17 - 死なせやしない
「げほっ、ごほっ……。」
痰が絡んで咳が止まらない。頭も割れるように痛い。私は枕に押し付けた頭をさらに枕に沈めた。
先日の王城侵入から約一週間。絶えず緊張していたらしく、その皺寄せで風邪を引いてしまった。こんな風に寝込むのは何年ぶりだろう。隊務も休みをもらい、今日は一日ベッドの上だ。後程百音が見舞いがてら薬を持って来てくれることになっている。
今日は飛鳥の墓前に集まる予定だったのに。熱が下がったら明日にでも墓参りに行こう。寝転んだまま窓から空を見上げるとどんよりと暗い雲が立ち込めていた。雨が降りそうだ。体調が悪いからか、気分まで落ち込んでしまう。百音が早く来てくれることを願いながら私は目を閉じた。
どれほど眠っていたんだろう。ドアをノックする音で目を覚ました。熱が上がっている感じがする。喉の痛みを堪えて返事を返した。
「はい……。」
ゆっくりとドアが開いて、百音がひょっこりと顔を覗かせた。
「お見舞い来たよ!」
「百音……。」
百音の顔を見たらすごく安心した。一人で心細かったのかもしれない。百音はベッドの側に椅子を持ってくるとそこに腰掛けた。
「しっかり風邪引いたね〜。 一気に寒くなったから、そのせいもあるかもね!」
そう言って笑いながら百音は持っていた鞄から林檎と薬を取り出した。食堂に寄って既に切ってあるものをもらって来てくれたらしい。
「食べられる?」
「ええ。ありがとう。」
容器ごと林檎を受け取り早速頬張った。爽やかな甘味と酸味が口いっぱいに広がる。果汁の瑞々しさが熱を持った身体に嬉しい。そういえば朝から何も食べていなかった。空腹は感じなかったが、薬を飲む前に何か食べなければ。林檎を頬張る私を見て、百音はにこにこと笑った。
「美味しい?」
「ええ。」
「んふふ、可愛い〜っ。真白、林檎好きでしょ!」
「……。」
好きか嫌いかで聞かれればもちろん好きだが、好きな食べ物と訊かれて真っ先に思い浮かぶのはやはりスイーツだ。あまりに身近な存在で、好きかどうかなんて気にしたことがなかった。私は容器の中の林檎に視線を落とした。
「何かしら……。あまり考えたことがなかったのだけど、何だか懐かしい感じがするのよね……。」
「そうなんだ! 私も体調崩すとよく母さんが剥いてくれたから、言いたいこと分かる!」
「……お母さん……か……。」
記憶はないけれど、私も百音と同様の思い出があるんだろうか。もしも記憶があったら。ふと顔を上げて百音と見ず知らずの母親を重ねてみる。しかしすぐに嘲笑が溢れた。こんなことがなければ思い出しすらしないのだ。私は親との記憶がなくても十分幸せに暮らしていけるのだと却って確信してしまった。それだけ皆の存在が大きいということだ。
「いつもありがとう、百音。」
「え!? 何なになになに!? 可愛いこちらこそありがとう!」
百音ははにかみながら嬉しそうに笑った。私は身を乗り出し、熱のせいだと自分に言い訳して百音に抱き付いた。少し私らしくない。けれどどうしてもこうしたかった。百音は私が抱き付いたよりも強い力でぎゅうぎゅうと抱き締めてくれた。安心する。私たちは体を離して顔を見合わせるとくすくすと笑った。
林檎を食べ終わって薬を飲んだ頃、私の部屋のドアを再びノックする音が聞こえた。
「見てくるね!」
「ありがとう。」
ドアを開けた百音は「わ!」と驚嘆を上げた。不思議に思っていると、ドアから顔を覗かせたのは八雲だった。
「八雲さん……!」
「様子見に来たんだけど、丁度いいや。百音もちょっといい?」
八雲は「お邪魔だと悪いし帰ろうかな!」と言う百音を制止して椅子に再び座らせた。八雲はどうするのかと思いきや、私のベッドの足元に腰掛けた。それがあまりに自然なものだから百音は微かに頬を赤らめていた。
「悪い知らせといい知らせ、どっちから聞きたい?」
「えぇ……! わ、悪い方? 後味悪いもの……ねぇ?」
「うーん、そうね……。」
「じゃあ悪い方から。今日共有された話だけど、侵入者として捕まっていた彼奴が脱獄した。」
「え!?」
「詳しくは今調査してる。続報待ちだ。行方は第二隊が追ってる。」
魔封石の手錠を嵌められ、窓のない独房で過ごしていたはずなのに……どうやって。忘れたくても忘れられなかった言葉が脳裏をよぎる。
──『敵は俺だけじゃない。』
実地演習のときの侵入者も同じことを言っていたという。この六年、裏切り者がいなかったわけじゃない。だけど、他の裏切り者を匂わせるようなことはなかった。連鎖はまだ終わってない。
「一人一人が何か役割を負っているとしたら……太陽の国は何を狙っているんでしょうか……。」
「一番は俺らを疑心暗鬼にさせることだろうな。少なくとも動揺する奴は確実にいる。」
「怖すぎ……! まんまと思う壺だし!」
「……悲しいけど、これがこの国に生まれた人間の宿命なのかもしれないな。」
宿命……。もし戦いが終わったなら、そんなことを気にせずに生きていけるんだろうか。今はそんな未来を思い描くことはとてもじゃないが難しい。すると突然、八雲が重くなってしまった空気を断ち切るようにパンと手を叩いた。
「いい知らせは、沙良と夏未の釈放が決まった。来週だ。」
「本当ですか?」
「やったね!」
「まだ監視はつくけど、もう疑いはほぼ晴れたと言っていい。何なら同志だとしても置いて行かれてるしね。」
「確かに……。私が仲間だったら逆に裏切っちゃいそう……。」
百音は神妙な顔をしてそう言った。私と八雲は思わず苦笑した。それから少しして、百音は飛鳥の墓参りに行くとのことで先に帰った。残った八雲は先程まで百音が座っていた椅子に移動した。
「……で、どうしたの。」
「え……。」
「浮かない顔。熱があってしんどいって顔ではないね。」
八雲の指が私の前髪を揺らした。指が微かに頬を掠めた。いつもならきっと途端に動揺して頬を赤く染めていただろう。けれどそうはならなかった。私はそっと瞼を伏せた。
「焦り……でしょうか。もうタイムリミットが迫っているのに、私は何も前進していなくて……。」
「うん。」
「……怖くて堪らないんです。」
いつの間にか滲んでいた涙がポタリと零れ落ちた。私は震える唇をギュッと噛み締めた。私は今、とても幸せなのだ。幸せを感じれば感じるほど、大切なものが、守りたいものが増えていく。けれどそれを取りこぼさないようどれだけ必死に足掻いても、全くもって守り切れる気がしない。
「私がもっと強ければいいのにっ……。いいえ、光属性の使い手だったなら……!」
不意に顎に八雲の手が触れた。顔を上げさせられ、八雲と目が合う。八雲は静かに怒っているようだった。
「前にも言ったけど……、お前だけ犠牲になろうとするのはナシだよ。仮に光属性の使い手だったとしても、膨大な生命エネルギーを使うなんて許容できない。」
「でもっ……!」
少しでも時を止めることができれば戦況は一変する。私たちの勝率はグッと高くなるんだ。
「勝てたって、真白が無事じゃなきゃ俺にとっては意味がないの。分かる?」
八雲は私の頬の涙の跡を掌で拭って言った。
「絶対にお前を死なせやしない。」
私はハッと息を飲んだ。
「今……なんて……。」
「絶対に真白を死なせやしないよ。」
「っ……。」
震える唇を噛み締めた。けれど涙は後から後から頬を伝って零れて落ちた。あの時、八雲隊長が言わなかった言葉。
──『本当は、絶対にお前を死なせやしないくらい言えたらかっこいいんだけどね。』
十七年経って、ようやく聞けた。なんて幸せなんだろう。思わず笑みまで一緒に溢れた。
「熱のせいかな、今日の真白は泣き虫だね。」
八雲はそう言って困ったように優しく笑った。八雲はそっと私を抱き寄せ、あやすように背中を撫でた。それがあまりに幸せで、私はその背中にしがみつくように腕を回した。




