フェルベールです」
彼は、まるで当然のように私の名前を呼んだ。
「素敵な場所だね。君の働いていた世界……こんなにも人間に優しい場所があるとは、驚いたよ」
「そう……かもしれませんね」
「……意外と冷静なんだね」
サスペンダー付きのパンツに白いYシャツ。しなやかな髪質とは裏腹に、頬まで広がる髭は濃く、茶色に輝く毛並みは、どこか異国の雰囲気を纏っていた。
「冷静、なんですかね? たぶん、オルフェルさんの日誌を読んだから……本能的に、ここが"そういう世界"だと理解しているんだと思います」
我ながら、変なことを言ってる自覚はあった。
「うん。あながち、間違ってはいないよ」
「……では、やはり。ここは私のいた世界を模した、異世界なんですね?」
「それも、あながち間違いではない」
正解ではない。でも、間違いでもない。
なら、ここは一体どこなのだろう。
「ここは……クリスタルの中、ですか?」
私の言葉に、オルフェルはゆるく笑みを浮かべた。
「うん。今度のは正解だ。君の言う通り……ここは魔石の中だよ」
「ま、せき……?」
「そう。あれは“世界の闇”。心の悪。それを集めて凝縮した、呪われた負の産物なんだ」
「……意味がよく分かりません。あれって、ただのクリスタルじゃ……」
オルフェルは少し前かがみになり、私の目をじっと見つめた。
「違う。あれは、そんな生易しいものじゃない」
私がいた世界のクリスタルは、装飾品やアクセサリーに加工された美しい石だった。
でも、この世界にある“クリスタル”は、そうではないのだ。
「じゃあ……あれは一体、何なんですか? 私たちは……どうして中に?」
「魔石だ」
「……魔石、ですね」
彼は椅子から立ち上がり、無人の店の窓へと歩いていく。
その外には、私がかつて見慣れた懐かしい景色が、まるで絵画のように再現されていた。
「まず、一つ訂正しよう」
「訂正……?」
「この中にいるのは君だけだ。私は、いない」
「は?」
「意味が分からない、って顔してるね。アハハ」
……笑うな、こっちは真剣なのに。
つい頬に手を当ててみると――あっ、スウェットのままだ。
髪もボサボサ。こんな格好で人に会ってたなんて……まぁ、別に減るもんじゃないけど。
「魔石は、さっき言ったように負の感情によって生まれたもの。そして、それに取り込まれた者たちの残留思念が消えず、この中に記録され続ける。つまり、私はただの思念体なんだよ」
「……つまり、オルフェルさんはオルフェルさんだけど、本物じゃない……?」
「その通り。私は魔石に取り込まれ、魔石に取り憑かれた男の残りカスさ」
「の、残りカスなんて……そんな言い方しないでください!」
「はは、君は優しいね……君が私の過去を見たように、私も魔石を通して君の過去を少し見せてもらったよ」
「……え?」
「君は幸せだったんだね。愛する人と暮らし、尊敬できる人と働き、命を救おうとして生きていた……素晴らしいよ」
「え、私の過去を……? そんな日誌とか、私書いてませんけど……?」
「だから魔石を通してって言っただろう。ここにいる私は、もう魔石そのものの一部でもある」
魔石の、一部――
「さっき君がいた書庫のような場所。あそこには、魔石に取り込まれた者たちの記憶や、生涯、思念が日誌のように記録されてる。生き延びた者、死んだ者、変化した者、そして生まれ変わった者――全てが、だ」
「……そんなにも多くの……?」
「そう。そんなにも、だ」
オルフェルさんは窓に手を置き、静かに言った。
「君が魔石を取り込んだ時点で、その記録は始まっている。君の思念がここに刻まれ、この世界は君の記憶を模して再現されているんだ……いや、再現だけじゃない。君はここで生きていくこともできる」
「……でも、それは」
「どうだい? 悪くない選択肢だろう?」
彼が振り返ったとき、その瞳には鋭い光が宿っていた。
けれど私は――首を振った。
「……思いませんよ。ここは、模写された世界。私のいた、本物の世界じゃないんです」
「君は……強いな。いや、きっと君には、“戻るべき日常”があるからだろうね」
オルフェルさんはふと遠い目をした……彼は、大切な人を失っている。
「スーフィングスさんが……オルフェルさんを、生き返らせようとしているんです」
何を言えばいいのか分からず、私は思わず話題を逸らしてしまった。
こういう時、自分のコミュニケーション力のなさを思い知る。
関わるのが怖い。
失礼なことを言ってしまいそうで――最低な自分が、また顔を出す。
「スーか……懐かしい名だな」
私の不用意な一言。それでもオルフェルさんには、深く、どこか懐かしく響いたようだった。
その瞳が、それを物語っている。
……やっぱり。あの時、私が何気なく「スーちゃん」と呼んだとき、スーフィングスさんがあんなに強く反応したのは。
オルフェルは静かに椅子へ腰を下ろし、項垂れるように声を落とす。
「彼には、申し訳ないことをした。いや……彼だけじゃない。リヴァンに、ケベリオ……彼らもまだ、私に囚われたままだ」
囚われている……?
「スーフィングスさんは分かりますけど、他のお二人は……?」
私の問いに、オルフェルさんは懐かしむような、どこか悔いるような声音で語り始めた。
「ヴァンニャの森のスーフィングス。ヴァルゼア海道のリヴァン。そして、ケルベロス渓谷のケベリオ。彼らは……私が都合良く生み出した命だ」
「都合良く……? それって、あの魔石の影響で?」
「そうだ。あれは負の感情から生まれた魔力の塊。私はその力で、新たな生命を作り上げた。けれど――それは本物じゃない。魂を持たぬ、私の望みに沿っただけの存在だ」
「……スーフィングスさんは、本当の彼じゃないってことですか?」
「違う。元の彼は死んだ。そして、私は神を呪った。試練ばかり与える神を。だったら、私が神に代わって世界を創り変えてやると……そう思った。魔石の力を使えば、可能だったからな。私は、彼を蘇らせようとした。獣に仇なす人間を滅ぼすという想いで……その過程で、リヴァンやケベリオと出会い、瀕死の彼らにも同じように魔石の力を与えて、“都合の良い命”として再構築したんだ」
「そして、スーフィングスさんたちと、世界を……?」
「そうだ。私は彼らを使って、北、東、西、南と勢力を広げた……だが、私は浮かれていた。魔石の力が有限だということを、知らなかったんだ」
私の脳裏に、スーフィングスさんが魔力は永遠じゃないと語っていたときのことがよぎる。
「魔素を取り込まずに力を使い続けた私は、気づけばただの人間に成り下がっていた。衰え、弱り果てた私を倒すのは、もはや容易なことだった……王国はそれを勝利と呼んだが、私にとってはただの終わりだったよ」
「……その後のことまで、分かるんですか?」
「分かるさ。肉体や魂は滅びても、魔石に記された想念は、こうして残り続ける。君のように見てしまった者に語りかけることだって、できるのだから」
「……でも、魔石って……全部取り込まれたんじゃ……?」
「負の感情は尽きないよ。君の世界にも、どんな世界にも、悲しみや憎しみは絶えず生まれる。魔石は、それらが形を成したものに過ぎない」
私は、ふとした疑問を口にした。
「でも……なぜ、またあのヴァンニャ? ネコヴァンニャの場所に魔石が? 他の場所じゃなくて?」
「当然さ。あそこは、負の感情が集まりやすい。君の世界でいう“心霊スポット”と呼ばれる場所と、きっと同じ理由だよ」
「……なるほど、分かりやすいです」
「私もまた……魔石に囚われた一人だった。
スーフィングスも、リヴァンも、ケベリオも、私の願いに縛られた存在に過ぎなかった。けれど――それは、もう終わらせなければならない。だから……君に頼みたいんだ」
「……えっ、わ、私に?」
オルフェルさんは、静かに言った。
「君が、彼を拒むことができれば……スーフィングスの中にある私の力を、削ぐことができる。あの魔石の本来の力を、スーフィングスは完全には使えない。けれど、君という歩くクリスタル、媒体を通して、一部を行使しているんだ」
「え、ちょ、まって……わたし、利用されてる……って、ことですか!?」
「そう。君が異世界に来たのは、神の導きでもなければ、偶然でもない。スーフィングスが、君を選び、連れてきたんだ。この世界を滅ぼすという、ただ一つの想いを胸にね……だが、彼の中には今もかつての彼が残っていると、私は信じたい。君が、初めて出会ったあのとき、“スーちゃん”と呼んだように……きっと、彼も、まだ……闇猫ではない、あの優しい黒猫の心が残っていると……私はそう信じたいんだ」
オルフェルは、椅子から立ち上がり、深く頭を下げる。
「頼む……どうか、“彼”を、呪縛から解き放ってくれ。私の過ちの続きに、彼を巻き込まないでくれ」
私は言葉に詰まりながらも、ゆっくりと答えた。
「……スーフィングスさん、たぶん変わってないですよ。出会ったとき、“スーちゃん”って呼んだら、すごく嬉しそうにしてましたもん。今もきっと、オルフェルさんのこと……想ってますよ」
オルフェルさんは、顔を伏せたまま、わずかに笑った。
「……それなら、嬉しいな」
「ええ。きっと、大丈夫です」
オルフェルさんは最後に、魔石に抗う術を教えてくれた。
魔石とは、負の感情から生まれたもの。
つまり、穢れの集合体。
それに対抗する唯一の力は――正の感情。
新たな気持ちで、澄みきった心で、まっすぐに立ち向かうこと。
それこそが、魔石に取り込まれずに済む術なのだと。
これまでスーフィングスさんからは「感情を抑え、平常心を保て」と教えられてきたけど、それだけじゃ足りなかった。
マイナスを打ち消すのは、ゼロではない。
プラスだ。
怒りや悲しみに囚われた時こそ――前を向く笑顔や、誰かを想う優しさが、負の力を押し返す鍵になる。
……そう、オルフェルさんは教えてくれた。
今、スーフィングスさんは、私を“媒体”としてこの世界で戦っている。
何が起きているのか、オルフェルさんの説明でだいたい分かった。
ムルカさんがもうこの世にいない――その言葉に、私は一瞬、心が折れかけた。
でも……それもまた、魔石が狙う隙になる。
どんな絶望の中でも、笑い飛ばせる者だけが、魔石の呪縛を打ち破ることができる。
……それが、オルフェルさんの最後の教えだった。
私に、それができるかどうかは分からない。
でも、やらなきゃいけない。
今の私しか、それを成せる者はいないのだから。
強くあろう――そう、自分に言い聞かせながら、私は喫茶店の出口へと足を踏み出す。
その背に、声がかかった。
「……青山鈴音さん」
オルフェルさんは、静かに、けれど確かな声で、もう一度私の名前を呼んだ。
「スーフィングスを……スーを、どうか、よろしく頼みます。私にはできなかった。けれど、帰る場所があり、希望を持つあなたなら――きっと、できる」
「帰る場所」――あ。
そういえば、帰り方を聞くのを、忘れて――そう思った瞬間。
私の意識は、すうっと、光に溶けるように消えていった。




