退廃的な隙間で
男の腕が麗に叩き付けられる、空気の流れを察した瞬間麗は両手を顔の前に持ってきた。
「ッ……」
男の拳が叩き付けられる、少女の腕の内から嫌な音が鳴り、力に嬲られるまま雪の上に倒される。澪は悲鳴を零し目を瞑った。
麗は起き上がろうとしたのだが腕が上がらなかった、ガクッと肘が崩れ、倒された姿勢からどうする事も出来ない。澪が駆け寄る、肘に手を当てると麗が小さく悲鳴を上げた。
それと同じくして――麗を殴った男の体が地面に投げ出された。
何事かと、澪は倒された男と、そして新しく現れた人影を視線で辿る。黒い服の背の高い人物が、麗を殴った男を蹴り倒したようだった。
倒された男は麗と同じ様に冷たい地面に頬をぶつけ反吐を吐いていた、その顔の上に勢いよく第三者の靴底が叩き付けられる、男は頬を砕く勢いで押し付けられる靴を退かそうとしたが、靴を掴む手が何か棒のようなもので払われ、払われた手の甲を棒の先で突き刺された。
「ぎゃあ!」
「死ぬのと謝るのと、どちらがいいですか」
どちらもあり得るもんか! 殺してやる! と男が視線を上げ、そして、ぎょっとした。逆光になった黒い影の中に、ぞくりとするような冷たい目があった。青い髪に黒いシルクハット、倒された雪の地面より尚冷たい瞳は、殺意を抱いて男を見下ろしていた。
「すま、なかった…」
男はあまりの冷たさに殺意より謝罪を述べていた、生存本能が怒りより許しを乞う事を選択したのだ。男は賢明だった。青い髪の人物は悪魔ではない、謝罪を述べると、あっさりと棒と靴底を退けてくれた。
「消えろ、そして二度とこの子の前に現れるな」
「わかった……」
青い髪の人物がもし凶器を持っていたら確実に刺していただろう。静かなる声色の中には押し殺した殺意が感じられたのだ。男は踏まれた頬を擦りながら脇目もふらず退散した。
「あ、ありがとうございます……」
暴漢を撃退してくれたなら味方であろうから、澪は青い髪の人物に礼を言った。
「それよりウルワを早く、何処かで診てもらわないと」
ウルワという彼女の名前を知っている。知り合いだろうか、それはともかく、澪にとっても彼の言う事は最もの気持ちなのだが、気持ちに反して首を横に振った。
「医者は三世にたった一人だけです、みんな華矜院の城に治療しに行っています」
「戻れと言うのか……」
「そうです、城に帰れば医者は居ます、ただこの子もボクもどうなるか解りません、一度殺され掛けたから」
殺され掛けたというところで、青い髪の人物は苦い顔をした。
殺され掛けたのなら、そんな物騒なところに戻る選択肢は取れるはずがない。青い髪の人物も澪も口を紡んだ。
「ミズガレ……」
その名前が呼ばれた瞬間、青い髪の人物は一気に懐かしく、愛おしい気持ちに胸を掻き乱された。二夜に居る時、確かに呼んでもらっていた名前。
麗はもう一度口から零した。
彼を――水涸を見て。
「来てしまったんだね、誰を殺したの?」
「いいんだ、それより」
「おばあちゃんでしょう?」
「ッ……君、どこか休ませて貰える場所を知らないか?」
胸を突いてくる刃を躱すように、水涸はこれ以上麗が踏み込んでこないよう話を逸らそうとした。そこへ再び刃を振り下ろすような麗の追撃はなかったので、澪は会話を受け取った。
「ダメ、だと思います、怪我人を置いてくれる場所なんてないから……」
「ダメでも願うしかないだろう、私は街に戻る」
水涸は澪とは違いすぐに行動に移った。麗を抱き上げて、腕を労りながら大切そうに運ぶ。
澪はぐずぐずしている自分を呪い、追い掛けられず距離取っていく相手の背中を見詰めていたが、やがて髪を振り乱して口を開いた。
「あのっ、貴方は……」
ミズガレ、と麗が呼んでいた。麗を連れていこうとする相手の素性も知らないのに、麗を任せてもよいものか。だから澪は走って背中との距離をゼロにしようとした。途中で、転んだ。
「大丈夫か? 私は水涸、この子の家族だ」
「お兄さん?」
「そんなところだ」
全く似ていなかったし歳も離れすぎている。家族が血の繋がりだけではない事を知っていたので、澪はその回答から二人は家族同然の付き合いをしてきたのだろうと想像した。
「君は桐生の子か? それにしては……」
いつもの目だ。好奇と疑念の目が集中する度澪は背中を向けてきた。金の瞳に有り得ない黒い髪は澪にとっての忌まわしい呪い。
水涸は詮索されたくなかったのだと悟り、澪の背中に謝ってから「さあ」と手を伸ばした。
君も来るんだ、そう伸ばした手の先に、黒髪があった、澪のものではない――化け物の黒髪が。
「嘘だ……」
有り得なかった。水涸の中で、その黒髪はもはや有り得るはずがなかったのだ。麗を抱く腕が震える、彼女を落とさないよう強く抱きしめていなければ彼女に第二の怪我をさせてしまう。――取り乱すな。麗の太腿と腰を抱き寄せ肌を合わせる、意識を彼女に注いだが、駄目だった。信じられない、こんなの嘘だ、そればかりが水涸を支配する。
麗は目を開けられなかった、だから水涸が見ているものの正体が掴めなかった。
「久しぶりだね、穏雅」
水涸の見ている化け物が防寒具の隙間から腕を出した。その腕は顔に近付き、掛かっていた眼鏡を外す。レンズの下には、水涸を慈しむような深い緑の瞳が鎮座していた。
「寿……さん」
その男は、存在していてはならぬ場所に未だ存在し続けている、亡霊だった。
***
人を殺すと己が消える。消えた先には二夜があって、二夜のどこかにふいと現れる。二夜の向こうにも、ふいと現れる。
凪と槐が出会ったのはとある組織のアジトだった。一巡と二夜が混ざり合って朽ち果てたような廃ビルに、人々は打倒華矜院を掲げ息を潜めていた。
華矜院は選定に適ったものしか街に置かない、扱い辛いものや犬になろうとしないもの、そういう支配しにくいものは捕まえるか壁の外に永久追放するかした。また、働けない老人、何も生産しない若者も、同じく不要とみなし追放した。街に居るのは華矜院に従順な働きものか、波風立てず密かに華矜院を罵倒するものかの二種類となった。
あぶれ出した者は自ずと壁の外を彷徨う、そして野犬に食い殺されるか、寒さで凍死するか、――或いは。その或いはを願って作られたのがこの組織だ、行き場をなくした者たちが身を寄せあい築く、凍土の楽園。
槐はそこで暮らしていた、槐の髪は赤い、赤い髪は梳理の証。梳理と華矜院は犬猿の仲だ、誰もが知る華族の泥沼を今更槐に聞こうとは凪も考えなかった。
天を求めて空へ向かい、途中で神に壊されてしまったような廃ビルの連なりを奥へ進むと、二夜の端にあったような一軒屋の形をした廃屋が姿を表した。三世でもやっている事は同じで、穴の空いた屋根を塞ぎ、傾いた柱を塗り固め、飛び出ている骨組みに布を巻いて人が住んでいた。
凪は先程から視線を感じていた。十あるとするなら二は凪へ、そして八は別の所へ注がれていた。
神流だった。
銀の長い髪、深い青の瞳、二夜を擬人化したような神秘の天使を、廃屋の中、裏、廃ビルの方面からも無数の目が追っていた。
「今日は消えなくていいんだ」
「今は廻る世界に参加していたいなってそんな気持ちだから」
「どういう気持ちだよ」
「二夜とは違って一面が真っ白だよ。見て、遠くのものは輪郭がぼやけている、吐く息は煙になって、僕たちは第三の世界に立っている。素敵じゃない?」
「いや、人殺しが更に人殺して飛んできた世界だぜ? 素敵なわけあるか」
「此処を罪や歪みで染めているのは人間だよ、世界は元々美しいじゃない――」
神流が笑った時、罪悪を感じたのは笑い掛けられた凪ではなかった。
廃屋の立ち並ぶ一画にその大きな屋敷は存在していた。壁は鈍色に錆び付き、染みが出来、雪が山を作っている庭は瓦礫の廃棄場さながらの光景であった。
内装は所々剥げ落ちていたが、清潔感を感じさせる程には傷や汚れが取り除かれて温かみのある茶色をしていた。誰が拾ってきたのか、廊下には金の刺繍が成された白い布が旗のように掛けられ、その下にはごみ捨て場から見つけたぬいぐるみや人形が綺麗に磨かれて置いてあった。
きょろきょろしながら凪は槐について行く。朽ちて廃れた世界は二夜と変わりなく、廃屋の中に住んでいると感じる独特の寂寥感も二夜と変わりなかった。
一巡は自然が溢れていた、自由で美しくて色鮮やかだった。山紫水明だった、炯然だった、燦々としていて、目が曇ったりしなかった。水が流れていた、木々が茂っていた、風が吹いていた、色があった、暑いくらい色鮮やかで、寒いくらい体の冷える季節もあった。綺麗だった、綺麗だった、綺麗だった――。
世界はこんなにも綺麗だったのに――。
ここにはなにもない。
灰色だ。
***
槐はここが食堂で、ここが会議室で、ここが水を浴びる場所だとかを凪に説明しながら部屋に戻った。凪も槐の部屋に入ってきた、槐はあの似合わないストールを綺麗に伸ばして掛け、脚が折れてしまいそうな椅子を横に片付けた。
「もう少ししたら寿さんも帰ってくるから、そしたら話をしよう」
「寿さんて、あの黒髪のだよな?」
「うん」
凪が廃ビルの下に現れた時、初めて目にしたのが寿だった。城から飛び降りた先がビル群の下だなんて、まるで自殺の続きだなと皮肉がった。
寿は黒く長い髪を三つ編みにして肩から流し、緑の瞳の上に眼鏡を掛けていた。ゆったりと全身を包む防寒具は黒く、白い毛がフードや袖周りに揺れている。知的な顔立ちはしかし温かく、この人は安心出来る人間なのだと一発で信じ込ませられるような穏やかさを湛えていた。
槐はあまり喋る方ではないので基本的に無言だった、凪が槐に因縁のようなものがあると感じていて、近付こうとはしなかった。神流は消えていた、それがいつもの事であるから凪は気にも留めなかった。
やがて寿が帰還した、懐かしい……家族を連れて。
***
神流は廃ビルの屋上に立っていた。
激しい風が雪を抱いて叩きつけ、長い髪が左右に大きく煽られる。凍える冷たい雪が、肌に服に髪に張り付いている。
神流のつま先の前には何もなかった、体がぐらつけば遙か下方へ転落する、ぎりぎりの縁に神流は佇んでいた。
世界を見下ろす銀の天使のように、神流はこの世を見晴るかしていた。
――何故、廃ビルや廃屋が街にはなかったのだろう。
それは、人が真実を恐れたからだ。
――何故、廃ビルや廃屋があるのだろう――と。




