月と星と惑星が落ちてきた日
一九四五年四月十二日 ワシントン
副大統領に就任して、八十二日が過ぎていた。
四年ほどなら、このままでいい。
そう考えるようになってから、四十二日が過ぎていた。
ハリー・トルーマンの副大統領としての日々は、相変わらずだった。
議事堂へ向かい、上院議長の席に着く。
古くからの議員仲間と話す。
昼食を取る。
求められれば人と会う。
そして一日の仕事を終えると、友人のもとへ顔を出す。
その日も、そうなるはずだった。
午後、上院での仕事を終えたハリーは、下院議長サム・レイバーンの部屋へ向かった。
レイバーンは、その部屋を「教育委員会」と呼んでいた。
そこには、議員たちが仕事のあとに集まる。
政治の話もする。
他愛のない話もする。
酒も出る。
副大統領になってからも、ハリーは時折ここを訪れていた。
こうした場所は変わらない。
それがよかった。
大統領は世界を相手にしていればいい。
自分は、気心の知れた連中と一杯やればいい。
部屋に入り、ようやく腰を落ち着けようとしたところで、電話が鳴った。
ホワイトハウスからだった。
ハリーが受話器を取る。
大統領報道官のスティーブ・アーリーだった。
「すぐにホワイトハウスへ来てください」
声の様子が妙だった。
「何があった?」
「すぐにお願いします」
それ以上の説明はなかった。
しかも、できるだけ目立たないように来てほしいという。
ハリーは受話器を置いた。
レイバーンが顔を見た。
「何だって?」
「分からん」
ハリーは帽子を手に取った。
「ホワイトハウスへ来いと言われた」
何があったのだろう。
議会で何か問題でも起きたのか。
大統領から依頼でもあるのか。
議会との連絡役なら、自分にも務められる。
むしろ、副大統領らしい仕事かもしれない。
ハリーは急いで部屋を出た。
飲み物には手をつけなかった。
*
ホワイトハウスに到着しても、事情を説明する者はいなかった。
ただ、二階へ案内された。
いつもとは様子が違っていた。
職員たちの表情は硬い。
声も小さい。
廊下には人がいるのに、妙に静かだった。
ハリーはそこで初めて、胸の奥に不吉なものを感じた。
大統領に何かあったのか。
いや。
考えるな。
ウォーム・スプリングスへ休養に出ている。
少し弱ってはいた。
だが、休めばまた戻ってくる。
三月にも、そう考えた。
今日も――。
扉が開いた。
エレノア・ルーズベルトが立っていた。
ハリーは足を止めた。
その顔を見た瞬間、何かが起きたのだと分かった。
エレノアが近づいてきた。
そして、ハリーの肩に腕を回した。
「ハリー」
わずかな間があった。
「大統領が亡くなったわ」
言葉の意味が、すぐには頭に入らなかった。
大統領が。
亡くなった。
フランクリン・ルーズベルトが。
三月に、自分の目の前でヤルタについて語っていた男が。
十二年以上にわたって、この国の大統領を務めてきた男が。
死んだ。
ハリーは何か言わなければならないと思った。
最初に口をついて出たのは、自分のことではなかった。
「私に何かできることはありますか」
エレノアはハリーを見た。
「私たちに、何かできることはある?」
そして、静かに続けた。
「大変なのは、あなたの方よ」
ハリーは黙った。
その一言で、ようやく事態の意味がつながった。
ルーズベルトが死んだ。
だから自分が呼ばれた。
副大統領だから。
そして――。
ハリーは瞬きをした。
自分が。
大統領になる。
いや。
もう、そうなったのか。
頭の中で、何かが音を立てて崩れた。
大統領には大統領の仕事がある。
国務長官には国務長官の仕事がある。
将軍には将軍の仕事がある。
副大統領には副大統領の仕事がある。
すべてを知っている必要はない。
四十二日前には、それでよかった。
今は。
最後に決断を下すのは、自分だった。
*
それからの時間は、ひどく速く過ぎていった。
閣僚を集める。
最高裁長官を呼ぶ。
ベスとマーガレットにも来てもらう。
誰かが電話をかける。
誰かが部屋へ入ってくる。
また誰かが指示を出す。
ハリー自身は、その中心にいるはずなのに、時折、自分だけが半歩遅れているように感じた。
ホワイトハウスの閣議室に、人が集まり始めた。
ハリーが名前だけはよく知っている男たちだった。
国務長官。
陸軍長官。
海軍長官。
財務長官。
ルーズベルトとともに戦争を動かしてきた閣僚たち。
三月一日、大統領の後ろに座り、ヤルタの話を聞いていたとき、ハリーはこう思った。
大変な仕事だな。
副大統領でよかった。
今、その男たちが自分を見ている。
ベスが来た。
マーガレットもいる。
ハリーはベスの顔を見た。
シカゴのホテルで副大統領になることを決めた夜、最後に考えたのもベスのことだった。
――ベスになんと言おう。
あのときよりも、はるかに説明しにくい事態になった。
ハリーは口を開きかけた。
だが、何を言えばいいのか分からなかった。
ベスも何も言わなかった。
それで十分だった。
午後七時九分。
最高裁長官ハーラン・ストーンが、ハリーの前に立った。
聖書が用意された。
ハリーは右手を上げた。
部屋が静まり返った。
ストーンが宣誓文を読み上げる。
ハリーはその後に続けた。
合衆国大統領の職務を忠実に遂行し――。
憲法を維持し――。
保護し――。
擁護する――。
短い言葉だった。
一分もかからない。
それで終わった。
誰かが「大統領」と呼んだ。
ハリーは振り向きそうになった。
だが今度は、すぐに分かった。
自分のことだった。
*
閣僚たちを前に、ハリーは椅子に腰を下ろした。
そこにいるのは、これまでルーズベルトに報告していた人間たちだった。
自分よりはるかに長く、戦争の中枢にいる。
自分の知らないことを知っている。
おそらく、数え切れないほど。
ハリーは、それを隠そうとはしなかった。
「皆さんの助けが必要です」
ルーズベルトの政策は継続する。
戦争も続いている。
四月二十五日に予定されているサンフランシスコでの国際連合会議も、そのまま実施する。
やるべきことを止めるわけにはいかない。
閣僚たちはうなずいた。
会議は長くなかった。
一人ずつ席を立っていく。
国務長官が退室した。
海軍長官が退室した。
ほかの閣僚たちも続いた。
だが、一人だけ残った。
陸軍長官ヘンリー・スティムソンだった。
七十七歳。
二つの世界大戦を知り、何人もの大統領のもとで政府に仕えてきた男である。
ハリーは顔を上げた。
「何か?」
スティムソンは、すぐには座らなかった。
「大統領」
その呼び方には、まだ慣れなかった。
「最も緊急性の高い問題について、お話ししておかなければなりません」
ハリーは眼鏡を直した。
ドイツか。
日本か。
ソ連か。
スティムソンは言った。
現在、極めて大規模な秘密計画が進められている。
目的は、新しい爆発物を開発すること。
その破壊力は――。
ほとんど信じがたいほど大きい。
新しい爆発物。
その言葉を聞き、二年前の記憶がよみがえった。
ワシントン州パスコ。
広大な土地。
デュポン。
自分の委員会が調査に乗り出そうとしたところへ、スティムソン自身から電話がかかってきた。
重要な秘密開発であるため、調査を中止してほしい。
ハリーは、それ以上聞かなかった。
国家機密なら、それでよかった。
あれは――。
スティムソンは、その日、詳しい説明まではしなかった。
ただ、これは大統領が知っておかなければならない問題だと言った。
近いうちに、改めて説明する。
それだけだった。
スティムソンが部屋を出たあと、ハリーは一人、椅子に座ったままだった。
大統領になって、まだ数時間も経っていない。
三月には、ルーズベルトの背後でヤルタの報告を聞きながら、スターリンやチャーチルとの駆け引きも、戦後のヨーロッパも、なお続く日本との戦争も、軍や国際連合の準備も、それぞれを知る誰かが考えるものだと思っていた。
昨日までなら、それでよかった。
だが今は、それらが最終的に自分の机へ上がってくる。
そのうえ今度は、信じがたい破壊力を持つ、正体の分からない爆発物だった。
ハリーは眼鏡を外した。
少し前まで、自分はサム・レイバーンの部屋で一杯やるつもりだった。
翌日も議事堂へ行くつもりだった。
上院議長を務めるつもりだった。
古くからの仲間と話すつもりだった。
四年ほどなら、このままでいい。
本気で、そう考えていた。
ハリーは椅子の背にもたれた。
副大統領は、すべてを知っている必要はなかった。
大統領は――そうはいかなかった。




