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第38話 宴の後に

 ユイルは快足を飛ばし、酔客を追い越して、点のように小さかった少年の背中に、ぐんぐんと近づいていった。

 やがて少年は息を切らし、疲れ果てた様子でその場にうずくまってしまった。

 ユイルも呼吸を整えつつ、少年に近寄る。

 振り向くと、酔客はもうついてきてはいなかった。

「盗みは感心しないな。君」

 ユイルはできるだけ優しく声をかけた。

「・・・金がないんだ。盗む以外、どうしろって言うんだよ」

 少年が吐き捨てる。

 ユイルは、両親を失ったばかりの頃を思い出していた。肉を買えるだけのお金なんて、どこにもなかった。

 ガリガリに痩せた、細い手足。みすぼらしい少年の姿に、ユイルは過去の自分を重ねた。

「でも、盗みは罪だ」

 ユイルが正論を述べる。

「誰が決めた? 神様か?」

 少年が反論してきた。

「金を持ってる奴だけが偉いのか? 汚いことをして貯めた奴だって、いるだろ?」

 ユイルは言葉を失った。ルーマン正教の教義からいっても、法皇国の法律からしても、窃盗は犯罪だ。

 それでは。子供が盗みをせざるを得ないような貧困は、何になるのだろうか? 貧困を放置したり、拡大したりすることは、国家や社会にとって、罪悪ではないのか。

 根源的な問題を突きつけられて、ユイルは何も言えなくなった。何が善で、何が悪か。

 この少年とユイルの立場が違うように、その答えも人によって違うことがありうるのではないだろうか。

 少年は、険しい目でユイルを睨んでいる。

 その瞳はしかし、卑しくはなかった。人間としての誇りを失っていない眼差しだった。

「・・・その肉の代金は、オレが払っておく。もう、行きなさい」

 ユイルは、何とか、そう申し出ていた。

 少年は、一瞬驚きの表情を浮かべたけれど、軽く頭を下げると夜の街中に姿を消した。

 ユイルは立ち尽くしていた。いいことをしたのか、悪いことをしたのか、良くわからなかった。

 そんな無防備な心境でいたとき。

「ユイル殿」

 不意に、背後から声をかけられた。

 反射的に振り向く。

 そこには、かつて一度だけ会ったことのある人物がいた。

 女性のような長い金髪に、右目は青、左目は赤の、特徴的なオッドアイ。

 街のギルドで出会い、初対面でユイルの名を言い当てた、ムウと名乗った青年だった。

「・・・確か、ムウ殿でしたね」

「名前を覚えていて下さいましたか。光栄です」

 ムウは軽く会釈した。

「こんな所で、どうされたのです?」

 ムウに尋ねられ、ユイルは盗みを働いた少年との経緯を説明した。

「何がいいことで、何が悪いことなのか、自分でもよく分からなくなってしまって」

 ユイルが率直に述べると、ムウが評価する。

「ユイル殿、貴方の過去と現在が、今の迷いを生んだのです。立場と責任、過ちと償いが、貴方の生来の強さと弱さを暴き出したのです。人間は、超人にはなれないのです、ユイル殿。原点を思い出すのです。自分の敵が、何だったのかを。真の英雄への道筋を。そのための努力を。負けそうになる、でも勝ちたいと望む心を。己の弱さが、真の敵なのです」

 ムウの言葉は謎めいていたが、ユイルの今後を示唆する導きを含んでいた。

 少し迷いが晴れたように、ユイルは感じた。

 ムウが続ける。

「考えるのは、悪いことではありません、ユイル殿。色々なことを考えるのです。色々な人々の立場や境遇、夢や希望を考えて、どうすればもっと良くなるのか、自分はどうすべきなのかを、常に考えるのです。広い目、広い心で、世界を見るのです。この、複雑で、矛盾に満ちた、けれども人々が、平和と幸福を求めてやまない、この、広い世界を」

 何故こんなにも、ムウの発する言葉は自分の胸に染み入ってくるのか。ユイルは不思議だった。ずっと昔から、ムウが旧知の味方だったような気がしていた。

「オレは、英雄になれるでしょうか」

 ユイルは素直に問うていた。

「英雄になるための条件などありません。一歩踏み出したその瞬間から、全てが始まっているのです」

 ユイルの心の奥底に、灯台のような明るい光が点った。明日からまた、前を向いて進んで行ける気がした。

「ありがとう、ムウ殿。お陰で元気が出ました」

 ユイルが礼を述べる。

「これしきのことでしたら、いつでも。今日はここでお別れ致しますが、また近いうちにお会いしましょう」

 ムウは会釈して立ち去ろうとしたが、不意に立ち止まり、

「そうだ」

思いついたように、ユイルのほうを振り向く。

「私の生業をお教えしておきましょう。私の生きる術は、“軍師”です」

「軍師・・・」

「御用の際には、いつでもお呼び下さい。少しは、お役に立てると思います」

 それでは、と一礼して、ムウは去って行った。

 その後ろ姿を見送ったユイルは、ハッとした。予想外の邂逅に、すっかり遅くなってしまった。

 慌てて酒場に舞い戻る。

 そこには、完全に酔いつぶれて寝息を立てているラーム、レオン、リィナと、困り顔のカテリーナが待っていた。

「お帰りなさい、ユイル。みんな、寝てしまったの」

「・・・みたいだね」

 ユイルは、屈強そうな三人の若者にチップを渡して、三人を屋敷に運んでくれるよう依頼した。

 酒場の主人には、少年が盗んだ肉の代金を上乗せした額の金貨を支払う。

「ラームたちは大丈夫そうだから、カテリーナ、君を送っていくよ」

 カテリーナが、喜びの表情を見せる。

 ほろ酔い気分で、二人は法皇宮殿に向かった。

 ユイルが、勇気を出してカテリーナの手を握る。カテリーナは拒まなかった。

 夜風は少し冷たかったけれど、繋いだ手はとても温かく、二人は満ち足りた幸福な気分で夜の街を歩いたのだった。

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