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トルーマン ~蚊帳の外の男が大統領になったら、原爆もソ連も全部回ってきた~  作者: 人知るミシル


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10/14

ハリーの祈り

一九四五年四月十六日、午後一時すぎ。


下院本会議場へ入った瞬間、全員が立った。


ハリーは思わず足を止めそうになった。


見慣れた議場だった。


十年間、何度この建物を歩いたか分からない。上院議員として座り、副大統領になってからは上院の議長席にも座った。


だが、今日だけは景色が違った。


床を埋める下院議員。


そこへ加わった上院議員。


閣僚。


外交官。


傍聴席。


そして、ラジオのマイク。


議場に入りきらないアメリカ人まで、その向こうで待っている。


拍手が降ってきた。


ハリーは歩いた。


知っている顔ばかりだった。


昨日までなら、その中へ入っていく側だった。


今日は全員の顔がこちらを向いている。


演壇へ上がった。


目の前に原稿を置いた。


早く始めたかった。


立ったまま待っている方が、よほど落ち着かない。


息を吸った。


「議長――」


後ろから声が飛んだ。


「ちょっと待て」


ハリーの口が止まった。


レイバーンだった。


「紹介させろ、ハリー」


ハリーは振り返った。


昨夜、自分にスコッチを飲ませた男が、下院議長の席からこちらを見ている。


昨夜は、


怖いのは構わん。


そう言った。


怖がっているのがお前だけならな。


その男が今日は、何事もなかったような顔で議場を見渡した。


「議員諸君」


声が響いた。


「合衆国大統領をご紹介できることを、私は大きな喜びと名誉に思います」


拍手が爆発した。


また全員が立った。


ハリーは前を向いた。


紹介されなければ演説も始められなかった男が、合衆国大統領だった。


まったく、ひどい出だしだ。


だが不思議と、さっきより息がしやすくなっていた。


レイバーンにやられた。


そう思った。


拍手が収まった。


今度こそ、ハリーは原稿を見た。


「議長、上院議長、そして議員諸君」


声が議場へ出た。


震えてはいなかった。


「私は重い心で、皆さんの前に立っています」


ハイドパーク。


十二年間アメリカを率いた男の長い人生が、あの穴の中へ消えていった。


フランクリン・デラノ・ルーズベルト。


十二年間、大統領という言葉そのものだった男。


ハリーは原稿を追った。


本当なら、黙っていたかった。


死者への最も雄弁な敬意は、沈黙かもしれない。


だが、いま沈黙すれば。


ベルリンは、どう受け取る。


東京は、どう受け取る。


モスクワは。


ロンドンは。


アメリカ軍は。


大統領が死んだ。


新しい男は何を考えている。


戦争は変わるのか。


講和を始めるのか。


連合国は揺らぐのか。


ハリーは顔を上げた。


黙っていることにも、意味がついてしまう。


もう、自分の沈黙は自分だけのものではなかった。


「我々には、重大な責任が課せられました」


議場は静かだった。


「前へ進まなければなりません」


ルーズベルトは死んだ。


それでも戦争は止まっていない。


ハリーは次の行へ目を移した。


ここからだった。


ドイツも、日本も、この声を聞いている。


ハリーはマイクへ少し顔を近づけた。


誤解の余地を残してはいけない。


政権が変わったからといって、戦争の目的は変わらない。


ドイツにも。


日本にも。


抵抗が残る限り、アメリカは戦う。


途中で手打ちはしない。


中途半端な勝利を、勝利とは呼ばない。


ハリーは一呼吸置いた。


「我々の要求は、これまでも――そして今も変わりません」


原稿から目を上げた。


「無条件降伏です」


議場が動いた。


拍手が立ち上がり、ハリーは言葉を止めた。


無条件降伏。


何度も新聞で読んだ言葉だった。


ルーズベルトが掲げた言葉だった。


いまは、その言葉を自分がドイツと日本へ突きつけている。


拍手が収まる。


ハリーは続けた。


だが勝てば、何をしてもいいとは言わなかった。


不必要な苦痛を望んでいるわけではない。


それでも、侵略し、殺し、法を踏みにじった者を、そのまま逃がしもしない。


戦争犯罪人は追う。


遠い山中へ逃げ込もうと、責任から逃れる場所にはしない。


勝利とは、敵の軍隊を止めるだけでは足りない。


次の戦争を準備できる状態を残したなら、また若者を戦場へ送ることになる。


第一次大戦のあとに、それをやった。


二十数年しか保たなかった。


ハリー自身、その最初の戦争でフランスの泥を踏んだ。


あの時は終わったと思った。


終わっていなかった。


だから今度は、勝ったあとまで考えなければならない。


地図の端に逃げれば安全な時代でもない。


海が国を守ってくれる時代でもない。


飛行機が飛び、船が渡り、世界が縮んだ。


安全を作るなら、国境の向こう側まで含めた法と秩序を作らなければならない。


ハリーは頁をめくった。


次に出てきた文章を見て、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。


戦争だけではない。


アメリカ国内の話だった。


普通の人間の暮らしを良くする努力を止めない。


ルーズベルトが十二年間進めてきた仕事を、死んだからといって投げ捨てない。


工場では男たちが働き、商店では女たちが店を切り盛りし、農場では家族が暮らしている。戦争が終われば、若者たちも仕事を探して帰ってくる。


ハリーが知っているのは、そういう人間たちだった。


大統領になったからといって、急に世界の首脳と将軍だけを相手にするわけではない。


戦争に勝っても、帰ってきた兵士に仕事がなければ何のための勝利か。


拍手が起きた。


ハリーは待った。


そして、また戦争へ戻った。


ヨーロッパでは、ヒトラーの支配が崩れようとしている。


太平洋ではまだ終わっていない。


ハリーは原稿の一文を読んだ。


東京は、アメリカ軍の爆撃の重みに揺れている。


その言葉を口にした瞬間、議場の向こうにある太平洋が少しだけ近くなった気がした。


自分には、あの戦争を一から組み立てることなどできない。


それは分かっている。


だからこそ、その次の部分は重要だった。


ハリーは一人ずつ名前を読んだ。


リーヒ。


マーシャル。


キング。


アーノルド。


アイゼンハワー。


ニミッツ。


マッカーサー。


名前を読むたび、顔が浮かんだ。


数日前まで、自分より遥かに多く戦争を知っていることに圧倒されていた男たち。


今だって変わらない。


彼らの方が知っている。


彼らの方が戦争を動かせる。


だから、動かしてもらう。


ハリーは議場を見渡した。


軍の指揮は変えない。


余計な邪魔もしない。


その方針を世界へ向けて言い切った。


それまでとは違う音が返ってきた。


拍手が一段大きくなった。


長い。


なかなか終わらない。


ハリーは黙って待った。


昨日までなら、自分も拍手していた側だった。


拍手の中で、マーシャルの顔が浮かんだ。


あの男の方が、自分よりはるかに戦争を知っている。


三日前、その事実は恐ろしかった。


今も事実は変わらない。


だが、変える必要もなかった。


マーシャルには、マーシャルの仕事をしてもらえばいい。


拍手がようやく弱くなった。


ハリーは次の頁へ進んだ。


戦争の先には、サンフランシスコで始まる仕事が待っている。


大統領になって一時間もしないうちに、会議は予定通り開くと決めた。


世界各国を集めて、戦争が終わったあとも残る仕組みを作る。


希望だけでは戦争を止められない。


第一次大戦のあと、人々は平和を願った。


願った。


それでもまた戦争になった。


ならば今度は、願うだけでは足りない。


国同士が争った時、砲兵と爆撃機を出す前に処理できる仕組みがいる。


それがなければ世界中が、次の戦争を恐れて武装し続けることになる。


アメリカも例外ではない。


大国には力がある。


だから責任もある。


だが、その力で小国を支配するためではない。


大国は、平和を守るために働かなければならない。


ハリーはそこを読んで、わずかに間を置いた。


だが、同盟国だからといって、戦争が終わったあとまで同じことを望むとは限らない。


いまは同じ敵を見ている。


敵がいなくなったあと、何を見るのか。


だからこそ、大国が力だけで物事を決める世界には戻せない。


原稿はさらに先へ進んだ。


平和は外交官だけで作るものでもなかった。


国が互いに物を売り、買い、工場を動かし、仕事を増やし、生活を良くする。


貧困と失業と閉ざされた市場の中で国々が互いを敵だと思い始めれば、紙に書かれた条約だけでは保たない。


戦争の後にも、人間は食べなければならない。


働かなければならない。


暮らさなければならない。


大統領になって四日目の男が、議会で世界の戦後を語っている。


ハリーは一瞬、その事実を意識した。


途端に喉が乾いた。


考えるな。


次だ。


原稿へ戻った。


アメリカ一国でもできない。


大統領一人でもできない。


議会の助けがいる。


国民の助けがいる。


他国の助けもいる。


経験豊かな水先案内人であっても、乗組員が協力しなければ船を港へ入れられない。


その一節を読みながら、ハリーは目の前の議員たちを見た。


昨日まで仲間だった。


今日からは、大統領として協力を求めなければならない。


それでも、頼むことを恥じる必要はない。


三日前にも頼んだ。


祈ってくれ。


あの時は、本当に自分のためだった。


助けてくれ。


俺には重すぎる。


そういう祈りだった。


最後の頁になった。


ハリーの指が紙の端を押さえた。


議場が静かだった。


十八分近く話していた。


ここまで来た。


最後に残っているのは、また祈りだった。


ハリーはゆっくり顔を上げた。


三日前と同じ言葉を言うつもりはなかった。


重荷を軽くしてほしい。


大統領をやらずに済ませてほしい。


誰かもっと立派な人間に任せてほしい。


そんなことを祈っても、明日の朝には机の上へまた書類が置かれる。


マーシャルも来る。


スティムソンも来る。


スターリンもチャーチルも待ってはくれない。


ならば。


必要なのは、荷物を消してもらうことではない。


ハリーは原稿を見た。


ソロモン王。


国を治めることになった王が神へ願ったもの。


富ではない。


長生きでもない。


敵を殺してくれ、でもない。


ハリーはマイクへ向かった。


「今、私の心には一つの祈りがあります」


声が、さっきまでより静かになった。


民を裁くために。


善と悪を見分けるために。


理解する心を与えてほしい。


ハリーは読み終えた。


そして最後に、自分が望むのは、神と国民に仕える誠実な僕であることだけだと告げた。


口を閉じた。


一瞬。


静寂。


次の瞬間、議場が立ち上がった。


拍手が押し寄せた。


ハリーは原稿から手を離した。


終わった。


手をどうしたらいいのか分からなくなった。


敬礼するわけにもいかない。


振るのも妙だ。


結局、いつものように両手を腰のポケットへ突っ込んだ。


その姿のまま立った。


背後にはレイバーンがいる。


議員たちが拍手している。


十八分半前。


自分は紹介も待てずに喋り始めようとして、レイバーンに止められた。


いまも、大統領として何もかも分かったわけではない。


明日になればまた、知らないことが出てくる。


怖いものも出てくる。


それでも。


三日前とは、祈り方が少し変わった。


ハリーはポケットに両手を入れたまま、立ち続けた。



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