呪い果てて――
「なぜ彼女を追わなかった?」
「あの子は一人でも歩ける。あの子に縋っているのはいつも俺の方なんだ」
少女を一人でいかせられなくて、手放せなくて、いつも傍に居たいという願いは、守りたかった、も確かにあるが、自分が、彼女が居なくなるのを恐れたからなのだ。
水涸は麗の居なくなった空間に目を落とす。白い髪の、頭のてっぺんがいつも横に見えていた。小さい彼女は今、一人で走っている。
エイは先程虚仮にされたのを根に持っており、焼けた帯を出すもしかしその先は灰となり、長さを奪われた布切れであるが故に舌打ちした。もう役には立たない。捨てる。
「で? 水涸クンは何をしたいと一人で残った」
「私はシズに会いたい」
「無駄だよ、シズは誰にも会わない、君ごときシズの視界に映る事もないさ」
「いや、シズは私を見てくれる――だってシズは」
***
「待て澪!」
「イヤだ! 来ないで」
扉から出ていこうとする澪に沖之助が手を伸ばしていた。だが澪は水鶏の腹心に呼ばれて誰が行くものか! と手で壁を作る。沖之助はそんなつもりはなかった、水鶏とは違い澪を傷付けようなんて思っていなかった、ただ保身が優先され、水鶏に逆らえないだけだ。
――そんな臆病さが、いつも澪には筒抜けだった。
「つ、都合のいい時だけ優しくしようとしないで!」
「澪……」
沖之助は手を下ろしてしまった。その逆の手は槍を持っているし、自分の裏手には部下が数人、同じ槍を持ち控えているのだが。力ずくで、今澪を捕える事は果たして正しいだろうか。
沖之助は目を閉じた。
それは、澪が少女に引かれて城から出る数秒の間だった。
澪は暫くして、何かに導かれるように逆に麗を引っ張って歩みを早めた。戦の真っ只中の城下町を抜け出し、雪山の麓の、自分が一番落ち着く場所へと誘っていた。
そこには亀裂が入っていた、巨大な爪に引き裂かれたような断崖の絶壁に、澪は立ち竦んだ。麗は後ろに下がらせた、過って足を滑らせれば死ぬだろう。だから。
「ここ、いつも来ていたんだ、いつでも死ねるから。でも、死んだ事はなかった、こうして生きているからね」
「勇気がない事を責めはしないよ」
「そもそも、死ぬ事を勇気と言うのかな? 人は死を目前にし、疲れている人に『死ぬ勇気もない』と、言えるのは何故なのかな」
「それはわたしを責めているという事?」
「違うんだ、違う。麗ちゃんはどうして今まで目を閉じていたの?」
「それは……もう直ぐ見えなくなるから、それが、怖くて。最初から閉じていれば、見えなくなっているという事実に気が付かないまま、自分で閉じているんだって思えたから」
「怖いよね」
「怖いよ、世界が真っ暗になるの、何も見えない、好きな人の顔も、もう二度と見えなくなる。そうなるくらいなら、初めから瞼を閉じていれば、その恐怖は……」
「なのに今、開いてくれたね」
麗の赤い目がそっと揺れる。
「ボクも勇気を出さなきゃ」
澪は崖の向こうに目を凝らした。ぼんやりと何かが見える、細く、黒い影が遥か天空に向かい伸びている。
あれはなんだろう、誰もこの亀裂に橋を掛ける事が出来ない、だからあちら側に渡ったことが誰にもない。
誰も知らない、あの雪の向こうに揺らめく黒い影の正体を。きっとあれは、建物だと思う。巨大な建物だから、何百、何千メートル離れているこの場所からでも、空へくっきり伸びているのがわかる。
何故あんなものがあるのだろう。あれが本当に建物だとしたら、風の鳴く谷の向こうにはユートピアがあるのかもしれない。
もしかしたら向こうは普通の世界なんじゃないかって、澪はそう思う事もあった。寒くて、食べ物がなくて、こんな小さな箱庭のような街は模造で、あちら側に本物の、仮想世界を眺める実態のある人々の世界があるんじゃないかって。
麗に話してみる。「もしそうなら、あそこに行けばわたし達はわたし達でないものになれるのかもしれないね」
そう返る。
「じゃあ――」
行く? 二人で
「二人で幸せになろうよ――」
***
「ふふ、そろそろかしら、そろそろいいわよね?」
水鶏は抑えていた興奮に体中を蝕まれる。目が細くなる、頬が上気し、理性が崩れていく。誰にも止められない、彼女は恍惚にうち震えている。
「澪が知っているのはあの崖に続く道だけよ!」
漸く時がきたと、ありったけの快楽と、ありったけの嘘で異能に念じる。
「これは事故よ、不運な事故だったの! あぁ、澪は事故により死んでしまったのよ」
***
「いけたらよかったね」
麗は否定する。澪の誘いは楽園へ続いていたかもしれないけれど、楽園なんて、生きている限りどこにもない。どこにでも苦しみは存在する、自分が居る限り後を付いてくる、幸せだけがあるというのなら、またそれも虚妄だ。
「あれは気になるけれど、もう一度戻ろう、城に行って、シズさんを探そう?」
澪は俯く。ここで足踏みすることと、城に戻り水鶏に会うことのどちらが楽かなんてわかっていた、けれど。
「うん……」
顔を上げた。今までの自分なら崖に残った。怖い、僕なんかが、そんな気持ちが膝を崩した。今は違う、弱さは振り払った、弱虫は崖から落とした、情けない自分を脱ぎ捨てる事の勇気は、一筋縄ではなかった、けれど、顔を上げる決断出来たのは、彼女が手を握ってくれたから。
崖に足を掛けるより、勇気を持ってみようと。だから、城へ
「いこう、ウルワちゃん――」
澪の瞳が強く彼女を捉えた時、雪は鳴いた。
先を読むことは出来た。
随分と冷静であれたのは、大切な子が目の前に居たからだと思う。
雪の鳴く声が斜面を擦り、白い奔流が波のように迫ってくる。
この流れが次第に近くなり、小さな人間二人がこの後どうなるかなんて子供にでもわかった。
人為的に起こされる雪崩を澪は幾度か見てきた。アバランチコントロールという言葉をここではよく耳にした。
自分の存在、ある女性の気持ち、逃げ場所の所在、それを知る彼女。糸は簡単に繋がった。
声が小さいなんて、今は言わせない。
「ウルワちゃん、よく聞いて」
よく通る声は怯えず冷静なままであった。赤い目に雪崩を映し、真上に迫る死の恐怖に震える彼女をこちらに向かせ、戸惑いのない声で告げる。
「雪崩に巻き込まれたら助からない、だから、僕の命をあげる」
命、その部分に嫌な空気を察知したのか、麗は澪から離れようとする。澪は短剣を取り出す、その重みを、麗の手を取り無理矢理乗せる。
「ありがとう、僕は君のお陰で最期は弱虫にならずに済みそうだ」
「こういうの、弱虫とか、強さとかなんて、言わない……」
「でも、僕自身の中ではこういうの、昔の自分では出来なかったと思う。この世界を置き去りにするのは心苦しいけれど、君を救えることは、世界を救うより嬉しい」
「どうして……」
未来が視える目があればよかった、そうすればこんな結末にはならずに済んだ。
「さあ、それを引き抜いて、僕を刺して」
そんな無い物ねだりを、したってどうしようもない。
「君に罪を背負わせるのはとても辛い、だけど、君を死なせることが一番辛い。僕のワガママだと思って、最期だけはきいて?」
まるで男の子みたいに、恋人の最後のお願いのように、澪は麗を言い宥めた。
体に力が沸いた。澪は、この得体の知れないものが異能なのだと直感した。今更になって異能が何か分かるなんて、とてもロマンチックかもしれない。
「君に、幸あれ」
"僕の異能と、この命を託す"
髪が白くなっていった。毛先から順に、輝くように黒の呪いが剥がれて、白い雪のような美しさを取り戻していく。
異能により、澪は変わる。
腰、肩、耳、それぞれの位置まで白い波が通過し、髪全体を柔らかく塗り替えていく。
やがて現れたのは、風に乗せられた羽ばたく真白の色。
「見て、白い髪だよ……ボクはやっぱり華矜院だったんだ」
漸く叶った。澪は心の底から喜んだ。同時に嫌悪した。白い髪だ、華矜院になってしまった、気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い。
異能を解き放つ事で黒は弾けてしまった、その中から現れたのは初めて見る憎悪だった。
麗は悲しみに涙を流す。悲鳴を堪える。必死に短剣を握りしめ、きつく結んだ口元が血を流す。
「ウルワぢゃ、ぼぐ、は、がぎょ……い"ん」
澪の異能が開花すると同時に、澪の体はどんどん老化していった。皮が弛み、手には痣ができ、骨が凹凸を表し、顔が皺だらけの醜い容貌になる。
怖い、若々しい少年の顔が突然老人になっていく。麗は瞳を閉じて堪えようとした、けれどまた開く、皮が緩み、目鼻立ちが歪んで狂っても、脚や手が枯れ木のようになっても、どれだけ醜悪な姿になっても、堪えて、最後まで見届けなければならない。
「い"ャだ、ボクは華矜院……ァんが」
最後に、鮮明に聞こえたのはそれだった――。
「がぎょイんなんがに、なりだぐないよォォォ!」
麗は呪い果てる老人に、泣きながら短剣を突き刺した。




