ミズーリのラバ
一九四四年七月二十日
シカゴのブラックストーン・ホテルは、民主党員で膨れ上がっていた。
廊下では電話が鳴り続け、部屋から部屋へ男たちが出入りし、誰かが票を数え、誰かが人を探し、誰かが「大統領はこう言った」と触れ回っている。窓の外には七月の熱気が張りつき、ホテルの中には葉巻の煙と汗と政治の匂いがこもっていた。
ハリー・トルーマンは、それにうんざりしていた。
数日前、インディペンデンスの自宅を出ようとしたところへ、ジミー・バーンズから電話がかかってきた。
「大統領は私に決めたそうだ」
バーンズはそう言った。
副大統領候補に。
そして、自分を大会で指名する演説をしてほしいという。
ハリーは引き受けた。
大統領がそう望んでいるのなら、それでいい。ジミーは経験もある。議会を知っている。ワシントンを知っている。何より、本人が大統領からそう聞いているというのだ。
ところが受話器を置いて車へ向かうと、また電話で呼び戻された。
今度は上院院内総務のアルバン・バークリーだった。
自分を副大統領候補として指名してくれという。
「すまん。もうジミーに約束した」
ハリーは断った。
そこで終わるはずだった。
シカゴへ来てから、話がおかしくなった。
労働界の有力者へバーンズへの支持を頼みに行けば、
「バーンズは支持しない」
と言われた。
では誰ならいい。
「ダグラスか、トルーマンだ」
別の男へ行っても似た答えだった。
「バーンズはだめだ。あんたならいい」
ハリーは、そのたびに同じ説明をした。
「俺は候補じゃない。ジミーを頼む」
それでも翌朝には、別の労組の大物から「我々はあなたを支持することにした」と告げられた。
メリーランドの連中へ挨拶しに行けば、壇上でいきなり「メリーランドの副大統領候補、ハリー・トルーマン!」と紹介された。
冗談ではない。
人の話を聞いているのか。
ハリーはその都度バーンズへ連絡した。
こんなことを言われた。
俺を推すと言っている。
どうなっている。
バーンズの答えは変わらなかった。
大統領が自分を望んでいる。
そのうち大統領が全部片づける。
それなのに火曜日の夜、民主党全国委員長のボブ・ハネガンがやってきて、まるで正反対のことを言った。
「大統領は君を望んでいる」
「馬鹿を言うな」
ハリーは本気でそう思った。
「俺はジミーに約束してるんだ。本人が、大統領は自分だと言ってる」
ハネガンは一枚の紙を見せた。
大統領の筆跡だという。
そこには短く、
Bob, it's Truman. FDR
とあった。
ハリーは紙を見た。
それからハネガンを見た。
「だったら、なんで大統領は俺にそう言わないんだ」
ハネガンにも答えようがなかった。
そのうえ、ルーズベルトは別のところではウォレスに好意的なことを言い、また別の紙ではダグラスでもトルーマンでもよいと言っているらしい。
まったく政治屋というのは、どうしてこう話を簡単にできないのか。
ハリーは上院が好きだった。
十年近くかけて、ようやく自分の居場所を作った。トルーマン委員会も軌道に乗った。軍需生産の無駄を洗い出し、陸軍にも海軍にも嫌な顔をされながら、それでも仕事として認められるようになった。
副大統領になって、何をする。
以前、何人もの同僚から出馬を勧められるたびに、ハリーは笑って返したものだった。
――死んだ元副大統領を四人挙げてみろ。
たいてい、そこで相手は黙った。
大統領が死なない限り、副大統領など忘れられる。
そんな椅子のために、なぜ自分から上院を捨てなければならない。
そして何より、バーンズに約束した。
政治家が約束を守らなくなったら、残るのはただの風見鶏だ。
だから木曜日、ハネガンからブラックストーンへ来てくれと言われたときも、ハリーの答えは決まっていた。
嫌だ。
*
部屋には民主党の実力者たちが集まっていた。
ニューヨーク、シカゴ、ニュージャージー。党を動かすことに慣れた男たちが、ベッドや椅子や窓際を占領している。
ハリーが入ると、すぐ始まった。
「ハリー、もう決めろ」
「君なら党がまとまる」
「ウォレスでは南部が逃げる」
「バーンズでは労働票がもたない」
「ダグラスには議会の経験がない」
「だから俺は候補じゃないと言ってるだろう」
最初は笑っていた男たちも、そのうち笑わなくなった。
それでもハリーは折れなかった。
「ジミーに約束してる」
「状況が変わったんだ」
「俺の約束まで勝手に変えるな」
ハリーは苛立っていた。
自分を副大統領にしたいのなら、最初からそう言えばいい。
人にバーンズの票集めをさせておいて、その後から「実は君でした」と言われて、はいそうですかと笑えるほど器用にはできていない。
ハネガンは何度目かの説得を諦めたように息を吐き、電話を見た。
サンディエゴへ入れていた長距離電話が、ようやくつながった。
相手はフランクリン・D・ルーズベルト大統領だった。
ハネガンが片方のツインベッドへ腰を下ろした。
ハリーはもう片方へ座った。
距離は数歩しかない。
ルーズベルトは電話でも声が大きかった。ハネガンが受話器を少し耳から離すほどだったから、隣のベッドにいるハリーにも聞こえた。
世間話をしている場合ではなかった。
しばらくして、大統領の声が響いた。
「ボブ、あの男はもう片づいたのか」
ハリーは眉を寄せた。
――あの男。
ハネガンが答えた。
「まだです。今まで相手にした中で一番頑固なミズーリのラバですよ」
ミズーリは昔からラバの産地として知られていた。丈夫で、よく働き、そして一度踏ん張れば簡単には動かない。
部屋の何人かが、わずかに笑った。
ハリーは笑わなかった。
電話の向こうで、ルーズベルトの声が変わった。
怒鳴ったわけではない。
だが、言葉ははっきり聞こえた。
戦争の最中に民主党を壊したいというなら、それは彼の責任だ――。
それだけ言うと、電話は切れた。
誰も動かなかった。
ハネガンが、ゆっくり受話器を置いた。
ハリーはベッドに座ったまま、しばらく顔を上げなかった。
腹が立った。
まず、それだった。
だったら最初から俺に言え。
自分は何日もバーンズのために走り回った。労組へ頭を下げ、支持を頼み、別の候補を推せと言われても約束を守ってきた。
それを今になって、
党を壊すならお前の責任だ?
ずいぶんな言い草じゃないか。
だが、腹を立てたまま立ち去ることはできなかった。
ハリーは立ち上がった。
部屋の中を歩き始めた。
男たちは黙っていた。
さっきまであれほど好き勝手にしゃべっていた連中が、一人も口を開かなかった。
床を数歩進んで、戻る。
また進む。
頭の中では、同じ言葉が何度も戻ってきた。
戦争の最中に。
ヨーロッパではまだ米兵が死んでいる。
太平洋ではもっと長い戦争が続くかもしれない。
この選挙でルーズベルトが負ければ政権が変わる。それが悪いと決まったわけではない。だが、少なくとも民主党の中が副大統領候補一人で割れ、選挙までぐちゃぐちゃになることを、自分が引き起こしたと言われるのは――。
気に入らない。
まったく気に入らない。
だが、大統領にそこまで言われて、それでも「俺は上院にいたいから嫌だ」で済ませられるのか。
ハリーは足を止めた。
バーンズとの約束が頭をよぎった。
大統領自身が違うことを言っているのなら、前提が変わる。
ならば、自分が約束を破るのではない。
約束の土台そのものが消えたのだ。
それでも気分は悪い。
副大統領になりたいと思ったことなど、一度もない。
ベスも喜ばないだろう。
マーガレットだって、これ以上家族が政治の見世物になることを望んでいるとは思えない。
上院に残りたい。
委員会を続けたい。
自分の仕事をしたい。
それでも。
大統領が、本当に自分を必要としているというのなら。
ハリーは眼鏡を押し上げた。
部屋じゅうの目が自分へ集まっていることに気づいた。
それがまた腹立たしかった。
「……分かった」
誰も反応しなかった。
「そういう状況なら、引き受けるしかない」
誰かが息を吐いた。
ハネガンの顔が緩みかけた。
ハリーはそこで指を立てた。
「だがな」
今度は全員が彼を見た。
「だったら、どうしてあの人は最初から俺に言わなかったんだ」
部屋に笑いが起こった。
ハリーだけは、しばらく笑わなかった。
*
数分前まで、副大統領になるつもりなどなかった。
今も、なりたいとは思っていない。
それなのに、もう話は次へ進み始めていた。
誰が指名演説をする。
ミズーリ代表団をどう動かす。
ウォレス票をどう崩す。
各州へ誰が電話する。
男たちは急に元気を取り戻し、また部屋じゅうでしゃべり始めた。
ハリーはその騒ぎの真ん中で、ひとり立っていた。
妙なものだと思った。
自分は、ついさっきまで他人を副大統領にするためにシカゴを歩き回っていた。
今度はその自分を副大統領にするために、同じ連中が走り回っている。
政治というのは、時々ひどく馬鹿げている。
ハリーは窓の方へ目を向けた。
七月のシカゴが、熱に霞んでいた。
ベスになんと言おう。
それを考えた瞬間、今日一番気の重い仕事がまだ残っていることに気づいた。
大統領より手強い相手だった。
ハリーは、ようやく小さく笑った。




