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1945年4月25日、ワシントンD.C.ホワイトハウス
大統領の朝は、思っていたより忙しかった。
九時を過ぎると、議員や役人が十五分ほどの間隔で次々に入ってくる。
一人が帰れば、すぐ次の客だった。
道路の話。
人事の話。
地元からの陳情。
ハリーは話を聞き、返事をし、握手をした。
そしてまた、次の客が入ってくる。
大統領になって十三日目。
ようやく分かってきたことが一つある。
この部屋では、自分が大統領でも、時間までは自分のものにならないらしい。
十一時四十五分の客が立ち上がった。
「ありがとうございました、大統領」
「こちらこそ」
扉が閉まる。
秘書が次の予定を置いた。
十二時。
陸軍長官、ヘンリー・スティムソン。
ハリーは少しだけ姿勢を直した。
スティムソンは、やはり別格だった。
七十七歳。
自分よりはるかに長く国家の中枢を歩き、戦争についても、自分よりはるかに多くを知っている。
そして二年前、ハリーが追っていたワシントン州の巨大事業について、一本の電話をかけてきた男でもある。
昨日、そのスティムソンから短い手紙が届いていた。
非常に秘密性の高い問題。
これ以上、知らせるのを遅らせるべきではない。
ハリーは、その言葉をもう一度思い返した。
大統領になって十三日。
これ以上は遅らせられないらしい。
副大統領だった八十二日間は、遅らせてもよかったらしい。
扉が開いた。
スティムソンが入ってきた。
「大統領」
「長官」
握手をして、椅子を勧めた。
外の控え室には新聞記者が集まっている。
彼らから見れば、陸軍長官が大統領を訪ねてきただけだった。
ただ、記者たちには見えていない客が、もう一人いた。
レスリー・グローヴズ少将。
大統領本人がまだ説明を受けていない、その秘密事業を指揮している男だった。
スティムソンと一緒に姿を見せれば目立つ。
参謀総長のマーシャルまで連れてくれば、なおさらだった。
そこでグローヴズは人目につかない経路から中へ入り、大統領執務室の近くで待たされていた。
ハリーは、そのことも知らなかった。
副大統領の時も知らなかった。
大統領になった今も、すぐ近くにその男が待っていることをまだ知らなかった。
秘密は、なかなか徹底していた。
スティムソンが数枚の紙を取り出した。
「昨日の手紙に書いた件です」
「ああ」
「まず、こちらをお読みください」
ハリーは受け取った。
薄い。
思っていたよりずっと薄い。
副大統領に八十二日間知らせなくてもよかった秘密が、数枚に収まっていた。
読み始めた。
数か月以内。
これまで人類が持ったことのない破壊力。
一発。
都市全体。
そこで目が止まった。
一行戻った。
もう一度読んだ。
「都市を?」
「はい」
「一発で?」
「その可能性があります」
ハリーは紙を見た。
スティムソンを見た。
また紙を見た。
「これを」
「はい」
「造っている?」
「はい」
少し黙った。
「いつから?」
説明を聞いた。
自分が副大統領になるより、ずっと前からだった。
それは分かる。
問題はそこではない。
ハリーは紙を持ったまま聞いた。
「私は副大統領だったな?」
スティムソンが一瞬だけ止まった。
「はい」
「八十二日」
「そうです」
「その八十二日の間に、誰かが私にこれを話そうとは?」
「ありませんでした」
「一度も?」
「ありません」
ハリーは椅子の背にもたれた。
なるほど。
副大統領とは、なかなか気楽な仕事だったらしい。
自国が一発で都市を破壊し得る兵器を造っていても、知らなくていい。
十三日前までは。
紙にはまだ続きがあった。
アメリカとイギリスが先行している。
しかし、それは永遠には続かない。
ロシアも、いずれこの兵器を持つ。
もし各国が競って作るようになれば、問題は一つの都市では済まない。
これから作ろうとしている国際秩序そのものに関わる。
ハリーは顔を上げた。
「待ってくれ」
スティムソンが待った。
「つまり、これは日本との戦争だけの話じゃない?」
「そうです」
「ロシアも関係する」
「はい」
「戦争が終わった後も?」
「その通りです」
「国際機構にも?」
「まさに、その点です」
ハリーは時計を見た。
今夜、自分はサンフランシスコへ向けて演説することになっている。
世界がまた同じ戦争を繰り返さないための組織を作ろう。
そう話す。
その日の正午に、次の戦争では一発で都市を破壊し得る兵器が存在する、と詳しく聞かされている。
ハリーは紙を伏せた。
「これ、昨日でもよかったんじゃないか?」
スティムソンは真顔だった。
「昨日、お手紙を差し上げました」
「そういう意味じゃない」
スティムソンは黙った。
ハリーも、それ以上は言わなかった。
この老人のせいばかりでもない。
たぶん。
もう一度、紙に目を落とす。
そこでハリーは、二年前にトルーマン委員会が調べかけた巨大事業を思い出した。
ワシントン州パスコ周辺。
莫大な金が流れ、広大な土地で工事が続いているのに、何を造っているのか誰も説明しなかった。
そして、あの一本の電話。
――もう結構です。それ以上は何も仰らないでください。
あの時は、それでよかった。
スティムソンが知っている。
今の自分に必要なのは、それだけだった。
ハリーの眉が寄った。
「……まさか」
スティムソンは何も言わなかった。
「パスコか?」
「その一部です」
ハリーは天井を見た。
二年前。
自分から聞くのをやめた。
あの時は、それでよかった。
そのスティムソンが今、自分の目の前に座っている。
そして、もうそれでは済まないと言っている。
「長官」
「はい」
「二年前、私はあんたに何て言った?」
スティムソンの口元がわずかに動いた。
「正確に申し上げる必要がありますか」
「ない」
ハリーは額をこすった。
「思い出した」
知らなくていい。
分かっている人間に任せればいい。
間違った判断ではなかった。
当時は。
問題は、その仕組みがあまりにも快適だったことだ。
ハリーは紙を机に置いた。
「今なら、なぜ止めたか分かる」
「ありがとうございます」
「礼を言ってるわけじゃない」
「承知しています」
ハリーは指で机を二度叩いた。
「で」
「はい」
「今度は、どこまで聞けばいい?」
「全部です」
即答だった。
「全部?」
「大統領ですから」
ハリーは少し嫌そうな顔をした。
「副大統領は?」
「知る必要がありませんでした」
「大統領は?」
「知る必要があります」
「間に何かないのか」
「ありません」
十三日前まで、知らなくてよかった。
十三日後には、全部知れ。
アメリカ合衆国の権力移行は、思っていたより段差が大きかった。
スティムソンが合図した。
数分後、扉が開いた。
大柄な将軍が入ってきた。
「レスリー・グローヴズ少将です」
ハリーは立って握手した。
「大統領」
「少将」
三人が座った。
ハリーはふと思った。
「君はどこから入ってきた?」
グローヴズが一瞬スティムソンを見た。
「人目につかない経路を使いました」
「正面じゃない?」
「はい」
「記者に見られると困る?」
「はい」
ハリーはうなずいた。
「私が副大統領だった時は?」
グローヴズは答えなかった。
考えてみれば、答える必要もなかった。
副大統領に知らせない秘密なら、グローヴズが副大統領へ説明しに来る必要そのものがない。
ハリーは片手を上げた。
「いや、もういい」
副大統領の話は、それで終わった。
グローヴズが報告書を広げた。
今度は厚かった。
今まで謎だった巨大工事の中身が、一つずつ明かされた。
原料を作る巨大な施設がある。
研究所がある。
そこで作られたものを、実際の兵器にする工程まで進んでいる。
それはもう、「いつか完成する研究」の話ではなかった。
ハリーは聞いた。
最初は黙って聞いた。
やがて質問が増えた。
「いつ使える?」
「現在の見込みでは、夏です」
「今年の?」
「はい、大統領」
四月だった。
夏まで、それほど遠くない。
「実験は?」
説明を聞いた。
「実際に兵器として使える見込みは?」
説明を聞いた。
「相手は?」
「日本を想定しています」
ハリーは一度、口を閉じた。
笑うところは、もうなかった。
二年前に見えたのは、巨大な秘密工事の輪郭だけだった。
今は、その中身が一つずつ自分の前に置かれている。
グローヴズが費用について説明した。
莫大な額だった。
トルーマン委員会の頃なら、その数字を聞いただけで調査官を送り込んだかもしれない。
「無駄遣いは?」
グローヴズの顔が少し硬くなった。
「この規模の事業です。皆無とは申しませんが――」
「いや」
ハリーは手を上げた。
「今はそこじゃない」
自分で言って、妙な気分になった。
二年前なら、そこだった。
いくら使った。
なぜ道路がこんなに高い。
なぜこれほど家を造る。
今は、その工場が作ろうとしていたものが目の前にある。
金の額は大きくなった。
問題の方が、もっと大きくなった。
「ロシアは?」
今度はスティムソンが答えた。
アメリカだけが持ち続けることはできない。
いずれ他国も作る。
その後、世界をどうするか。
ハリーは少し考えた。
「ちょっと整理させてくれ」
二人が黙った。
ハリーは指を一本立てた。
「十二時まで、この兵器がここまで来ているとは知らなかった」
二本目。
「今は、夏には使えるかもしれないと聞いている」
三本目。
「使うなら、日本を想定している」
四本目。
「ロシアも、いずれ持つ」
指が四本並んだ。
ハリーはそれを見た。
「多いな」
誰も笑わなかった。
ハリーも笑っていなかった。
本当に多かった。
「この問題を検討する委員会が必要だと考えています」
スティムソンが言った。
兵器の問題だけではない。
外交。
国際管理。
科学。
戦争が終わった後の世界。
専門家を集める必要がある。
「そうしてくれ」
ハリーは答えた。
少し考えてから、聞いた。
「最後は私のところへ来るんだな?」
「はい、大統領」
それは、もう分かっていた。
スティムソンが考える。
グローヴズが造る。
マーシャルが戦う。
科学者たちが、自分には分からないところまで考える。
それでも最後には、大統領の机へ戻ってくる。
二年前とは、そこだけが違った。
スティムソンが知っている。
それだけでは済まない。
会談が終わった。
スティムソンが立った。
グローヴズも立った。
二人が出ていく。
グローヴズは来た時と同じように、人目につかないよう姿を消した。
控え室には新聞記者がいた。
誰も知らない。
この部屋でいま、一発で都市を破壊し得る兵器について、アメリカ合衆国大統領への引き継ぎが行われたことを。
秘書が次の予定を知らせた。
「大統領。昼食のお時間です」
ハリーは予定表を見た。
十二時。
スティムソン陸軍長官。
その次。
一時。
Lunch。
ハリーはしばらく、その一語を見た。
都市を一つ破壊できる兵器。
夏。
日本。
ロシア。
戦後世界。
Lunch。
「……そうか」
予定表というものは、ずいぶん大雑把にできていた。
昼食が終わっても、一日は止まらなかった。
人が来た。
紙が来た。
電話が鳴った。
話を聞き、質問し、返事をした。
正午に聞かされたことを一人で座って考える時間は、結局ほとんどなかった。
夜。
七時三十五分。
ハリーはホワイトハウスでマイクの前に座った。
サンフランシスコには、世界各国の代表が集まっている。
新しい国際機構を作るためだった。
また世界大戦を起こさないための仕組みを。
ハリーは原稿を開いた。
数時間前、同じホワイトハウスで、一発で都市を破壊し得る兵器の説明を受けた。
今度は世界に、平和の話をする番だった。
ハリーは読み始めた。
戦争でともに死ぬことを望まないなら、
平和の中でともに生きることを学ばなければならない。
声は落ち着いていた。
ラジオを聞いている人々は、その日の正午に何が大統領のところへ運び込まれたのか知らない。
サンフランシスコに集まった代表たちも知らない。
ほとんどの政府高官も知らない。
十三日前まで、
ハリーもその側にいた。
知らなくてよかった側。
スティムソンが知っていれば、それでよかった側。
ハリーは原稿をめくった。
もう、そこには戻れなかった。




