10 - 奈落の底②
「真白速すぎ!」
頭上から聞こえた声に顔を上げると、百音がこちらを見下ろしていた。逆光も相まってその表情はもう見えない。側にいた沙良を目を向けるも、沙良も百音に同意のようだった。どうしても気持ちが急いてしまう。一旦その場で止まって百音と聖を待つことにした。
三十分ほど降下を続けて、ようやく底が見えてきた。下は本当に川だったらしい。だが流れの速さはおろか川幅すらまだ分からない。ようやく半分といったところだろうか。なんて深い谷なんだろう。
「行きはいいですが、帰りは骨が折れますね……。」
上を見上げた沙良が言った。顔を見なくても分かるくらいにはゲンナリしている。降下に一時間もかかるのだ、登るのは倍なんてものじゃ済まないだろう。
「地形を変えてもいいのなら階段を作るのに……。」
「あなたが言うと本当にやりそうで洒落に聞こえませんね。」
「総隊長じゃないんだからやらないわ。」
「確かに……。擬似太陽を作るくらいあの人も無茶苦茶ですもんね……。」
上に戻りやすいように地形を変えるということは、太陽の国に対して恰好の侵入経路を与えることになる。それだけは避けたい。
「調子、戻ってきたみたいですね。」
「……そうみたい。」
もっと取り乱してしまうかと思ったが、ここまできて腹を括れたらしい。もう前に進むだけなのだから、騒ぎ立てることもない。
「ご──」
「ごめんなさい、ありがとう。」そう言いかけて口を閉ざした。何度言ったって足りない。すべてが片付いたら改めてきちんと言おう。百音と聖が近くに来たのを確認して、私たちはまた降下を始めた。
*
奈落の底の川は、到底泳いで渡れるような優しいものではなかった。水深は分からないが、たとえ足がついてもとても踏ん張れそうにはない流れの速さだ。おまけに見える範囲には足場がなく、降りるのも難しい。上を見上げると地上は遥か彼方だった。
「かなり暗いね……。」
「視界がほぼゼロだ、長居するのはまずいな。」
途中で岸壁に松明を設置しながら降りてきたが、それがなければ辺りは暗闇に包まれていたに違いない。
「このまま流れに乗って川を下るのが一番早いわね。」
水属性で水膜を作れば水に耐えられる。風属性を使えば酸素も問題ないし、火属性を使えば灯りにも困らない。さらに草属性で身体の回復、つまり身体エネルギーを補填すれば、大丈夫だ。いける。地属性で足場を作れるし、何とか自力で崖を登れるだろう。魔力量もこの中では私が一番多いはずだ。ロープを繋いでさえいれば、すぐに皆と合流できる。
「私が行くわ。」
「待ってください。僕が行きます。」
沙良は涼しい笑顔で続けた。
「僕も全属性使えます。魔力量は真白さんに劣りますけどね。ロープが限界まで伸びたら合図を送りますから、引っ張って登るのをサポートしていただけると助かります。」
「……自信はあるんだろうな?」
「もちろん。だから真白さんたちは上で待っていてください。もしかしたら調査隊から何か報せがあるかもしれませんから。」
「沙良……。」
聖と百音は納得しているらしくただ頷いた。私はどこまで後輩に気を遣わせるんだろう。ありがたさと情けなさを押し殺して、私も頷いた。沙良はそれを認めるとニヤリと笑った。あ、いつもと違う笑顔だ。そう思ったときにはすでに沙良は川に向かって飛び込んでいた。
球体の水膜に覆われた沙良が川を下っていくのを見送りながら、聖が呆れたように呟いた。
「あいつ、絶対楽しんでたぞ。」
「……やっぱりそう見えたわよね?」
「魔法組み合わせて使わなきゃならない場面は普段もあるけど、ここまでの緊張感はなかなかないもんね。やるじゃん沙良くん!」
百音はケラケラと笑った。私もつられて笑顔を溢した。場の緊張感には不釣り合いだが、少し肩の力が抜けた。
「沙良くんが合図を寄越す前に地上に戻らなきゃね!」
「私が先頭に立って、崖に対して平行に階段を作りながら登るわ。聖が最後で、階段を壊しながら登って来て。」
「それが一番利口だな。」
先程私と沙良が想像したのは崖を切り開いて、首都よろしく大階段を作ってしまうやり方だった。けれどこのやり方なら太陽の国の助けにはなり得ない。各々で足場を作るよりずっと早くて効率的だ。
私たちが崖を登り切った頃には空が夕焼けに染まり始めていた。西陽がきつい。ふくらはぎもパンパンだ。
「少し休憩すんぞ。沙良から合図が来たときにバテてちゃ話にならねぇ。」
「そうね……。」
「この谷ヤバすぎ……! 太陽の国の奴らいっつもどうやって侵入して来るの!?」
「上流か下流に行きゃ多少渡りやすい所があるんじゃねぇか?」
そうは言ってもかなりの労力だ。固定ルートがないにしても、何か方法があるに違いない。この渓谷を攻略できれば太陽の国との戦いが大きく変わるに違いない。その時だった。数キロ先で轟音とともに水柱が上がった。
「何!? 爆発!?」
「違うわ! たぶん……!」
慌ててそちらに向かうと、犯人はケロリと笑っていた。沙良だ。
「ちょっ、沙良くん!? 何やってるの!?」
「いやぁ、引っ張り上げるとお互い大変だなと気づきまして。というか、もはや登りたくないなと思いまして。いっそ噴水のごとく、水の勢いを使って押し上げて貰えばいいのでは? と。」
と綺麗な笑顔で笑う。軽く言っているが、水圧が少しでも乱れれば崖に激突してしまう。とても利口とは言えない芸当だ。
「……私に散々無茶苦茶だって言ってたけど、沙良も大概よね?」
「はは、これは否定できませんね。」
「全員合流したことだし、今日はここまでだな……。」
「そうね……。」
体力も魔力も精神力も消耗している。無理に動くのは得策じゃない。とはいえ、八雲が行方不明になったと報せが入ってからもう一日以上が経ってしまった。歯痒くないと言えば嘘になる。本当は今すぐにでも駆け出して行きたい。
沙良が上がってきた地点で今日は夜を明かすことにした。火を囲んで夕食を摂りながら明日の動きを確認する。
「明日も今日と同様に一人が下に降りて川を下りましょう。僕がやったのと同じ方法で戻ってくれば左程時間もかかりませんし。」
「魔力消費量はどうだ?」
「僕ら三人なら、昇ってきた後少し休息を取れば回復できる程度です。」
百音は大事な回復役だ。いざというときに備えて体力を温存しておいてもらわないといけない。そうなると自動的に川を下るのは私たち三人ということになる。私たちは顔を見合わせて頷いた。
「……で、下ってみてどうだった?」
「未開の地であることに納得しましたよ。見通しは悪いし、流れが穏やかになる所がありません。おまけに延々と切り立った崖が続いています。複数属性の魔法が使えることが前提になりますし、枯渇しない魔力量が必要となると、下に降りられる人間は限られるでしょうね。」
「そうか……。」
即席のチームだったが、理にかなった人選だったということか。優秀な友人たちに感謝しなくては。
*
翌日もまだ陽が昇りきらない早朝から行動を開始した。勝手を知る沙良、聖が順に降り、最後に私が降りる番になった。
「真白なら問題ねぇだろうけど、昨日より水の量と勢いが増して、魔力を消耗する。きついと思ったらすぐ合図しろよ。」
「分かったわ。」
上がってきた聖からそう忠告を受け、私は崖を飛び降りた。
「真白! 無茶しないでよ!?」
「分かってるわ!」
そうは言っても、八雲が行方不明になってからもう二日になろうとしている。もし大きな怪我をしていたら? リミットは刻一刻と迫っているのだ。
正直、降下と言うより落下と言った方が正しかった。私は勢いに任せて崖を降って行った。摩擦で手のひらが痛い。はめていたグローブも擦り切れて破れてしまった。だけどそんなことはどうでもよかった。水面に到達したのは降下を初めてからわずか十数分程度だった。百音に知れたら怒られるかもしれない。私は水膜で自分を覆って川に浮かび、その周りに火の玉を四つ飛ばした。水膜内の空気調節も問題ない。私は流されるまま川を下り始めた。
二、三十分ほど経った頃、地形に異変が見受けられた。ずっと切り立った崖が続いていたのに、突然ゴツゴツとした岩場が川縁に出てきたのだ。陸地だ。上陸できる場所がある。そちらに近づこうと試みたが、命綱であるロープがそれを止めた。長さが足りなかったのだ。ロープが体に食い込んで痛い。
「っ……!」
私は急いで合図である閃光弾を打ち上げた。何か見つけたときに上げると決めていたものだ。私は体に括り付けたロープを握り締めた。ロープは風魔法を使えば切れる。けれどこれがなくなれば、私はあっという間にこの川の流れに飲まれるだろう。上手くあの陸地に辿り着けるかは賭けだ。だけど、上に戻る時間もロープを設置し直す時間も、またここに降りて来る時間も惜しくて堪らない。
「ごめんなさい、皆……!」
私は風魔法で突っ張っていたロープを断ち切った。その途端、私を覆う水膜ごと川の流れに乗って勢い良く流れ出した。慎重に、けれど素早くやらなければ。私は水膜に両手を当てた。角度を間違えれば岩場に激突しかねない。
「|ウォーター ガッシュアウト《水よ 噴出しろ》!」
詠唱を唱えると両手から勢い良く水が噴出した。水圧に負けて体勢を崩しそうになるのを懸命に踏ん張る。それでも川の流れに逆らうには足りなかった。だめだ、このままじゃ流される……!
「流されて、堪るもんか……!」
私は八雲を見つけて、一緒に帰るんだから……!
「|ウォーター ガッシュアウト モア《水よ もっと 噴出しろ》!」
次の瞬間、私は川を飛び出して宙に浮いていた。やりすぎた。精神エネルギーを組み込みすぎたのだ。噴出した水に押し上げられて川から脱出できたはいいものの、このままでは陸地には上がれても岸壁に激突してしまう。……いや、これでいい。一瞬の判断だった。陸地上空まで飛び出したと判断した瞬間、私は岸壁に向かって魔法を放った。
「|ウォーター ガッシュアウト《水よ 噴出しろ》!」
岸壁に向かって勢い良く噴出した水は、狙い通り私の勢いを殺してくれた。そのまま勢いを失った私は、水膜ごと地面に叩きつけられた。衝撃で維持しきれなくなった水膜は破け、私はずぶ濡れになった。岸壁への激突は避けられたが、落下はさすがに防げなかった。
「げほっ、げほっ……。」
さすがに体力切れだ。水に咽せながら体を起こしていると、視界の隅で火が揺れた。それは焚き火だった。
「真白……?」
火のそばには短剣を構えた八雲がいた。私は驚きのあまり、目を見開いたまま固まった。
「っ……!」
そして声より先に涙がボロボロと溢れた。八雲だ。生きてる。生きてる……!
「八雲さんっ……!」
私は勢い良く起き上がると、濡れているのも忘れて八雲に飛びついた。温かい。八雲だ。生きてる。生きてる。
「よかっ……! よかった、八雲さん……!」
「真白……。」
「八雲さん……!」
私は八雲に抱きついたまま、わんわんと声を上げて泣いた。こんなに泣いたのはいつぶりだろうか。八雲は次から次へと溢れる私の涙を拭って言った。
「……迎えに来てくれたの?」
「っ……!」
優しくそう問われて、私はただ首を縦に振った。嗚咽が酷くて声を出せそうにない。
「危ないことして……。どうせ無茶したんでしょ。」
先程の上陸劇は見られていたはずだ。何も否定できない。私はただ唇をキュッと結んだ。そんな私の両頬を包み込んで、八雲は困ったように優しく笑った。
「……ありがとう。」
勢いが緩んでいた涙がまた堰を切ったようにボロボロと零れ落ちた。堪らず八雲にしがみつく。必死に嗚咽を噛み殺して、私も応えた。
「生きててくれて、ありがとうございますっ……。」
八雲は一瞬驚いた顔をした後、少し泣きそうに顔をくしゃくしゃにして、それから笑った。
それからすぐに閃光弾を打ち上げると、三十分もしないうちに聖が上から降りて来た。聖は状況を確認すると再び閃光弾を打ち上げた。上に残った百音と沙良に連絡を送ったんだろう。そして二人が降りて来るまでの間に、私は大目玉を喰らった。
「何やってんだ真白!! ロープ切りやがって!! 死んだかと思っただろうが! あぁ!? 一遍上に戻って来れたよなぁ!?」
「ご、ごめんなさいっ……。」
「しかもこの流れの中ロープなしで! 水噴射して上陸しただと!? 運が良かっただけだこの馬鹿野郎!!」
「っ……。」
こんなに怒った聖を見たのは飛鳥が死んだとき以来だ。いや、あのときとは怒り方が違うから、初めてと言っても過言ではない。正直、怖い。そして降りてきた百音と沙良も早々にそこに合流した。
「どんっだけ心配したと思ってんの!? 手もボロボロじゃん! もうっ……もうもうもうっ……!! 真白の馬鹿!!」
「バテてるじゃないですか……! びしょ濡れだし怪我してるし……! どんな無茶したんです! あなたは自分を過信しすぎだ!!」
大泣きする百音と、これまた見たことがない形相の沙良に叱られて私は小さくなっていた。
「ごめんなさい……。」
しょげる私を八雲だけは困ったように優しく笑って見つめていた。
診てくれた百音によると、八雲は頭部の打撲、肋骨骨折、左脚骨折の大怪我だった。他打撲多数。八雲は落下途中に意識を取り戻したそうだが、怪我は避け切れなかったのだと言う。なんとかこの陸地にたどり着けたものの、身体ダメージの激しさ、身体エネルギーの消耗から崖を登ることはさすがに難しかったらしい。
「何を油断してたんですか!? 真白、八雲さんのことめちゃくちゃ心配してたんですよ!?」
「面目ない……。」
「八雲さんともあろうものが、部下の足引っ張ってどうすんですか!」
「ぐうの音も出ないねぇ……。」
今度は八雲を叱られるターンだった。八雲の背中がこんなに小さく見えたのは初めてだ。百音も聖も、八雲相手だというのに臆する様子が全くない。
「今日はここで野営して、明日崖を登りましょう。消耗してる方が二人もいるので。」
トドメは最年少の一言である。もろにくらった私と八雲は大人しく火のそばでせっせと動く三人を見守った。
「……真白。」
「はい。」
不意に八雲に名前を呼ばれた。八雲は火を見つめたままポツリと言った。
「今日は、このまま隣にいてくれない?」
「……。」
驚きのあまりその顔を見つめるも、火に照らされていては顔色があまりよく分からない。ただでさえポーカーフェイスだというのに、読み取れる情報が普段よりも一つ少ない。だが、何を考えているのか分からないのは今に始まったことではない。ふと笑みが溢れた。
「ずっと側にいます。今日と言わず、明日も、ずっと。」
それを聞いた八雲も静かに笑みを溢した。




