黒き記録、オルフェルとスーフィングス 2
この村で過ごし始めて、二日が経った。
その間に私は、この場所が地獄などではなく、確かに生ある世界であることを理解した。
ヴァンニャ。
そんな地名、私は聞いたことがなかった。
地理に疎い私でも、この名は明らかに馴染みがない。
そして逆に、私が住んでいた国や大陸の名を口にしても、村の者たちは皆、首を横に振るばかりだった。
困った。
本当に、困った。
私はやはり生きていたのだ。痛みもなく、死んだのでは?そうであってほしかった……だが、そうではなかった。
君のいない現実に疲れ、君の名を盾にして逃げた私は……命を失うことさえ、赦されなかったのだろうか。
神は、それを許さなかったのだろうか?
私如き、凡庸な人間には正解など分からない。
昨日からずっと、借り受けた家の中でひとり、考え込んでいる。
この家は村の空き家のひとつで、簡素な造りだった。
扉も窓もなく、壁は風通しの良すぎるほどに朽ちている。
だが、屋根はある。雨風は凌げる作りだ。
また、定期的に村人が食事を届けてくれる。
果物や野菜ばかりだが贅沢は言えないし、むしろこの厚遇には戸惑うほどだ。
彼らは、私が獣の言葉を理解できることを――神の加護か何かと捉えているようだった。
「オルフェルさんの服、すごいですね!」
朝食を持ってきてくれたのは、あの青年だ。
最初、私が村に入り込んだとき、真っ先に農具を構えて威嚇してきた彼。
名は、ボックル。
年齢は……十代後半か、二十に届かぬくらいだろう。
ボックルは特に私に興味を持っているらしく、頻繁に家を訪れては話しかけてくる。
何の変哲もないシャツと、サスペンダー付きのパンツ姿の私を、異国の偉人でも見るかのような目で見てくるのだ。
そんな目を向けられたのは、人生で初めてだったかもしれない。
いや――違うな。
たった一人、いた。
私のありふれた姿に、価値を見出してくれた人が……そうだ。君、だ。
私は、ボックルという青年の中に、君の面影を重ねていた。
ーーー
数日後、ボックルと狼のような獣が小さな黒毛の獣を連れてきた。
見るからに弱っていた。
命が尽きかけているのは、誰の目にも明らかだった。
村人たちは懸命に治療を試みていたが、医学という概念がほとんど存在しないこの村では、為す術などないはずだった。
私も、助からないだろうと思ったのだが、それは違った。
「……ヒーリング!」
誰かが呟いた呪文と共に、まるで光そのものが粒子となって獣を包み込んだ。
目を疑った。
理解が追いつかなかった。
その光の中で、傷は見る見るうちに塞がっていく。
「私は……何を、見ているんだ……?」
まるで神の奇跡のようだった。
『な、なんで人間が……!?』
治療を受けた黒毛の小さな獣は、村人たちを警戒していた。
それも当然だ。言葉は聞き取れても、信頼までは別だろう。
『助けてもらっておいて、その言い方はどうかと思うぞ』
狼の獣が嗜める。
だが、小さな獣は食い下がる。
『だ、だって……僕の村を……人間たちが……! 人間が、僕たちの森を!』
その言葉に、狼が表情を曇らせた。
『お前、どこから来た?』
『ベラジオの森……』
『すぐ近くだな……それで、人間の数は?』
空気が張り詰めた。
村人たちも、異変を察したのか視線を集めてくる。
「オルフェルさん、オルフェルさん」
気付けば、ボックルが隣に来ていた。
「魔獣たちは……何を話しているんですか?」
「……どうやら、この黒毛の獣の住処に、人間が襲ってきたらしい」
その言葉を聞いた途端、ボックルの顔色が変わった。
いや、ボックルだけではない。
周囲の者たち全員の表情が、緊張に染まった。
『おい……お前』
「……はい?」
狼が私を見た。
『コイツの話を詳しく訊いて、村のみんなにも伝えてくれ』
「……詳しく、ですか?」
何がそんなに重要なのか……まだ私には分からない。
だが、その目の奥に宿る焦燥が、嘘ではないことだけは分かる。
『頼む。急を要する事態かもしれんのだ』
「……分かりました」
私は静かに頷いた。
とはいえ、何を話せばいいのか見当もつかない。
これまでの人生で、心を通わせるような会話をした覚えはない。
私のコミュニケーションなど、表面だけ。
ただの社交辞令に過ぎなかった。
それでも、今は話さねばならないのだろう。
この村でよくしてくれている人々のために。
恩を返すべきときが来たのだ。
「ん?」
声をかけようとした私を、小さな黒毛の獣がじっと見つめていた。
「な、なんですか?」
『……お前、コイツらと同じ人間……だよな?』
奇妙な問いかけだった。
人間以外の何者に見えるというのだろう。
『さっき……あの魔狼と、会話してたよな?』
魔狼、というのは、あの理知的な目をした獣のことか。
黒猫の視線の先に、彼の姿がある。
「ええ、話しましたよ。私にも、なぜ会話ができるのかは分からないのですが……」
その言葉を聞いた瞬間、小さな獣の瞳が見開かれた。
まるで驚愕で万歳をしたように、前足を持ち上げている。
「す、すみませんね。驚かせてしまって。私もよく分かっていないんですが……でも、ひとつだけ言えることがあります」
『……?』
「ここの人たちは、あなたの味方ですよ」
『味方……? に、人間が?』
「ええ。あなたを治して、あんなにも嬉しそうにしていた。そんな光景、普通じゃありません。心優しい人たちです。少なくとも、私が知る限りでは」
話しているうちに、頭ではなく心の奥底から何かが湧き上がる。
……いや、これは天啓かもしれない。
私は無意識に顎の髭に触れて、落ち着こうとする。
「とはいえ、偉そうに言いましたが……私もこの村に来たばかりで、状況はあなたとあまり変わりません」
『……信用していいって証拠はあるのか? 人間が獣の言葉を話せるからって、仲間とは限らない』
「疑り深いですね」
『当然だ! 僕の村は、人間たちに襲われたんだっ!』
その言葉に、私の胸が痛む。
小さな獣は、哀れみの視線を察したのか、体を翻し背を向ける。
その仕草に、かすかな敵意すら感じた。
「……その話、詳しく聞かせてください」
『……聞いてどうする?』
「村の皆さんに伝えます。あそこにいる彼――魔狼と呼ぶのでしたか。彼もそれを望んでいます。彼が言うのだから、きっと村の人たちは動いてくれます」
――そう、私にしては随分と勇ましい物言いだった。
何を偉そうに、と思う自分がいる。
命を粗末にした愚か者が、どの口で……とも。
それでも、今、私を好いてくれる人がいる。
ボックル。
彼の視線は、かつて君が私に向けてくれたそれと、どこか似ている。
……きっと、これは意味のあることなのだ。
この出会い、この流れ、この命――私がここにいる理由。
『……まえ』
「え? なんです?」
『お前の名前、教えろ』
「名前、ですか?」
『もったいぶるなっ!』
「はは、すみません。私の名は、オルフェル。オルフェル・フェルベールと申します」
『……オルフェル・フェルベール……』
「では、今度はこちらの番です。あなたの名前は?」
警戒心を隠そうともしない顔つきで、小さな獣は私を見つめる。
その視線に、私は一歩だけ、前に出た。
「お名前は?」
――この瞬間が、大切だと思った。
言葉を交わすことで、きっと何かが動く。
『……スーフィングス。黒猫、スーフィングスだ』




