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第25話 死線の果てに

 そして、闘技会当日。

 剣闘士団の建物からは地下通路が伸びており、コロッセオと繋がっている。剣闘士は外に出ることなく、闘技場に出陣できるのだ。

 ユイルは、麻の衣服の上に、急所を守る胸当てを装着させられた。兜は与えられない。

 美形といえるユイルの顔をあらわにすることで、女性客の心を掴むためだと、レムルスはうそぶいた。

 剣が支給される。それは、父の形見の剣だった。使い慣れた剣を手にして、ユイルは戦意を高めた。

 コロッセオの地下は、細かく小部屋に分かれており剣闘士の控え室になっている。そこで、自分の出番が来るまで、緊張と不安を抱いて待ち時間を過ごすのだ。

 地上の観客席からは、興奮した観客たちの歓声、怒号、悲鳴などが、嵐のような喧騒となって押し寄せてくる。

 闘技は午前から行われるが、最初は獅子、虎、豹、熊など、猛獣と人間との戦いが繰り広げられる。その後、前座剣闘士と呼ばれる新人や駆け出しの剣闘士同士の戦いがマッチングされる。

 メインとされる試合は、午後になってから開催される。観客は、観客席を巡回する売り子からパンなどを買って昼の空腹を満たすのだ。

 ユイルの試合は、新人としては異例の午後に設定された。盗賊の頭目を倒した戦歴を買われたのである。

 直前に、今日の試合相手について知らされた。ナイゼルという、連戦連勝の大男らしい。この日は、ナイゼルと五人の剣闘士との連続戦闘が組まれており、最後の五人目がユイルだった。

 さすがに四人と戦った後ならば、少しは疲れを見せることだろう。ユイルはそこに賭けることにした。

 ナイゼルは、大きな剣を両手で振り回すタイプの剣闘士だった。頭が大きすぎて、合う兜が無く、つるりとした頭部を露出している。

 全身は筋肉の集合体で、熊すら絞め殺すと言われるほどの怪力を誇る。

 ナイゼルは、その表情を変えることなく、彼の前に現れる剣闘士を次々と血祭りに上げていった。その行動には、慈悲の欠片もない。時に笑みを浮かべるその様子から見て、明らかに殺人を楽しんでいた。

 ユイルが剣を手に闘技場へ姿を現したとき、すでにアリーナには四人の死体の山が築かれていた。

 係の者が片付けようとするのを、ナイゼルは制止した。

「おっと、死体は片付けるな。そのままにしておいてくれ」

 ニタリ、と笑う。

「見せつけてやらなければな。これからこの小僧も、この亡骸の山に加わるのだということを」

 恐怖に負けそうになる自分を、ユイルは鼓舞した。

(落ち着け。オレには、父さんが残してくれた剣がある。老師とアレクに教えられた技がある。オレは剣士だ。老師の後継者であり、騎士だった父さんの息子だ)

 キッ、と相手を睨む。

(あんな、強さだけの、優しさの欠片も無いような奴に──)

 ユイルは自分に言い聞かせる。

(あんな奴に、殺られてたまるか!)

 そして、戦闘開始の鐘の音が、高らかに打ち鳴らされたのだった。

(先手を取る!)

 ダッ、と駆け寄るユイル。

 ブン!

 ナイゼルの大剣が、横殴りに飛んでくる。ユイルはかろうじて、両手で持った剣で受け止めた。しかし、勢いに負けて後ろに飛ばされてしまう。

 数メートル、後方に押しやられ、何とか両足で大地を掴む。相手の一撃を防いだ両手は、ジンジンと痺れていた。

(何て力だ……)

 力では絶対に勝てない。ユイルは実感した。

(何か、力以外の何かで)

 そう考える間にも、大剣の猛撃が絶え間なく襲って来る。ナイゼルは疲れを知らない恐るべき巨漢だった。

 防戦一方のユイル。

 そんな彼に、観客の心ない口撃が降ってくる。

「おいおい、防ぐので精一杯だな」

「怖えなら、逃げ惑え、小僧!」

 コロッセオ中が、自分の敵になったかのようにユイルは感じた。

 ナイゼルは、余裕に満ちた表情を浮かべている。

(絶対に負けない! 活路はある!)

 ユイルは自分を信じた。自分自身を、強く、強く。

 しかし、前後左右に振り回され、次第に疲労が募ってくる。息が上がり、意識が遠くなっていく。

 ふと脳裏に、父の顔が浮かんだ。父は、優しくも悲しげな顔でユイルを見ている。

「もういい、ユイル」

 父が告げた。ユイルの心の中の父が。

「もういい?」

 ユイルは聞き返す。

「“もう”って何だよ?」

 ユイルは胸の中の父を疑った。

(もういい、なんて、父さんは言わない。この声は──、オレの心の弱さから生まれた声だ。父さんはもういない。今、このコロッセオにはオレしかいないんだ)

 ユイルは意識を集中した。

(活路はある。絶対に!)

 もう一度、自分に言い聞かせる。

(オレは剣士ユイル、ユイルなんだ!)

 ユイルは残った力を振り絞って攻撃に転じた。ジグザグに走って、ナイゼルを翻弄する。

 懐に飛び込んだ。剣を振り上げる。

 キン!

 猛烈な勢いで、ナイゼルの大剣が一閃した。

 ユイルの捨て身の反撃を、大男は予測していた。わざと懐に誘い込み、全力でユイルの剣を狙ったのだ。

 ユイルの手が痺れ、その指から剣が離れる。

 父の形見の剣が、空中で数回転して数メートル離れた地面に突き刺さった。

 得物を失ったユイルは、慌てて後ろに飛び退いた。

 ナイゼルの罠にかかり、ユイルは無手になってしまった。状況的には、万事休す。

 ナイゼルが、ぐるぐると大剣を振り回した。

 反撃の手段を失った相手に見せ付けるデモンストレーション。右手、左手、右足、左足、頭、どこでも狙えるんだぞ、という示威行動。

 ユイルの背に冷たい汗が伝わった。

 そしてナイゼルの暴虐が始まった。

 息つく暇もない振り下ろしの連続。

 ユイルは左右に跳んで、間一髪、凶刃を逃れた。

 ナイゼルは蹂躙するように剣を振り続ける。

 ユイルは辛抱強く避け続けた。

 観客は、声を出すのも忘れて、ユイルが綱渡りのような防御を続ける様子に見入った。

 一瞬でも遅れれば、手か足が飛ぶ。あるいは、首が。

 若い女性の客などは、緊張に耐え切れず目を覆う者も多かった。

「諦めの悪い小僧だ!」

 ナイゼルが焦れた。振り下ろしを止め、速さを取って突きを放ってくる。

(よし!)

 その変化を、ユイルは待っていた。

 ユイルは両膝を曲げ、大地を蹴った。

 放たれた矢の勢いで、ナイゼルに迫る。

 首を大きく曲げて突きをかわし、左腕で大男の腕を払う。これで、突きを完全にしのいだ。

「ここだ!」

 ユイルの体が回転した。

 その右の拳骨が、ナイゼルのこめかみの急所を正確に捉えていた。全体重を乗せてこめかみの一点を打ち抜く。大男の目玉が、ぐるりと裏返った。ユイルの渾身の一撃は、相手の脳に激震を与えたのだ。

 大男の四肢から力が抜け、前のめりに倒れ込む。土埃をあげて、男は地に伏した。

 ユイルが着地を決める。

 観客席が大きく沸きあがった。

 まだ幼さの残る、線の細い少年が、武器を全く使わずに、自分の倍以上の体格を誇る相手を、素手で打ち負かしたのだ。

 その一発逆転の妙技に、観客たちは酔いしれた。

 満場の拍手が、戦いきった少年の全身を包みこんだ。息を整えて、ユイルは観衆の歓呼に応える。

 最前列の貴賓席で、立ち上がる人物がいた。

 ルーマン法皇国の総支配者にして、神の代理人たる、レオ三世その人である。

 レオ三世は魅力的な笑顔を浮かべ、惜しみのない拍手をユイルに贈った。

「見事だったぞ、ユイル。素手で敵を倒すとは、何という勇気。そなたこそ、余の配下に相応しい」

 そしてレオ三世は重大な処遇を口にした。

「そなたを、奴隷の身分から、一気に騎士に戻す。その武勇を持って、あらためて余に仕えよ」

 レオ三世の気紛れとも思える決定で、ユイルは汚名を返上し、自由と名誉を取り戻した。

 その場に跪いて、拝礼する。

「御意」

 コロッセオという、死と隣り合わせの巨大な迷路から、法皇の傍近くという、華やかな迷路に、ユイルは舞い戻ることになったのだった。

 レオ三世の傍らでは、法皇の妹・カテリーナが、その美しい顔に眩い微笑を浮かべ、騎士に返り咲いた少年を祝福していた。


 時は遡り、競技会の数日前。

 ユイルが奴隷身分に落とされ、剣闘士になったことを知らされたレオンとリィナは、何とか義兄と面会をしようとしたが、果たせなかった。

 同じく知らせを聞いたラームは、「チャンドラト、アズライルヲ連レテ、剣闘士団ニ殴リ込ム!」と言って聞かなかったが、レオンとリィナ、そして屋敷に来てくれたカテリーナの必死の説得で、その暴挙を断念した。

 ユイルをいざ失ってみて、レオンたちは改めて、その存在の大きさを思い知らされていた。ついつい頼ってしまって、生活のほとんどをユイルに依存していたのである。

 反省したレオンは、自分を街のギルドにウィザードとして登録した。依頼があれば、積極的にクエストを果たすつもりだった。実戦をより多く経験することで、報酬を稼ぐと共に、ウィザードとして成長していくことを望んだのである。

 リィナは悩んだ。得意といえば、歌が得意だ。亡きシェリルとの特訓で、すでに歌い手として基礎的な修練は積んでいる。もう、大人数の前で歌うのも怖くない。

 考えた結果、リィナはルーマ市内の大広場でライブを開催することにした。投げ銭方式の、一部有料で。それでお金を稼ぎ、経済的に自立しようと思った。

 もう一つ、リィナには望みがあった。ユイルが騎士に叙任された盗賊討伐の冒険で、彼女だけはルーマの屋敷で留守番だった。魔法で戦うレオン、ユイルを援護するカテリーナ、猛獣二頭と共に乱入したラームたち三人が、リィナは羨ましくて仕方なかった。

(あたしも、ユイル兄の役に立ちたい!)

 十二歳の少女の、切実な願望だった。

 リィナは更に考えた。歌い手は、ただ歌うだけだが、歌を武器に、冒険者として活躍している者もいる。バードだ。

 バードは、歌や音楽を単なる空気の振動ではなく、それ自体が特別な力を持った言霊として、妙なる調べと共に紡ぎ出す。

 その歌声は、時に味方を勇気付け、傷を癒し、時に敵の戦意を奪う。

 戦いの主力には成り得ないが、その帰趨を左右する重要な要素には成り得るのである。

 リィナは意を決して、レオンにくっついてギルドに顔を出した。お小遣いをはたいて、バードの技を教えてくれる教師役の冒険者を雇う。良い先生が見つかり、リィナは熱心な生徒となってバードの道を学んだ。

(ユイル兄の次の戦いには、あたしもついていく)

 そう、心に誓って。


 競技会当日。

 レオン、リィナ、ラームも、朝からコロッセオに駆けつけて、観客の行列に並んだ。競技会は有料の場合もあるが、今回は主催者がレオ三世ということで、政治家や有力貴族の人気取りの場合と同様、観戦料は無料だった。

 ユイルの試合が始まると、レオンたち三人はアリーナに乱入して家族を助けたい衝動に耐え、黒髪の剣士の戦いを固唾を呑んで見守った。

 苦闘の末、ユイルが勝利を収めると、レオンたち三人は涙を流し、互いに抱き合って喜びを共有したのだった。

 その日の夜。

 屋敷に帰ってきたユイルを、レオンたちは温かく出迎え、豪華な料理でその無事な生還を祝福した。

 ささやかな宴には、カテリーナもお忍びで訪れ、皆で楽しいひと時を過ごしたのだった。

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