オールド・スコッチ
945年4月15日、ワシントンD.C.。
ハリーは鏡の中の自分を見ていた。
ひどい顔だった。
疲れている。
それだけならよかった。
目の下が落ちくぼみ、口元が固くなっている。
大統領の顔には見えなかった。
少なくとも、ハリーがこれまで見てきた大統領の顔には。
ルーズベルトは違った。
何千人を前にしても、何万人を相手にしても、自分がそこにいることを疑ったことなど一度もないような顔をしていた。
実際に疑わなかったのかは知らない。
だが、そう見えた。
ハリーは鏡から目を逸らした。
昨日、ホワイトハウスで棺を見た。
星条旗に覆われていた。
今日、ハイドパークで土に還った。
汽車の窓から、何度も人々を見た。
線路沿いには、帽子を取る男や、手を合わせる女が立っていた。泣いている者もいた。
誰もが、ルーズベルトを見送っていた。
十二年だ。
十二年も大統領だった。
子供だった者が大人になる。
若者だった者が家庭を持つ。
その間ずっと、ラジオをつければ同じ声がした。
フランクリン・ルーズベルト。
それが突然いなくなった。
代わりに自分がいる。
ハリーは椅子に腰を下ろした。
あの葬列の中では楽だった。
楽、という言葉を使うべきではないのかもしれない。
だが、そうだった。
黙っていればよかった。
俯いていればよかった。
眉間に皺を寄せていても、誰も不思議には思わない。
新しい大統領は、前の大統領の死を悼んでいる。
そう見える。
誰も、その顔の半分が別の理由で固くなっているとは知らない。
ハリー自身、まだうまく言葉にできなかった。
怖い。
それが一番近かった。
電話が鳴った。
ハリーは顔を上げた。
一瞬、胸の奥が縮んだ。
電話が鳴るたびに、何かが起きたような気がする。
四日前から、そうなった。
受話器を取った。
「はい」
聞き慣れた声だった。
『ハリー』
肩から少し力が抜けた。
「サムか」
サム・レイバーンだった。
『戻ったか』
「ああ」
『飲めるか』
ハリーは時計を見た。
「それは質問か?」
向こうで笑った。
『大統領になると、冗談まで説明してもらわなきゃ分からなくなるのか』
「四日しかやってない。もう少し待ってくれ」
『じゃあ来い』
「どこへ」
少し間があった。
『教育委員会だよ』
ハリーは受話器を持ったまま黙った。
四日前。
同じ場所へ行った。
いつものように酒を飲むつもりだった。
そこへホワイトハウスから電話が来た。
急いで来てほしい。
理由は言わなかった。
行ってみると、エレノアがいた。
フランクリンが死んだ、と言った。
そして――
「分かった」
ハリーは受話器を置いた。
*
議事堂は夜になると広くなる。
昼間なら議員や秘書、記者、役人が絶えず行き交う廊下も、今は靴音だけが先へ走っていった。
ハリーはレイバーンの部屋へ入った。
「大統領閣下」
レイバーンが立ち上がった。
ハリーは嫌な顔をした。
「やめろ」
「何をだ、大統領閣下」
「サム」
「はい、大統領閣下」
「帰るぞ」
レイバーンが笑った。
「座れ、ハリー」
テーブルにはグラスが二つあった。
ハリーはいつもの椅子に座った。
それだけで妙な感じがした。
四日前までと同じ椅子だった。
同じテーブル。
同じサム・レイバーン。
違うのは自分だけだった。
レイバーンが酒を注いだ。
「どうだった」
ハリーはグラスを取った。
何について聞かれたのか、聞き返す必要はなかった。
「寒かった」
「そうか」
「人がずっと立ってたよ。線路の脇に」
レイバーンは黙って聞いていた。
「ニューヨークへ入っても、まだいた。ハイドパークにもいた」
ハリーは一口飲んだ。
「みんな、フランクリンを見てた」
「十二年だからな」
「ああ」
「長い」
「ああ」
また飲んだ。
「俺にはできんよ」
レイバーンは酒を飲もうとして、止めた。
「何が」
「十二年」
「やる必要はない」
ハリーは顔を上げた。
「一日ずつやれ」
「簡単に言うな」
「簡単なことしか言ってない」
レイバーンは飲んだ。
「明日は一日目だ」
「もう四日目だぞ」
「違う」
グラスがテーブルに置かれた。
「明日は、みんながお前を見る」
ハリーは黙った。
翌日、議会で演説する。
大統領として。
議員たちの前に立つ。
その向こうには新聞がいる。
ラジオがいる。
国民がいる。
連合国がいる。
敵国も聞く。
「サム」
「なんだ」
「俺が何を知らないか、知ってるか」
「知らん」
「俺にも分からん」
レイバーンが吹き出した。
「そいつは重症だな」
「笑い事じゃない」
「笑えるうちは笑っておけ。明日は笑えん」
ハリーはグラスを置いた。
「昨日まで知らなかったことが多すぎるんだ」
声が低くなった。
「軍のこともだ。外交もだ。フランクリンが何を考えていたのかも、全部聞いていたわけじゃない」
レイバーンは何も言わなかった。
「それで俺が決めるんだぞ」
ハリーは自分の手を見た。
「本当に、俺が決めていいのか」
しばらく、グラスの氷が溶ける音だけがした。
レイバーンが口を開いた。
「知らん」
ハリーが顔を上げた。
「おい」
「俺に聞くな。俺は下院議長だ」
「役に立たんな、教育委員会は」
「授業料を取ってないからな」
レイバーンは少し笑った。
それから、ハリーを見た。
「だが、一つだけ教えてやる」
ハリーは待った。
「今日までは、その顔でよかった」
「顔?」
「今のお前の顔だ」
ハリーは眉を寄せた。
「昨日も今日も、みんなフランクリンを見送ってた。お前が黙っていようが、俯いていようが、暗い顔をしていようが、誰も何とも思わん」
レイバーンは指を一本立てた。
「大統領も悲しんでいる。そう思うだけだ」
ハリーは黙って聞いていた。
レイバーンの指が下がった。
「だが、葬式は終わったぞ、ハリー」
部屋が静かになった。
「明日から、みんなが見るのはフランクリンじゃない」
ハリーはレイバーンを見た。
「お前だ」
グラスに手を伸ばしかけて、やめた。
レイバーンは続けた。
「お前が不安そうな顔をすれば、議会が不安になる。議会が不安になれば新聞が騒ぐ。新聞が騒げば国民が不安になる」
「じゃあ、自信のあるふりをしろっていうのか」
「そうだ」
即答だった。
ハリーは目を丸くした。
「ずいぶん立派な教えだな」
「教育委員会だからな」
「嘘をつけと?」
「違う」
レイバーンの声から笑いが消えた。
「分からないなら、分からないと言って聞け。マーシャルに聞け。スティムソンに聞け。外交なら外交の分かる奴に聞け。俺たちに聞いたっていい」
そして少し身を乗り出した。
「だが、最後に立っている男まで一緒になって怯えるな」
ハリーは動かなかった。
「怖くなくなってから大統領をやろうと思ってるなら、いつまで経っても始まらんぞ」
ハリーはグラスを見た。
琥珀色の酒が、わずかに揺れていた。
「サム」
「なんだ」
「お前、大統領をやったことないだろ」
「ない」
「よくそんな偉そうなことが言えるな」
「下院議員を三十二年もやるとな」
レイバーンは自分のグラスを持ち上げた。
「大統領に偉そうなことを言えるようになる」
ハリーは笑った。
ほんの少しだった。
四日前と同じだった。
ここでは、まだ笑えた。
レイバーンも笑った。
それから何でもないことのように言った。
「明日の原稿は読んだのか」
「読んだ」
「頭に入ってるか」
「だいたいは」
「だいたいじゃ困る」
「おい。さっき分からないことは聞けと言ったじゃないか」
「演説の順番まで俺に聞くな」
ハリーはもう一度笑った。
「分かったよ」
レイバーンは酒を飲んだ。
ハリーも飲んだ。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
やがてハリーはグラスを置いた。
立ち上がる。
「帰る」
「そうしろ」
「寝られるか分からんがな」
「寝ろ。明日は大統領が議会へ来る」
ハリーは扉へ向かった。
手をかけたところで、後ろから声がした。
「ハリー」
振り返った。
レイバーンはもう笑っていなかった。
「怖いのは構わん」
ハリーは待った。
「怖がっているのがお前だけならな」
ハリーはしばらくレイバーンを見ていた。
「ああ」
それだけ言って、部屋を出た。
*
廊下を歩きながら、ハリーは窓に映った自分を見た。
さっきと同じ顔だった。
疲れている。
不安も消えていない。
何一つ解決していなかった。
マーシャルの知っていることを、自分は知らない。
スティムソンの知っていることも知らない。
外交官たちの知っていることも知らない。
ルーズベルトが十二年かけて知ったことを、四日で知ることなどできない。
それでも明日、議会は自分を見る。
ハリーは足を止めた。
窓の中の男を見た。
大統領には見えなかった。
「……まあいい」
小さく呟いた。
明日は、そう見えればいい。
本物になるのは、そのあとでいい。
ハリーは歩き出した。




