副大統領も悪くない
一九四五年三月一日 ワシントン
副大統領という仕事は、思っていたほど悪くなかった。
少なくとも、ハリー・トルーマンはそう思い始めていた。
住むところは変わらない。
ベスとマーガレットと暮らすコネティカット・アベニューのアパートから、これまでと同じように議事堂へ通う。
顔を合わせる連中も、だいたい同じだった。
十年間一緒にやってきた上院議員たちである。
変わったのは、議場で座る場所だった。
「ミズーリ州選出のトルーマン上院議員」ではなく、
「合衆国副大統領ハリー・S・トルーマン閣下」
などと呼ばれる。
最初のうちは、そのたびに誰のことだと思った。
それから議長席に座る。
議員がしゃべる。
別の議員が反対する。
また誰かがしゃべる。
必要なら議事を進める。
そして普通は、投票しない。
十年間、賛成か反対かを決める側にいた人間には、そこだけ少し妙だった。
だが慣れてみると、これもそう悪くない。
大統領のように朝から晩まで決裁書類を積み上げられるわけでもない。
軍を動かす必要もない。
イギリスやソ連と交渉する必要もない。
新聞記者に世界の行方を聞かれても、最後に答えを出すのは自分ではない。
議会へ来れば、昔からの仲間がいる。
食事に行けば、これまでと同じように冗談を言われる。
肩書だけは立派になった。
仕事も、やるべきことはちゃんとある。
そのうえ、国の命運を最後に背負うのは別の男だった。
悪くない。
四年間これなら、十分やっていける。
その日、議事堂はいつもより騒がしかった。
大統領が来るからである。
フランクリン・ルーズベルトが、ヤルタから帰ってきた。
ハリーも新聞で読んでいた。
ソ連のクリミア半島で、ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、ソ連のスターリンが顔をそろえ、ドイツを倒したあとのヨーロッパをどうするか、戦争のあとにどんな世界を作るかを話し合ってきた。
今日は、その報告を議会で行う。
上院と下院の合同会議だった。
議員たちが次々と入ってくる。
話し声が重なり、傍聴席まで人で埋まっていく。
ハリーは壇上の席についた。
下院側には、議長代行のジョン・マコーマック。
その間の低い位置に、大統領の席が用意されていた。
やがて、空気が変わった。
ルーズベルトが入ってきた。
拍手が起こった。
ハリーも立って拍手した。
久しぶりに近くで見る大統領は、以前より小さくなったように見えた。
もともと立って歩く姿を見ることの少ない男だったが、それだけではない。
顔が細い。
肩から力が抜けている。
長い旅の疲れだろう。
なにしろ一万四千マイルを移動して帰ってきたばかりだ。
ルーズベルトは演説台の前で立ち続けようとはしなかった。
座ったまま話すことを、議会に断った。
脚につけている重い鋼鉄の装具を持ち上げながら長旅をしてきたのだから勘弁してほしい――。
議場に笑いが起きた。
ハリーも笑った。
こういうところは、うまい。
弱っている姿を見せても、弱々しくは見せない。
ルーズベルトは議場を見渡した。
そして演説を始めた。
「副大統領、議長、そして議員諸君――」
ハリーは一瞬だけ、自分のことだと気づくのが遅れた。
副大統領。
そうだった。
俺だ。
演説はヤルタの話へ入った。
ドイツを打ち破ったあと、その国をどう占領し、二度とヨーロッパを戦争へ引きずり込めないようにするのか。
戦争犯罪人をどう扱うのか。
ナチスの支配から解放された国々に、どうやって自分たちの政府を作らせるのか。
とりわけポーランドをめぐって、ソ連と西側諸国の利害をどう折り合わせるのか。
そして、もう一度こんな戦争を起こさないために、世界の国々が集まり、争いを戦争になる前に処理する仕組みをどう作るのか。
そのための新しい国際機構――国際連合。
四月にはサンフランシスコで、そのための会議を開くという。
ハリーは大統領のすぐ後ろで聞いていた。
近かった。
手を伸ばしたところで届く距離ではないが、顔の動きも、原稿をめくる手もよく見える。
おそらくこの議場で、大統領にもっとも近い場所に座っている人間の一人だった。
ルーズベルトは、チャーチルやスターリンと何を話し、どこまで合意し、これからヨーロッパをどう立て直していくつもりなのかを議会へ説明していった。
ハリーは聞く。
どれも興味深かった。
なるほど。
そうなったのか。
ドイツは占領される。
戦争犯罪人は裁かれる。
解放された国々には、自分たちの政府を作らせる。
三大国だけで世界を勝手に決めるのではなく、もっと大きな国際組織を作る。
簡単にいくとは思えなかった。
スターリンという男が、そんなに素直に他国の自由選挙を認めるものなのか。
議会だって、国際組織と言われれば何でも賛成するわけではない。
だが、その面倒なところをまとめるのが大統領の仕事なのだろう。
ハリーは座ったまま、ルーズベルトの背中を見た。
大変だな。
素直にそう思った。
副大統領でよかった。
演説は続いた。
日本との戦争は、まだ終わっていない。
ヨーロッパでドイツを倒しても、それで米兵が全員帰ってこられるわけではない。
だが、太平洋でこれから何をするのか、その詳しい話が自分のところへ回ってきているわけでもなかった。
それも軍と大統領が考えているのだろう。
なら、いま考えたところで仕方がない。
議場から拍手が起こった。
ハリーも拍手した。
ルーズベルトの演説が終わった。
人が動き出す。
議員たちが近くの者同士で話し始め、記者たちは出口へ急ぐ。
ヤルタで決められたヨーロッパの処理。
ポーランドをめぐる難しい約束。
これから作ろうとしている国際連合。
明日の新聞は、その話ばかりになるだろう。
ハリーも壇上から下りた。
途中で知り合いの議員に呼び止められた。
「どうだった、ハリー」
「何がだ」
「ヤルタだよ」
男は笑った。
「副大統領なんだから、少しくらい先に聞いてたんだろう?」
ハリーも笑った。
「俺も今、君と一緒に聞いたところだよ」
相手は一瞬きょとんとして、それから笑った。
ハリーも笑った。
別に、それで困ることはなかった。
大統領には大統領の仕事がある。
国務長官には国務長官の仕事がある。
将軍には将軍の仕事がある。
副大統領には副大統領の仕事がある。
何でも知っていなければならないわけではない。
それに、考えてみれば楽なものだった。
世界中の問題を抱えて旅から戻ってきたルーズベルトは、あんなに疲れた顔をしている。
自分は今夜、普通に夕食を食べられる。
明日も議事堂へ来ればいい。
上院議長を務める。
昔からの仲間と話す。
頼まれれば演説もする。
時間があれば、友人たちと食事でもする。
それで副大統領の給料が出る。
ハリーは廊下を歩きながら、少し機嫌がよくなった。
あの暑いシカゴのホテルで、あれほど嫌がった仕事だった。
ボブ・ハネガンに囲まれ、
ルーズベルト本人から電話越しに追い込まれ、
とうとう「引き受けるしかない」と言わされた。
あのときは、とんでもないことになったと思った。
なってみれば。
案外、悪くない。
四年くらいなら、これでいい。
ハリーは議事堂の廊下を歩いていった。




