憎悪と恍惚
黒い帯は容赦なく白い少女を狙った。伸縮自在に伸びるその帯を、少女を抱いたまま絡め取ったのはメイス。メイスは直ぐ様帯を嫌悪し振り払われる、衝撃で帯の中の目玉が潰れる。目玉は血の涙を流して雪の上に落ち、汚濁となり人生を終えた。
人の命が消える、許しがたい、最悪の結果で。
「貴方とはいつかこうなると思っていました」
低く囁かれた声には憎悪が含まれていた。汚れたメイスを振るう、華矜院エイを、彼、華矜院七汐は敵視する。
愛おしい少女を殺そうとした相手に殺意を隠そうとはしない。お互いに、今は相手を殺す事だけしか考えていない。少女を強く胸に抱く、温和な七汐でもエイを憎悪する瞳は憤怒に染められていた。
「約束も守れず、命令無視ですか?」
「人の指図に従う謂れはない」
思考が赤く滲んでいく。陽動部隊を叩く役目を担った筈なのにエイは北ではなく西に居る。そして、自分ごと黒い帯で麗を切り裂こうとしたエイを、七汐は叩き潰すと決めた。
「だいたい最初から気に入らなかったのですよ、貴方は私が最も憎むべき人のクズだ!」
「君も大概だろう」
「殺人者はみな死ねば良い……」
七汐は麗を水涸の方に押しやるとそのまま走り、メイスをエイに向かい振り上げる、次は帯が逆にメイスを絡め取る。動く事が好きではないエイはその場に足を固定したまま帯を操る。帯がメイスを七汐から取り上げようと引っ張る、七汐はメイスを器用に抜き出し、憎い対象に向け横薙に振るう。
面倒くさい事に、帯はメイスの衝撃を受け止め操者を守る。蛇のようにエイに絡まる黒い帯には無数の目、気持ち悪いとしか言いようがないし、人の命が含まれていると思うと、何もされていないのに七汐の胸の内には不快感が生まれた。
「エイ! 止めろ」
人の身を案じる水涸は例え最低の人間だろうが旧友を気遣う。このままではどちらかがどちらかを殺す勢いだった、気迫が空気すら狂わせている。だから、水涸はエイに語りかける。
「引いてくれ、争ったって何も生まないだろう!」
「おいおい、こんな時に綺麗事かい? 昔から真面目で誠実だったが、大人になってまで空気が読めないのかね?」
「分かっているが、口に出さなければ何も届かないだろうが!」
「君は、無駄な事を無駄と知り行う、愚か者だよ」
エイは目を細め、呆れと悲しみを含んだ表情で帯を流す、流れに乗り帯が水涸の体を切りに向かう。水涸がぐっと目を閉じると、帯が悲鳴を上げる。七汐が水涸を庇うようにメイスで帯を叩き落としていた。水涸の目の前で帯が撓み元に戻る。七汐は水涸を助けるように前に出る、黒い帯が休む暇なく迫ってくる、体ではなく、足を掬うように下から払う。
七汐はバックステップで躱す、帯はそのまま持ち主に絡みに戻るかと思いきや、水涸や麗の方へ伸びる。
「卑怯ですね! 貴方は」
一対一を望んでいるというのに、エイは合わせるふりをして躊躇なく後方へ致死の攻撃を仕向ける。手加減していては水涸や麗がやられる、だから七汐はメイスを振るう。
また、人の命が潰れた。七汐はこれで幸せだったのかと、雪に目線を落とし考えた。
「澪、こちらにおいで」
離れた所で立ち尽くしている澪を呼んだのはエイではなく見たことのない華矜院だった。
「誰ですか?」
「誰でもいい、私はただエイに付いてきただけ。幸運にも貴方に出会えた、ならばシズに会わせてあげましょう」
もちろん澪は首を振る。麗を殺そうとしたエイと息を合わせる華矜院になんて付いて行きたくない。――だが、澪は気付いてしまった。
「しずちゃん、……心配していた?」
「どうでしょう、私にはわかりかねます」
「やっぱり……しずちゃんに、会いたい」
そう、これが寿の言った"幸運"だ。違いない。これが標、ならばこの華矜院に付いて行けば澪は城に連れ戻されたフリをしてシズに会える。
――でもどうしてだろうか。どうして"イレギュラー"な存在を幸運の道標として用意できたのだろうか。
寿は初めからエイが命令を無視するという、個人の意思を読めていたのだろうか。それに付き従ったこの人物の今の状況を、寿は読んでしまったのだろうか。
得体が知れない。亡霊だからか、或いは"裏切り者が寿自身だったからか"。
足場が悪い、雪と水分が前衛である七汐のネックになる。相手は逆に動かず帯を操る、走って近付こうにも不利だ。異能を使えば楽になれる、だが、使わない。だから七汐は帯に捕らえられた、黒い帯は七汐を絡め、体をきつく締め付ける。
七汐は苦痛の表情を作りながら抗ったが、ついに手からメイスを落としてしまう。
「ぐ」
「はっは、ざまあないね」
「し、ね……ッ」
「汚れて許しを乞うまで傍に置いてあげると言ったね、こんなに早くそうなるなんてね」
エイが動く。今まで優雅に佇んでいた足が漸く雪に足跡を付け始める。一歩一歩近付いてくる、あれだけ強かった七汐でも帯を操るエイには敵わない。
「ッ!」
帯が叩きつけるように七汐を雪の上に転がす。その背中をエイが踏みつける。見下ろしてくる恍惚の顔をした男を七汐は目一杯睨む。
エイは顔を赤くして舌なめずりをした、これからされるであろう痛みを想像し、七汐は萎縮してしまった。
「今の僕は手加減できないよ」
「……ッ」
帯が氷柱のように尖ったかと思うと、七汐の腕を貫いた。
「ッ……あぁ! はっ、はぁ」
瞳が熱くなる、泣いていないのに雫が溢れる。
「エイさんッ!」
声を荒げたのは澪。こんな酷いことを何故できるのと、七汐の貫かれた腕に怯えながら叫ぶ。
「澪、君はシズに会いに行くんだろう? 早く行けよ、僕はこれと遊んでいるから」
「ぐ、!」
次は氷柱が逆の腕を雪に縫い付ける。ただ刺すだけでは終わらず、刺したまま撚る、引っ掻くように、氷柱が腕を貫通したまま移動すると、肉が裂け、酷い傷が生まれた。傷口が焼けるように熱い、頭が真っ赤になり我慢していても声が出てしまう。
「んッ、く……」
「もう少し頑張れよ」
エイは背中をぐりぐりと詰る。そして首に帯を巻き付け引き上げる。反り返った体から、喉から喘鳴がこぼれる。
「ふ……ッ、く」
「次は背中かな?」
帯は首を開放し、尖端を尖らせたかと思うと言葉通り背中を貫いた。
「ッあぁぁ!」
「やはり君は簡単には壊れない、まだ生きている、こちらを睨んでいる、とても楽しいよ!」
「はッ、は、ゲボっ、喉に、血が溜まるのでそろそろやめて……くれませんかね」
「まだ喋れるじゃないか」
エイは七汐の頭を掴み持ち上げる、首を振り抵抗した七汐を楽しそうに雪に押し付ける、顔が傷付き、髪から簪が落ちる。
「そう、もっと抵抗しろ」
七汐を仰向けにする、汚れた頬を拭うと触るなというように睨み付けてくる。エイは悪い子だというように頭を掴み雪に押さえ付ける、解けた白い髪が雪に散らばる。
エイは七汐の服の首元を開ける、現れた白い喉に帯を這わせる、我慢した悲鳴と共に赤く細い線が描かれる。真紅の線をいくつも執拗に描く、零れだした赤が喉元を伝い、痛みに上下する胸に流れる。黒い帯は這いずる、帯が七汐の首に絡まり絞め上げる。
「ぅ、……あ」
「首が絞まるというのは実に快感だろう!」
エイはそのまま殺してやろうと言う。痛みを快楽に変え、狂ったように溺れながら死ねると。
呼吸が出来ない、首を絞められながら首を切られる、意志も抵抗も奪い尽くすような帯の攻めに、弱り果てた七汐はただ喘ぐしかなかった。
「エイさんッ! もうやめてッ」
泣きたいのは七汐なのに、澪は先に大粒の涙を流し必死に訴えた。血色のよい、興奮した顔に何を言っても無駄なのに。だからもう一人の華矜院は澪の背中を押した。
「もうあれには関わるな、早くシズのところに帰ろう」
「貴方も止めてください!」
「無駄だよ」
やはり華矜院エイはおかしかったのだ。牢番を殺したのもエイに決まっている、分かっていたのに分からないふりで納得していた。怖かったのだ。
「うっ、う……」
もう一つ分かっている事がある、エイを止められないのは確実なのだから、七汐を見捨て早くシズに会いにいかなければ。
澪は背中を押されるままに歩き出した、水涸に一瞥をやり、麗を守って上げてくださいと赤くなった目で託す。それしかなかった、時間が、もうなかったのだ。
七汐は焼ける痛みの中、ただ一つ美しいものを想った。惨めに泣いて、口から悲鳴を上げていても、首に絡まる黒い帯の先の男は汚れているから、殺さなければと、こんな人間が居るから、悲しむ人が生まれるのだと。
七汐はお願い――と枯れた声で願う。
「君が、君が居てくれるなら……」
麗は薄目を開けて七汐を伺った。
私は、彼に付いていなければならない――。そう思わせる何かがあった。
「ミズガレは澪に付いていって」
「出来ない」
「シズさんと話が出来るのは、貴方もなんでしょう? 何かを成し遂げたいなら、たまには犠牲を払わないと」
「君が犠牲だというのなら、私はそれを選ばない」
「そうやって、変わってしまった、貴方はもう」
適性だよ――。
そう零された言葉の意味が会話の流れに合っていなくて、ミズガレは聞き間違えたのだと耳を別の場所に傾けた。
「……エイ、君が引いてくれれば全て円滑に進む。エイ」
ミズガレが、腹からその声を出した時、あのエイですら怖気が走った。
「君が引かないなら、私は君を傷付ける――」




