合衆国陸軍の参謀総長マーシャル
1941年12月9日、ワシントンD.C.。
ハリーはコンスティテューション・アベニューを西へ歩いていた。
十二月の風が、ポトマックの方から吹きつけてくる。
コートの襟を立てた。
寒かった。
だが、足は速かった。
街はいつものワシントンだった。
自動車が走り、役人たちが書類鞄を抱えて行き交っている。遠くには、この国が自分を立派に見せるために建てた石造りの建物が並んでいる。
その中で、陸軍省の軍需庁舎だけは妙に横に長かった。
第一次大戦のために建てた仮設の建物だという。
あの戦争から二十年以上経っているのに、まだ使っている。
ハリーは少し鼻を鳴らした。
合衆国らしいと言えば、合衆国らしい。
昨日、議会は日本との戦争を承認した。
一人を除いて、全員が賛成した。
ハリーも賛成した。
当然だった。
日本軍は真珠湾を攻撃した。
戦艦を沈めた。
兵士を殺した。
宣戦布告もなしに。
ならば、戦う。
そこまでは簡単だった。
問題は、自分がどこで戦うかだ。
ハリーは歩きながら、手袋をはめた手をコートのポケットへ突っ込んだ。
五十を過ぎていることくらい、自分でも知っている。
上院議員であることも知っている。
だが、それが何だ。
フランスでは砲兵を率いた。
第129野戦砲兵連隊D中隊。
あの連中をまとめた。
砲撃も受けた。
兵を動かした。
馬も砲も泥も知っている。
戦争が始まったというのに、自分だけ議事堂の椅子に座って、契約書の数字を眺めているつもりはなかった。
誰に言えばいいかも決めていた。
ジョージ・C・マーシャル。
陸軍参謀総長。
話の分からない男ではない。
むしろ――
ハリーの歩調が、わずかに緩んだ。
マーシャル。
その名前を聞くと、どうしても思い出すものがあった。
まだ日本と戦争になるなどとは、誰も言っていなかった頃。
春だった。
1941年4月22日、ワシントンD.C.。
「――したがって、必要とあらば、陸軍は明日にでも戦うことが可能です」
証言席のハリー・トワドル准将が、手元の原稿から顔を上げた。
委員会室の空気がわずかに緩んだ。
ここまで示された数字だけを見れば、確かに壮観だった。兵員は急速に増え、州兵は連邦軍へ編入され、徴集兵も各地の駐屯地へ送り込まれている。ほんの二年前までとは、陸軍の姿そのものが違っていた。
ハリー・S・トルーマンは資料へ目を落としたまま尋ねた。
「将軍」
「はい、上院議員」
「いま、明日にでも戦えるとおっしゃいましたね」
「はい」
「では、装備は揃っているのですか」
トワドルは少し考えてから答えた。
「十分とは申しません。しかし、二年前の陸軍とは比較にならないところまで来ています」
「不足はある?」
「あります」
「海外へ送り、そのまま戦わせられる師団は?」
「それは別の問いになります」
ハリーが顔を上げた。
「別?」
「私は、陸軍に戦闘能力があると申し上げました。全師団を明日海外へ送り出せるとは申し上げておりません」
「しかし戦争になれば、敵はこちらの準備が整うまで待ってはくれないでしょう」
「もちろんです」
「ならば、私には同じ問題に思えますな」
トワドルは首を横に振った。
「いえ。どこで、何を相手に、どれほどの規模で戦うのかによって必要な準備は変わります。陸軍が戦えるかという問いと、特定の師団を特定の戦場へ投入できるかという問いは、分けて考える必要があります」
ハリーは赤鉛筆を机へ置いた。
トワドルの言っていることは分かる。
だが、それでも何かが引っかかった。
「では、こう聞きましょう。兵士がいる。部隊もできている。だが、海外へ送れる師団は限られている。それでも“明日にでも戦える”と言っていいのですか」
「上院議員」
別の声が入った。
低く、よく通る声だった。
ハリーが振り向いた。
ジョージ・C・マーシャル陸軍参謀総長だった。
「トワドル将軍の説明は間違っておりません」
ハリーはマーシャルを見た。
「では、参謀総長も、明日にでも戦えると?」
「戦うことはできます」
マーシャルはそこで言葉を切った。
「戦い続けられるかは、別の問題です」
ハリーの赤鉛筆が止まった。
「どう違うのですか」
「兵士がいることと、その兵士を部隊として動かせることは同じではありません。部隊が動くことと、それを戦場へ送り、戦い続けさせられることも同じではありません」
「装備の問題ですか」
「それだけではありません」
「では、何です」
「輸送と補給です」
ハリーは眉をひそめた。
「兵員も兵器もある。それでも戦えない?」
「戦場がどこかによります」
「また条件がつく」
「条件を無視して戦争はできません」
声は穏やかだったが、譲る気配はなかった。
ハリーは少し前へ身を乗り出した。
「我々のところには、兵舎建設の遅れや契約変更、予算超過の報告が山ほど来ています。陸軍が必要な金を使っていることは分かる。問題は、それが適切に使われているかです」
「その通りです」
「なら、結局は金の問題でしょう」
マーシャルはすぐには答えなかった。
「いいえ」
ハリーの眉が動いた。
「いいえ?」
「金は補えます」
「議会に出せば、ですか」
「必要であれば」
マーシャルはそこで初めて、わずかに身を前へ出した。
「しかし、失われた一ヶ月は補えません」
ハリーの指が赤鉛筆の上で止まった。
「一ヶ月?」
「兵舎が一ヶ月遅れれば、兵が入れません。兵が入れなければ訓練が遅れます。訓練が遅れれば、部隊を動かせる時期も遅れる。その部隊を使う予定だった計画も、当然ずれます」
「工事一つで?」
「一つで済めば幸運です」
その答えに、ハリーは少しむっとした。
「将軍、我々は陸軍の仕事を邪魔するために調査しているわけではありません」
「そうは考えておりません」
「兵舎一つ、契約一つを調べていると、軍全体を見ていないと言われているように聞こえました」
マーシャルは首を振った。
「逆です」
「逆?」
「その一つが、どこまで全体を遅らせるのかを知っていただきたいのです」
ハリーは黙った。
マーシャルはそれ以上説明しなかった。
委員会室の奥で、誰かが紙をめくった。
ハリーは資料へ目を戻した。建設費。完成予定日。資材搬入日。契約変更。昨日までなら、数字の横に赤線を引き、余計に支払われた金額を計算していた。
だが、いま聞いた話が頭に残った。
「参謀総長」
「はい」
「あなたは、こういう数字を全部覚えているのですか」
マーシャルがわずかに笑った。
「まさか」
ハリーは意外そうに顔を上げた。
「違うのですか」
「陸軍全体の数字を一人で暗記できる人間はいません」
「では、何を見ている?」
マーシャルは少し考えた。
「どの事実が、判断を変えるかです」
それだけ言って口を閉じた。
ハリーは次の質問をしようとして、やめた。
赤鉛筆を指先で転がす。
どの事実が、判断を変えるか。
その言葉には、妙に覚えがあった。
フランスにいた頃、中隊長の自分が知る必要のあったことも、結局は同じだった。
砲の数を知っているだけでは足りなかった。砲弾が残っていても、それを運ぶ馬が潰れれば撃てない。兵が揃っていても、ぬかるんだ道で前進できなければ意味がない。誰が疲れ切っていて、誰ならまだ動けるのか。どこを見落とせば、D中隊全体が止まるのか。
世界中のことを知る必要はなかった。
だが、何を知らなければ自分の部隊を壊すのか。それだけは、知らなければならなかった。
ハリーはゆっくりとマーシャルを見た。
目の前の男も、本質的には同じことをしている。
ただし、扱っているものが違った。
一個中隊ではない。
合衆国陸軍だった。
「将軍」
「はい」
「我々はこれからも契約を調べます。工事の遅れも、無駄遣いも追及する」
「ぜひ、そうしてください」
「陸軍にとって都合の悪いものが出ても?」
「問題があるなら、早く見つかった方がいい」
即答だった。
ハリーはしばらくマーシャルを見ていたが、やがて赤鉛筆を持ち直した。
「分かりました」
「何がでしょう」
「いや。こちらの話です」
公聴会は再開された。
次の数字が読み上げられ、資料がめくられ、速記官の指が再び動き始めた。
ハリーは新しいページの上に赤鉛筆を置いた。
それから一度だけ、マーシャルを見た。
この男は、自分が聞きたいことに答える男ではない。
何を聞くべきなのか、その前提から変えてしまう。
兵士がいる。
部隊がある。
だから戦える。
そんな単純な話ではないと、さっきまでとは違う数字が教えていた。
どこで戦うのか。
何が足りないのか。
何を失えば、全体が止まるのか。
そして――何を、どこへ置くべきなのか。
マーシャルは、それを決める場所にいる男だった。
靴音が、冬のワシントンへ戻ってきた。
ハリーは顔を上げた。
軍需庁舎が、もう目の前にあった。
あれから八ヶ月。
今度は日本と戦争になった。
兵士がいる。
部隊がある。
戦場がある。
そして自分もいる。
ハリーは入口へ向かった。
自分がどこに置かれるべきなのか。
それを決めてもらうために。




