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トルーマン ~蚊帳の外の男が大統領になったら、原爆もソ連も全部回ってきた~  作者: 人知るミシル


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8/14

祈ってくれ

一九四五年四月十三日、ワシントンD.C.。


目を覚ました時、ハリーは自分が大統領であることを忘れていた。


ほんの数秒だった。


見慣れた天井があり、隣にはベスが眠っている。


窓の外では車が走り、どこかで扉の閉まる音がした。


いつもの朝だった。


昨日までと同じ朝だった。


ハリーは枕へ頬を戻しかけた。


その時、思い出した。


フランクリンが死んだ。


自分が大統領だ。


目を閉じた。


しばらくそのままでいた。


もう一度眠れば、今度こそ昨日までの朝へ戻れるのではないか。


副大統領として起きて、上院へ行く。


誰かに呼ばれれば出向く。


大統領に呼ばれれば、ホワイトハウスへ行く。


昨夜のことだけが、何かのひどい間違いだったことになる。


そうならないかと思った。


ならなかった。


隣でベスが寝返りを打った。


ハリーは目を開けた。


「……起きるか」


誰に言ったわけでもなかった。


ベッドから足を下ろした。


世界はもう始まっていた。


*


午前九時半から、面会が途切れなかった。


人が来て、話し、出ていく。すると次の人間が入ってくる。


昨日まで自分が訪ねていたワシントンが、今日は向こうから押し寄せてくるようだった。


十時十五分。


入ってきた顔を見て、ハリーは眼鏡を押し上げた。


国務長官エドワード・ステティニアス。


その隣に、ジョージ・マーシャルがいた。


陸軍参謀総長。


世界中に広がったアメリカ陸軍を、一つの戦争として見ている男だった。


ヨーロッパで何個師団を使う。


太平洋へどれだけ残す。


その兵を動かす船も、港も、鉄道も、工場も、同じ戦争の中にある。


ドイツを倒すには、海峡を渡ってフランスへ戻る。


マーシャルが早くから押していたその道は、去年、ノルマンディー上陸までつながった。


ハリーはマーシャルを知っていた。


四年前、自分が上院の国防調査を始めた頃から知っている。


あの男に質問すると、不思議なことが起きた。


一個師団の話をしていたはずなのに、気がつけば港と船と工場の話になっている。


戦場の一地点を聞けば、その後ろにある国全体が出てくる。


逆に世界地図の話をしていたはずなのに、最後には一つの部隊がいつ動けるかという話まで降りてくる。


ハリーには、それができなかった。


マーシャルにはできた。


真珠湾の二日後には、そのマーシャルのところへ押しかけた。


戦場へ戻してほしい、と頼んだ。


自分は砲兵を知っている。


第一次大戦では部隊を率いた。


まだ戦える。


そう言った自分を、マーシャルは戦場へ送らなかった。


あなたには別の場所でやる仕事がある。


そう言われた。


あの時、自分の仕事がどこにあるのかを決めたのは、この男だった。


そのマーシャルが、今日は自分の前に立っていた。


ハリーの視線が隣へ移った。


海軍作戦部長アーネスト・キング。


その向こうには、フランクリンのすぐそばで戦争を見続けてきたウィリアム・リーヒ。


海軍長官ジェームズ・フォレスタル。


ジャイルズ将軍の姿もある。


そして、ヘンリー・スティムソン。


陸軍長官。


自分がまだミズーリで若者だった頃、この男はすでに一度、陸軍長官を務めていた。


その後はフィリピン総督、国務長官。


ヨーロッパの戦争がアメリカへ近づいた時、フランクリンは共和党員だったこの男を陸軍省へ呼び戻した。


五年後、その陸軍はヨーロッパでも太平洋でも戦っている。


しかも、スティムソンが歩いてきたのは軍隊の中だけではなかった。


ハリーが上院で追いかけてきた戦争より、この男が歩いてきた世界の方が広かった。


七十を越えた老人だった。


だが、ハリーには老人には見えなかった。


マーシャルとは違う。


だが、この男もまた、自分には見えていない範囲まで見ている。


ハリーは、そう思っていた。


ハリーは彼らを見回した。


昨日まで、この部屋にはもう一人いた。


彼らが報告する相手。


彼らの話を聞き、質問し、最後に何かを言う男。


フランクリン・ルーズベルト。


十二年間そうだった。


今日は、その椅子に自分が座る。


ハリーは息を吸った。


「お願いします」


マーシャルが話し始めた。


戦争が机の上へ広がった。


ヨーロッパではドイツが崩れつつあった。


だが、崩れかけていることと、戦争が終わったことは同じではない。


部隊は動き続け、補給は続き、死者も出る。


太平洋では、沖縄をめぐって海と空の戦いが続いていた。艦隊が島の周囲に展開し、その上を航空機が飛び交う。


日本本土へ近づくほど、敵の抵抗は激しくなる。


キングが海軍側から話を補った。


リーヒが別の資料を示した。


ステティニアスが、戦場の向こうにソ連という国がいることを忘れさせなかった。


軍事の話だったものが、いつの間にか外交の話につながっている。


ハリーは質問した。


分からない時は聞いた。


「そこの意味が分からない。もう一度頼む」


誰かが説明した。


分かった。


すると、その説明の中にまた知らないことがあった。


それを聞いた。


今度はマーシャルが答えた。


聞くほどに、自分の知らない範囲が広がっていった。


新聞なら数行だった。


「ドイツ軍後退」


「沖縄戦激化」


「ソ連との協議」


昨日までなら、それを読み、コーヒーを飲み、新聞を畳んでいた。


いま同じ地名の下に、人間がいた。


師団があり、艦隊があり、食料があり、燃料があり、沈む船があり、帰ってこない兵士がいた。


昨日まで、自分が新聞を開いて読んでいた世界を、この男たちは実際に動かしている。


ハリーは急に、自分の椅子だけが小さくなったような気がした。


ハリーはマーシャルを見た。


自分より知っている。


比較するのも馬鹿らしいほど知っている。


キングもそうだった。


スティムソンもそうだった。


リーヒも。


ステティニアスも。


この部屋の中で、一番知らない人間は自分ではないか。


その考えが浮かんだ時、マーシャルの説明が終わった。


キングが短く補足した。


リーヒが膝の上の紙を閉じた。


ハリーは待った。


次の説明が始まると思った。


始まらない。


マーシャルを見た。


マーシャルも自分を見ていた。


では、スティムソンか。


目を向けた。


スティムソンも黙っていた。


キングも、リーヒも、ステティニアスも、フォレスタルも。


誰も話さない。


ハリーは、もう一度マーシャルを見た。


四年前なら、この男に聞けばよかった。


自分はどこで戦えばいい。


何を知らなければならない。


どこを見ればいい。


マーシャルは答えを持っていた。


スティムソンも、自分よりはるかに長く、国家の重い判断を背負ってきた。


昨日までなら、その二人の知識の先にはフランクリンがいた。


今日は、自分しかいない。


二人とも、自分を見ている。


なぜ俺を見る。


本当に、そう思った。


誰かもっと分かっている人間が、この部屋にはいくらでもいる。


なのに誰も、次の言葉を引き取らない。


ハリーは無意識に、部屋のどこかへ視線を動かしかけた。


誰か。


この先を言う人間。


そこで止まった。


いない。


フランクリンは、いない。


ハリーは机の上の資料へ目を落とした。


もう一度、最初の数字を見た。


「……ここを、もう一度説明してくれ」


マーシャルが頷いた。


説明が再開した。


ハリーは聞いた。


今度は、その説明が終わった後に来る沈黙から目を逸らさなかった。


*


正午過ぎ、議事堂へ戻った時、ハリーはようやく呼吸が少し楽になった。


ここは知っていた。


廊下の曲がり方を知っている。


階段を知っている。


どの部屋へ行けばコーヒーが飲めるか知っている。


誰に何を頼めば話が進むかも知っている。


十年いた場所だった。


ここでは、世界が自分より大きすぎるという感じがしない。


予算書なら読める。


契約書なら読める。


委員会なら回せる。


嘘をついている役人と、本当に困っている役人の違いなら、それなりに分かる。


ハリー・トルーマン。


ミズーリ州選出上院議員。


その名前なら、自分のものだった。


「大統領」


誰かが呼んだ。


ハリーは反射的に顔を上げた。


大統領を探した。


すぐに気づいた。


フランクリンはいない。


昨日死んだ。


「大統領」


もう一度呼ばれた。


「ああ」


返事をした。


自分の声が少し遅れて聞こえた。


相手と二、三言話して別れた。


歩き出してからも、胸の中に妙な感じが残った。


頭では分かっている。


昨夜、宣誓もした。


閣僚の前にも立った。


それでも「大統領」と聞くと、まだ自分より先にフランクリンの顔が浮かぶ。


長すぎたのだ。


十二年。


大統領という言葉と、フランクリン・ルーズベルトという人間が、ほとんど同じ意味になっていた。


昼食を終えて出ると、記者たちが待っていた。


昨日までなら知った顔ばかりだった。


上院の廊下で会い、冗談も言った連中だ。


今日は、その向こうに警護の男たちがいる。


記者の一人が何かを聞いた。


ハリーは答えかけて、やめた。


質問とは関係のない言葉が口から出た。


「君たち、祈ることはあるか」


鉛筆が動いた。


「あるなら、今は俺のために祈ってくれ」


言ってから、自分でも妙なことを言ったと思った。


だが、取り消す気にはならなかった。


昨夜、知らせを受けた時のことを話した。


月も星も惑星も、全部まとめて自分の上へ落ちてきたようだった。


それくらいしか、うまい言い方を思いつかなかった。


記者たちは書いた。


明日の新聞に載るだろう。


新しいアメリカ大統領は、就任翌日に記者へ自分のために祈ってくれと頼んだ。


それでいい、とハリーは思った。


実際、祈ってもらわなければ困る。


*


午後二時半。


ジェームズ・バーンズが来た。


今度は戦況ではなかった。


もっと厄介だった。


フランクリンが何を知っていたか。


誰と何を話したか。


どこまで約束し、どこから先がまだ交渉なのか。


ヤルタで交わされた話が、ポーランドの政府をどうするかという現在の問題へつながっている。


スターリンがいる。


チャーチルがいる。


その二人と十二年間つき合ってきたフランクリンがいない。


代わりに自分がいる。


バーンズは、ハリーが知らない過去を知っていた。


大統領の机には、書類だけが残されているわけではなかった。


死んだ男が途中まで進めた話まで、自分のところへ来る。


それでも時計は進んだ。


書類が来た。


ルーズベルトの死を国民へ告げ、翌十四日を哀悼と祈りの日とする布告だった。


ハリーは読み始めた。


フランクリンの勇気。


信念。


国民の悲しみ。


文章は、死んだ大統領について書かれていた。


途中で、自分の名前が出てきた。


ハリーの目が止まった。


I, Harry S. Truman, President of the United States of America—


もう一度読んだ。


Harry S. Truman.


そこまではいい。


自分の名前だ。


その後ろが、おかしい。


President of the United States of America.


アメリカ合衆国大統領。


文章は迷っていなかった。


自分より先に、紙の方が事情を理解している。


ハリーは眼鏡を外し、目頭を押さえた。


フーヴァー。


クーリッジ。


フランクリン。


歴史の本や新聞の一面に載る人間につく肩書だった。


そこへ突然、ハリー・S・トルーマンが入った。


ミズーリの農家の息子。


失敗した服屋。


郡の判事。


予備役の砲兵大佐。


上院議員。


八十二日だけの副大統領。


その次が、これだった。


飛びすぎだろう。


そう思った。


だが、紙に文句を言っても仕方がない。


ハリーはペンを取った。


署名した。


名前の形は昨日までと同じだった。


*


三時半には、またステティニアスが来た。


今度はチャールズ・ボーレンを連れていた。


話はソ連へ戻った。


ポーランドをめぐる交渉は、フランクリンが死んだから止まってくれるわけではない。


スターリンも、チャーチルも、新しいアメリカ大統領が事情を飲み込むまで親切に待ってはくれない。


ハリーは聞いた。


何が決まっている。


何が決まっていない。


フランクリンはどこまで同意した。


スターリンは何と言っている。


チャーチルは何を恐れている。


答えを聞くたびに、前任者から受け取った世界が、ところどころ穴の開いた地図のように見えてきた。


自分の知らない場所がある。


だが、知らない場所を空白のままにして、大統領の仕事を止めることはできない。


午後四時半。


チャーチルへ送る電報がまとまった。


ポーランドをめぐるスターリンとの交渉を、まだ終わりにしたくない。


もう一度働きかける。


決裂を公にする前に、残っている可能性を試す。


ハリーは文面を読んだ。


朝なら、こういう紙の最後にはフランクリンの名前があるものだと思っただろう。


今は違った。


自分の名で出ていく。


「これで送ってくれ」


文書が机から離れた。


部屋が少し静かになった。


ハリーは椅子の背に身体を預けた。


朝から何人の人間に会ったか、もう数える気にならなかった。


マーシャルの顔が浮かんだ。


スティムソンの顔も。


自分よりずっと多くを知っている。


明日になっても、その事実は変わらないだろう。


一週間後でも変わらないかもしれない。


できるかどうかも、まだ分からない。


正しい判断ができるかも分からない。


昼には、記者に祈ってくれと頼んだ。


今だって同じだった。


祈ってほしかった。


それでも、朝とは一つだけ違う。


この荷を誰に返せばいいのか、もう探してはいなかった。


マーシャルには返せない。


スティムソンにも返せない。


議会にも返せない。


フランクリンには、もっと返せない。


自信があるからではなかった。


自分が一番賢いからでもない。


ただ、自分のところへ来てしまった。


俺が背負うしかない。


机の端に、次の書類が置かれた。


ハリーは手を伸ばした。

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