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黒き記録 天覆う咆哮

ヴァンニャの森に隣接する森はいくつかあり、黒猫スーフィングスの故郷べラジオの森もそのひとつである。

獣たちは互いに縄張りを意識しており、たとえ近隣であっても、そうそう越境することはない。

私がこの村へと不用意に入ったときに敵意を向けられたのは、その良い例だ。

不法侵入。それは私のいた世界でも罪にあたる行為だった。


……だが、今回は話が違った。


私がスーフィングスから得た情報により、村人たちは即座に動き出したのだ。

周囲の偵察に向かい、村の空気は一変した。

人間も獣も落ち着きをなくし、村は急速に忙しない日常へと変貌した。


私も何か手伝いたいと申し出たが――村人たちは、いまだに私を「神の使い」として見ているらしく、下手に動かぬよう促された。

そのため、私はひとり拝借した空き家の中で、ただ物思いに耽るほかなかった。


スーフィングスから聞かされた内容は、村の住人ではない別の人間たちがべラジオの森へと現れ、そこにいた獣たちを執拗に攻撃したというものだった。

まるで、視界に入った獣すべてを排除するかのように……そしてその魔手は、スーフィングスの家族にも及んだ。

彼は命からがら逃げ延びたが、家族の最期を横目に見ながらの逃亡だったという。


戦いとは無縁だった私に、何ができるというのだろうか。

無力感だけが、胸に重く沈む。


だが、できることは何もないと分かっていても……私は「何とかしてやりたい」と、心の底から思った。

命を粗末にして逃げ出した自分には、その資格すらないのだとしても。


ーーー


何もできない無力さに、歯噛みしながら過ごす数日が経った頃、その終わりは突然やってきた。

調査に出た村人たちは、いつもなら半日もあれば戻る。

それがこの日、予定よりずっと早く戻ってきた。


理由は一つ。

仲間の――青年ボックルの“死”だった。


いつも出迎えを喜んでくれた。

どんな時でも笑顔で食事を運んでくれた。

私の服を褒めてくれて、私に興味を持ち、心から慕ってくれた青年……その命が、帰ってこなかったのだ。


「やはり帝国の奴らだ……くそっ。仲間を多く失った。縄張りに罠を張ってやがったんだ……」


調査に加わっていた中年の男は片腕を失い、呻くようにそう告げた。


「帝国……王国の建国で勢いを失ったはずではなかったのか?」

「世界の情勢なんぞ、今の俺たちには届かねぇさ……」


どこの国にも属さない森の住人である村人たちは、涙を見せず、気丈に、必死に今後を話していた。


だが私は違った。


私は……ボックルの亡骸のもとへと歩き、その手を取り、ただ、涙を流した。

また失った。

また、大切な存在を。

天は、何のために私をこの世界に呼んだのか。


何か意味があると信じていたのは、ただの思い上がりだったのか?

いや、もとより私のような凡庸な者に、天の意志など理解できるはずもない。

分かるのは、ただ一つ。

喪失の痛み。悔しさ。そして、深い憎しみ。


私は天に向かって叫んだ――こんな運命を与えるくらいなら、最初から私を呼ばず、あのまま無に還してくれればよかった。

悔しくて、地を叩き続けた。

血が滲むほど、拳を打ちつけた。


「……許せん」


私は近くに落ちていた農具を手にし、村の外へ向かおうとした。

復讐心に駆られ、ただ怒りのままに。


だが――その道は、すぐに遮られた。


『……止まれ』


狼の魔獣が、私の前に立ちはだかっていた。


「そこをどけっ!」

『どかん』

「どけと言っている……!」

『行って、貴様に何ができる』

「ボックルの弔いだ! 何処の誰かは知らんが、こんな仕打ち、許せるわけがないだろう!!」


怒りに任せて叫び続ける――そのとき、視界が揺れ、空が二重にも三重にも重なって見えた。

次の瞬間、私は空を見上げていた。

いや――何時もより空が近く感じた。

そう思った直後、背中に激しい衝撃が走った。


「――ぐはっ!」


私は、吹き飛ばされたのだ。

魔狼によって、無造作に。


「な、何を……っ」


そう呟いたきり、私の意識は闇に沈んでいった。

意識を取り戻したとき、私は闇の中にいた……いや、違う。

ここはただの暗闇ではない。

淡く光を放つ結晶のようなものが、あたり一面に生え茂っている――幻想的で、どこか不気味な空間だった。


『目を覚ました?』


胎児のように身を丸めていた私は、声のする方へとゆっくり意識を向けた。


「……スーフィングス」

『よかった。無事だったんだね』


何がどうなっているのか……混乱していた私は、魔狼に吹き飛ばされた直前の記憶を思い出し、はっとして立ち上がる。


「み、みんなは……村は……!?」


私の問いに、スーフィングスは一瞬言葉を失った。


「……君は知っているんだろう!?」


思わず声を荒げ、黒猫の小さな肩を乱暴に掴む。

それでもスーフィングスは答えなかった。

私は焦れ、立ち去ろうと体を起こした――その時だった。


『……無くなったよ』

「……いま、なんて?」

『無くなった。オルフェルが気を失ってすぐ、人間の軍勢が村に押し寄せたんだ』

「ど、どういうことだ……詳しく話してくれ」


スーフィングスの語る真実は残酷だった。

調査に出た村人や獣たちは、帝国の部隊に尾行されていた。

その帰還を合図に、村は戦火に包まれ――蹂躙されたのだという。

そして私は、神の使いと信じられていたその存在ゆえ、村人たちの命を賭した決断により、ここまで運ばれた。


「……じゃあ、誰が私を……君が?」

『僕の体では無理だよ。オルフェルを運んだのは……バビッタだ』

「バビッタ……あの、魔狼の?」

『まさか名前も知らなかったの?』

「……そうか。彼が……」

「それで、彼は今どこに?」


その問いに、再びスーフィングスは黙った。


「勿体ぶらずに話してくれ!」


私は魂の叫びを込めて睨みつける。


『……こっち。ついてきて』


スーフィングスは歩き出す。

結晶のきらめきが続く、道なき道の先――そこに、彼はいた。

バビッタ。

私を突き飛ばし、命を繋いでくれた狼の魔獣。


だが何かがおかしい。

彼はまるで石像のように動かない。

その灰色だったはずの体毛は、炎のように赤黒く染まり、血にまみれていた。


「し、死んでいるのか……?」


膝が砕け、崩れ落ちる。


『村人たちの願いは、君を救うことだった……そしてバビッタも、それに応えてここまでオルフェル……僕たちを運んで来てくれたんだ』

「……バカな……そんな、馬鹿な……」

『僕たちは、彼に救われたんだ』

「彼は……こんなになるまで……私を、君を、守るために……」

『そう。バビッタは勇敢だった。最後まで人間たちに抗い、僕たちのためにその命を燃やしたんだ』

「う……うぐぅ……」


私は、バビッタと親しかったわけじゃない。

村人やボックルと違って、言葉を交わしたことさえほとんどなかった。

それでも彼は――命を懸けて、私を守った。

無力で、ただ辛い現実から逃げ続けてきた私を。


「君は……守ってくれたのか? あの時、私を突き飛ばしたのも……その優しさだったのか?」


返答のない亡骸に、何度も問いかける。

虚しさと悔しさが押し寄せ、胸を締めつける。


「う……ああぁぁぁ……!!」


私は泣いた。

バビッタの亡骸のそばで、声が枯れ、涙が枯れるまで、何度も、何度も、泣き続けた。

どれほど泣いたのか分からない。

ただ一つ、スーフィングスがずっと傍にいてくれたことだけは、心に沁みて覚えている。


「……スーフィングス、すまない」

『いいよ。僕も家族に救われたから、今がある。だからオルフェル、君の無念、わかるよ』

「無念……そうだ、無念なんだ。私は何も持っていない。力も、知恵も、何も。それなのに、どうしてこの世界に……」


私は、すべてを語った。

この世界でのことだけでなく、前の世界でのことも。


『……オルフェル。君は選ばれたんだよ』


スーフィングスは、静かに言った。


『君は僕たち獣の言葉を理解できる、唯一無二の人間。神が君を召喚したのは、この世界を変えるためなんだ』

「笑えない冗談だ、スーフィングス。君も見ただろう? バビッタに突き飛ばされて気を失った、情けない私を。何もできなかった、今も何もできていない――」


そのとき、スーフィングスはふと背を向けた。


『……ついてきて』

「どこへ?」

『バビッタが最期に話してくれたんだ。ヴァンニャを守る“魔獣”は、もういないって――いたけど、飲まれてしまったって』

「……飲まれた? 何の話だ?」


スーフィングスは歩を進め、やがてある場所で立ち止まった。


『オルフェル。バビッタは言っていたよ。君になら、これを使いこなせる“能力”があるんじゃないかって』


彼の視線の先――そこには、淡く光を放つ一つのクリスタルが佇んでいた。


「その結晶は……?」

『規格外の魔素が含まれてる。僕も初めて見るけど……今ならわかる。これには、ただならぬ力がある。僕は怖くて触れられないけど、確かに、これを取り込めば“全ての理”を変えることができる』

「話が見えない……結晶に何があると言うんだ?」

『魔素さ。魔力の源だよ。君のいた世界には無かったかもしれないけど、この世界では、あらゆる命にとって欠かせないものなんだ。空気にも、大地にも、食物にも、それはすべてに宿ってる』

「……私には、そんなもの感じたこともないが?」

『君の中にもあるはずだよ。魔法を使えるかどうかの違いはあれど、誰の中にも“資格”はある。

得意・不得意があるようにね』


私は思い出す。

あの時、スーフィングスの傷を癒した光を。


「あれも、魔素だったのか?そもそも魔法の原理が分からない」

『そう。詠唱のような言葉とともに使っていたでしょ?あれは体内の魔素を詠唱や術式を通じて外に放ち、現象として具現化させる技術のことだよ。つまり、魔素を動かすための法則そのものが魔法ってことなんだ 』

「じゃあ、その得意な誰かが、この結晶を使えば良かったのでは? 話が難しすぎて、私には出切ると思えない」

『さっき言ったでしょ? この森にいた守護獣ヴァンニャ最強の魔獣ですら飲まれたんだって。それはバビッタでも、村の人でも出来ないに等しい』


――資格がなければ、命を奪われる。

最強の魔獣ですら敗れるのなら、ここの住人達でも叶わぬということか。


『バビッタは思ったんだよ。君なら可能性があるって。人の言葉だけでなく、僕たち“魔獣”の言葉を理解できる人間なんて、彼も僕も初めてだったから』

「私に……賭けてみた、というわけか」


命を懸けてまで、私に。

私のために、彼は……村の者たちは、私を神の使いと信じ、疑わず、守ってくれた。


『でもね、オルフェル。これまで話しておいてなんだけど……少しでも不安があるなら、やめておいた方がいい。僕は君を失いたくないんだ。もし君まで……』


その言葉の途中で、私は歩き出した。

スーフィングスをすれ違い、結晶の前へ。

迷いなど、ない。

私は手を伸ばす――指先が結晶に触れた、瞬間。

眩い閃光とともに、クリスタルは掻き消えた。

まるで最初から存在していなかったかのように。


「……消えた……?」


呆然と立ち尽くす私。

スーフィングスもまた、言葉を失っている。


「触った、よな……?」


自分の手を見つめる。

爪先、掌、腕……何も変化はない。

私は、私のままだ。


「……とりあえず、もう一つ……」


近くにある別の結晶に手を伸ばそうとしたその時――『やめて!』

スーフィングスが飛びかかるように止めてきた。


「なんで邪魔を?」

『これ以上、魔素を取り込む必要はないよ……!

オルフェル、君は……本当にオルフェルなのか?』

「何を言ってる? 私は私だ。変わってなどいない」


スーフィングスは、じっと私を見つめたまま小さく頷いた。


『……そうか。ならよかった。やっぱり、君には資格があったんだね』

「その言葉……現実味がないな」

『君は歩くクリスタルになったんだ。天の理さえ覆す、異なる存在になったんだよ』

「……それは本当か? 何も実感がないんだ。スーフィングス、私はどうすればそれを感じることができる?」

『魔素も魔力も、空気と同じで、本来は目に見えるものじゃない。感じるものなんだ。命と同じで、目には映らなくても確かにある。それを引き出すのが、詠唱なんだよ』

「詠唱……?」

『そう。人間たちは、神々の名を唱えながら詠唱していた。彼らが僕たちの住処に攻めてきたとき、確かに聞こえたんだ――神の名を口にしていた』

「ま、待て……神々?この近くに……神がいるのか?」

『いないよ。神は……地に住まうどんな者でも及ばぬ存在で、遥か遠くにいる。だけど彼らは、いつも見てる。僕たち……いや、命あるすべての者を、平等にね』


――神。

そういう存在なのかもしれないな。

こちらがいくら願おうと、決して応えてはくれない。

私は、彼女が死ぬその瞬間まで、神に祈っていた。

だけど祈りは叶わなかった。彼女は、もういない。

死を選ぼうとした私が、今こうして異世界にいる――それは人の手で叶えられることじゃない。魔獣にもできない。

……ならばやはり、神々は私が死のうとしていたことを、見ていたのだろうか?


いや、それだけじゃない。

この世界も、私のいた世界も、同時に見ていたとするなら……神々は、世界すら超越しているというのか。


『オルフェル?』

「あっ……すまない。考え事をしていた」


我に返る。いかん……今は、魔素、魔法の話だ。


「それで、そのサイン? 魔素の引き金とか言っていた詠唱の事なんだが……それは、どうすればできるんだ?」

『それを知りたいのなら……まず、自分の中を覗いてみて。心を――見るように探るんだ』


心、私の心は今もなお、彼女で埋め尽くされている。

何百年、何千年が過ぎても、私の想いは変わらない。

なのに、なぜ神は、その想いに応えなかった?

なぜ……彼女が死ななければならなかった?


……駄目だ、いかん。

今は、魔素を……見つけなければ。

落ち着け、冷静になれ――だけど……心の内を見れば見るほど、浮かび上がる。

ボックル。バビッタ。君を。

最後の、彼らの彼女の顔が、身体が、声が……駄目だ。集中するんだ、集中、シュウチュウ……。


「くそ……くそっ……誰が……誰が、こんな……誰がッ、誰があああああああああっ!!」

『お、落ち着いて! オルフェル!』

「うるさいっ!! 黙――え?」


気がつけば私は――光に包まれていた。

視界を焼くほどの眩い光。

次の瞬間、それは天空へと突き刺さるような柱となり、空間の天井を穿った。

轟音と共に崩れ落ちる岩盤――スーフィングスが、その直撃を受けた。


「う……嘘だ……スーフィングス……そ、そんな……わ、私は……そんなつもりじゃ……そんなつもりじゃなかったのに……!」


なんなんだ……なんで、こうなる……駄目だ……駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だッ!!!


「神よ……もし本当にいるのなら……なぜ? なぜこんな結末を見せる!?私の祈りは……想いは……全て、無意味だったのか!?君も、ボックルも、バビッタも……スーフィングスまで……全部、私のせいだというのか!? ふざけるなッ!!」


こんなの、あんまりだ……っ!!

私は、憤怒に任せて空間中にあったすべてのクリスタルを取り込んだ。


「認めん……私は絶対に認めん……この力が本物なら、神にだって抗ってみせる……私が変えるんだ! この世界を、私が……私の手で、すべてを変えてやるああああああああっ!!」


空間の大穴から見える空を睨みつけながら、私は吼えた。

怒りに任せて振るった光は、やがてスーフィングスの亡骸に届いた。


その光が、死を超えた。


いや――それは「生き返り」ではない。

新たな命の誕生だった。

崩れた瓦礫の中から現れたのは、巨大な黒き影。

闇をまとう獣。


「ハハ……ハハハハッ! スーフィングス……いい、いいぞ……! なんという強大な姿だ……これなら……この世界を、終わらせられる!! 君は今から、闇猫(ダークキャット)スーフィングスだ。私と共にこのクソな世界を終わらしてやろう!!」


私は、不敵に笑った。

この力は本物だ。神など、不要。

神が君を救わぬのなら――私が、救えばいい。


だが、その前に--


ボックル、バビッタ、村の皆が託した想いに……今、応えようじゃないか!

仇なす者たちを、すべて葬り去る。

それが、彼らへの弔いだ。


全て、私のこの手で終わらせてやる……!!


---


日誌は、ここで途切れていた。

文字は滲み、掠れ、続きは判別できない……鈴音は、静かに日誌を閉じた。


そして、元の棚へと戻した。


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