愛しているから殺したい
二夜の大地は水没した。
朝の清涼とした湖面のように波一つない静かな景色、玉響と、霧が浮かぶ湖面のゆらめきが永遠と地平線まで伸びている。山や木々、家屋に大地といったものはない、世界は一面が水の鏡、上下同じ灰の色。
この世は巨大な水槽。
ふと上から何かが落ちてくる、ぽちゃんと音を立て湖面を揺らし、暫くして浮かんでくる。雨粒のようにまた、ぽちゃんぽちゃんと落ちてきては同じように沈み浮かんでくる。
水槽には人が浮いている。それ以外はなにもない――。
***
華矜院シズは王の間で手紙を書いていた。目の前に玉座があるにも関わらずそれには座っていない。座っているのは床だ、そして机にしているのが玉座だ。シズは床に尻を付け足を投げ出し目の前の紙面に視線を注いでいた。机に向かうより丁度いい高さだったからというだけで、シズは床にしゃがみ込み椅子を机にして手紙を書いていた。
床に触れた足や尻から冷気が伝わってくる筈だが、シズの集中力がそれを忘れさせてしまうのか、震える事もなく思考とペンを連携させ紙と格闘している。紙と格闘するその表情はまるで勉強ノートに齧り付く子供のようだった。
シズが言葉を書いている紙の上部には親友への宛名。シズは親友の為に手紙を書いているのであるが、その親友を思い浮かべる事こそがシズの楽しみであったので、結論から言えばシズは自分の楽しみの為に手紙を認めていると言えた。
澪が見識を述べたようにシズは『華矜院シズ』とは思えぬ子供っぽさを抱えている面がある。白く冷たい花がペタリと床に座り椅子を机にしてペンをゴリゴリと鳴らすものだろうか。
それがしかし、気品ある白い髪と白磁のような肌、整った目鼻立ち、言葉を書き終えた後に立ち上がったシズの背には確かに『華矜院シズ』が混在していたのである。
手紙に封をし髪をまとめる。動物を模した耳と尻尾を体に飾り、ようやく椅子を元の用途通りに尻で踏みつける。瞳は冷たく睫毛の影が落ちる。人が通り過ぎれば無意識に殺してしまえそうな目、それこそが華矜院シズであった。
シズが玉座に座り考えているのは澪の事であった。
可愛い澪はいじめられっ子でいつもうじうじしていた。黒い髪を気にして髪の房を引っ張っていた、引っ張っていたので髪を伸ばしたいの? と聞くとそうではないと返ってきたが、ここで会話を切るとうじうじが再び始まる事が目に見えていた為、シズは適当に伸ばしてみては? と勧めておいた。
澪は大嫌いな黒髪を伸ばし始めた、嫌いなものの面積を増やすなど、おかしなものだと思った。
澪とシズは一緒にご飯を食べたり一緒に寝たりした。華矜院シズの愛子がまさか黒い髪の澪だなんてと、誰の顔にも書いてあった。
シズは柔らかいベッドの上にうつ伏せになり枕を抱き、足を漕いで澪を呼ぶ。
「ミオ、おいで」
「……シズ様の隣になんて、行けません」
二夜の地で澪を助けたのはシズだ、三世まで連れてきたというのに、澪はまだ警戒を解かない。恐れ多いですと拒否し、本気でシズを怖がり部屋の隅にじっと立つ。動こうとしない澪をシズは手招きする、手招きに逆らえばシズを不愉快にするという強迫性が澪の足を仕方なく動かし、半ば強制的に澪はベッドの中に招かれた。
どうして私を避けるのですか――? とシズ。
「シズ様、ボクなんかに触ったらダメです……」
「私が華矜院シズだから避けるのですか?」
澪は答えにくそうに頭を二、三度上下に振った。
「だって貴方はボクなんかが触れていいような方じゃない、大貴族の、四家の一人の華矜院シズ様なんです……」
「ここに華矜院本家はない、私は他と何の隔たりもないただの個人だ」
「そうじゃなくて……」
「ではこの手は君とは違うのか? この目はみなとは違う? この体は、脳は、心臓はどう違う? 華矜院シズとは君にとって化け物か?」
シズの手が澪の後頭部に回る、引き寄せ、顔が近くなる。
「いたッ」
澪が上げた悲鳴の原因はシズが澪に寄りかかる際に押さえ付けた右手にあった。シズは右手を拾い上げる。
「怪我してるね、いじめられたのですか?」
「……」
「華矜院にやられたって事くらい、誰にでも解りますよ」
推理せずとも転がっている澪へのあからさまな嫌悪くらいシズでも理解している。シズは一瞬も思考せず極めて自然な考えであるよう次の言葉を述べた。
「殺してあげよっか?」
ジュースを買ってきてあげようか? という意味と同じと気付いた瞬間澪はぞっとした。怖い、シズが申し出た事を直ぐ様否定しなくては。
「いらないッ、いいです!」
「どうして? 嫌な事してくる奴なんていなくなった方が楽しいでしょう」
「いいんです、殺すなんて絶対にしないでください」
「殺しちゃダメなの?」
「ダメです、いりませんっ」
いらないと言われたならまあいいかという程度でシズは収まった。
「じゃあ右手治してあげるね」
「え、あ」
「痛いの飛ばしてあげるから」
にこにこと澪の右手を望むシズはまるで子供のように無垢であった、言葉遣いも段々と幼くなっている、まさかとは思うが痛いの痛いの飛んでいけ〜等とはやらないだろうかと一瞬澪の頭に過ぎったが、二十五を過ぎた年齢の青年が、ましてや華矜院シズがやるはずもないだろうと振り払う。
シズは澪の手の甲に切り傷を見つけそれを両手で包み込む。ぴりっとした痛みと、シズに触れられた傷口に澪が目を閉じる。やがてシズの両手が開かれ、傷の痛みが赤い色と共に消え去った。
「あ、れ?」
「どう? 飛んだ?」
「傷がない、痛くないよ!」
この時澪は肌の再生をシズの異能と結びつけた。だがそれは誤りで、シズの異能は別にあり、傷を治す力は華矜院の血族に受け継がれる治癒の力であった事を思い出した。澪には髪と同じく治癒の力すらなかったので判断が遅れてしまったが、治癒の効果は大小で、大体の血族は擦り傷をかさぶたへと早める程度のものを持っていた。それはしかし、要は人間本来の自己再生機能の二倍速のようなものであり、たいした効果ではなかった。
だがシズは別格だ、傷を塞いで肌を再生し、痛みまで消しているのだから。
壊れたものの即時再生は不可能だ、華矜院家の直系だから、シズが奇跡の子だからか。澪には何にしろやはり華矜院シズは特別で、その特別なシズが目の前に居るのだと思い知らされ、身分の不相応さに胸をえぐられた。
「ボクが言いたかったのは、シズ様が人とは違う、例えば神の血を受けているとかそういう、高貴なものとして崇める必要性の話で、ただ貴方が華矜院家の直系血族で、白い華で、ボク達とは生まれが違うから、そういう生まれで将来が決まる体系はどこにでもあって……、だからシズ様はただの人かもしれないけれど、華矜院シズ様でなければならないんです。ボクは華矜院シズ様として貴方を敬うしかない、みんなそうしているものを破れない」
「それは僕を生贄にしているという事だ。白い華として天上に咲いていなければならないと、血だけを理由にして、僕個人の気持ちは無視して。宗教的に縛り上げ僕個人を潰している狂信者がミオ、君達だ。それが"みんなそうしているから当たり前"でよいことなのか?」
「シズ様ごめんなさい、ボクは華矜院にもなれない、華矜院からも迫害されるだけの存在だから、貴方を崇めさせてください、貴方の理想とする友達にも玩具にもなれません。ボクは弱い……」
澪は祈るようにシズを拒絶した。そこには神と宗徒から変わることの出来ぬ二人の姿があった。
「澪は、澪は本気でそうしているのですね。ごめんなさい、冗談半分でした、澪を困らせるためにあんな事を言った。上下関係を守ることはみんなしているよ、特別な事じゃない、僕だって冷泉家や権能家には頭を下げる。だから澪が僕を個人ではなく華矜院シズとして見て対等にはなれないのは当たり前だ」
「シズ様、意地悪ですね」
「意地悪呼ばわり出来るくらいなら、これからはしずちゃんって呼んで、その方が可愛い」
「そんな風に言えないです」
「それくらいは許されるよ」
まだ出会ったばかりの当時。華矜院家の最高権力者華矜院シズをまさかしずちゃん等と呼べるはずもなく、澪は酷く戸惑った。今やしずちゃんと呼び砕けた口調で話すようになったが、当時はもちろん、シズをしずちゃんと呼ぶわけにはいかず断りを入れている。シズはつまらなさそうにベッドに転がった。
その時から澪はシズと共に過ごすようになった。 あまりにもシズが子供のように見えたから。麗と同じ、自分より歳下ならまだ怖くないからと澪は安心したのであった。
澪は華矜院家の中で異端の黒であった、その為に下を向き侮蔑の視線から逃れていた、白い髪になりたかった、華矜院の仲間に入りたかった。シズに吐露して泣いた事もある。だがシズは黒い髪を愛しいと指で触れた、驚いた澪は恐怖を抱く、白い華が、華矜院の象徴がよりにもよって黒い髪を愛しいと告白したのだから。そしてそれが水鶏の怒りを買う結果にもなった。水鶏は黒い澪がどうして白いものより贔屓されるのかと、不満は自然と現在への流れを生んだ。
澪はそれでも何故シズと離れられなかったのかというと、離れる理由と、離れた後の再び訪れる孤独が天秤の上で平行であったからだ。澪は単純に決められなかった、水鶏を恐れシズから離れる事も、強い意思を持ちシズの傍に居続ける事も。だからその優柔不断さが災いし、ついに水鶏に白い部屋に入れられた。
シズは澪の事が好きだ。黒い髪を引っ張り、白い髪に憧れていた、華矜院になりたがっている澪が。
なにより好きだ。会いたいと願った。
会いに行きたい、そして会いに来てほしい。
ミオ――大好きなんだよ。
「だから、ミオの事殺しちゃいたいんだ」




