50.持つ者と持たざる者
『マンションの前でかわいいにゃんこ発見! めちゃカメラ目線でウケる~w というわけで今から向かうね~♪』
陽奈や咲良たちにメッセージを送信した樹里は、冷えた手を擦り合わせながら駅へと向かった。
それにしても、クリパ楽しみだな。しかも、今回は咲良たちに加えて陽奈やマコトさんもいるし。まあ、マコトさんは咲良に無理やり連れてこられるんだろうけど。
かすかに口元を綻ばせながら、駅へと続く歩道を進んでいたそのとき。後方からやってきた一台の車が樹里を追い越したあと減速し、歩道に沿うように停車した。
サイドウィンドがスーッと下がり、男が顔を出す。樹里の目がかすかに見開いた。
「やあ、樹里ちゃん」
手を振りながら親しげに話しかけてくる男。樹里の顔がぱあっと明るくなり、車のそばへ駆け寄る。
「井ノ原さん! お久しぶりです!」
「うん、久しぶり。樹里ちゃん、最近めちゃくちゃ活躍してるね。いつも見てるよ」
「あはは、ありがとうございます! 井ノ原さんは何してるんですか? てゆーか、これ外車ですよね? 左ハンドルだし。すごいっ」
「大したことないよ。ちょっとドライブにでも行こうと走ってたんだけど、たまたま樹里ちゃんを発見してね。ずいぶんおめかししてるけど、どこかへお出かけかい?」
「はいっ。今から、友達の家でクリパなんです」
「それはいいね。あ、ついでだから、送っていこうか?」
「え、いいんですか?」
「もちろん。さあ、乗って乗って」
「ありがとうございます!」
助手席に座った樹里がシートベルトをしたのを確認すると、井ノ原はアクセルをゆっくりと踏み込んだ。
「あー、あったかい。めちゃくちゃ寒かったから、助かりました」
「ほんと、寒いよねぇ。あ、そのカフェオレ飲んでいいよ」
井ノ原がドリンクホルダーを指さす。
「さっきコーヒーショップで買ったんだけどさ、外国人の店員が間違えて二つ寄越したんだ。まあ、カフェオレ好きだしいいかと思ってそのまま二杯分支払ったってわけさ」
「そうなんですね」
「そっちのはまだ蓋も開けてないし、大丈夫だよ。冷めてもないと思う」
「ありがとうございます。じゃあ、いただきますっ」
樹里がカフェオレを手に取り蓋を外す。甘くふんわりとした香りが車内に広がった。
「はぁ……美味しい。あったまりますね」
「それはよかった」
「それはそうと、井ノ原さん最近何してるんですか? ここしばらく撮影してもらってないような」
「ん……まあ、ちょっとね。最近はカメラもあまり触ってないかな」
「え!? そうなんですか?」
「いろいろ、あってね」
「そう、ですか……井ノ原さんの写真好きだったから、また撮影してもらいたいな」
その言葉に、井ノ原は何も返さなかった。運転席でステアリングを握る井ノ原の横顔を、樹里がちらりと見やる。わずかだが、車内の空気が重くなった気がした。
「僕の写真が好き、か」
「え? は、はい。もちろんですよ」
「そうか……じゃあ、僕が君に送った写真も、気に入ってくれたかな?」
「はい?」
「これまで、何度か自信作を直接送ったじゃないか」
樹里が眉根を寄せながら首を捻る。
「え、と。ほかの読モと勘違いしてるんじゃ……? 私、井ノ原さんから直接写真をもらった記憶がないような」
上着のポケットからスマホを取り出し、LIMEを起動した樹里は井ノ原とのトーク画面を開いた。
「うん、やっぱりないですね」
「あ、はは」
乾いた笑い声を漏らした井ノ原へ、樹里は視線を向けた。前をまっすぐ見つめる井ノ原の瞳。その奥はまったく笑っていない。
樹里の肌がぞわりと粟立つ。
何……? 井ノ原さんの雰囲気が、いつもと違う……気がする。
不穏な気配を感じつつ、前へと向き直ったそのとき。
路面にかすかな段差があったのか、車体がガタンと揺れ、ドリンクホルダーに置いてあったカフェオレが少しこぼれてしまった。
「わ、わ」
「樹里ちゃん、これ使って」
井ノ原はポケットからハンカチを取り出し、樹里へ差し出した。
「ありがとうござ――」
受け取ろうとした樹里の手が石のように固まる。ありえないものを見たかのように、樹里の顔から表情が消えた。
「い、井ノ原、さん。それ、ど、どうして……?」
震える声。心臓もかすかに跳ね始める。
井ノ原が手にしているのは、なくしたと思っていたお気に入りのハンカチ。
陽奈と初めて出会った公園。あの撮影の日、たしかにそのハンカチはスクールバッグに入れていた。でも、それ以来私はそのハンカチを見ていない。
どこかに落としたのだと、なくしてしまったのだと思っていた。それを、なぜ──
「……覚えてるかな? あの撮影の日。カメラが不具合を起こして、僕がスタッフの車に予備のカメラを取りにいったこと」
樹里の脳裏に、あの日の光景が鮮明に蘇る。
「も、もしかして……そのとき、私のスクールバッグの中、から……?」
井ノ原の唇がかすかに弧を描く。樹里の心臓がバクバクと跳ね始めた。
「……それと、さっきの話だけど、写真を送ったのはLIMEじゃないよ」
「え……?」
「Glamorousだよ」
今度こそ、樹里は氷のように固まった。世界から音が消えたように感じ、震える口から漏れる息遣いだけが耳に届いた。
「う、そ……です、よね……? い、井ノ原、さん、が……?」
刹那、樹里の視界がぐにゃりと歪んだ。
な、何、これ……? 体が、だるくて……眠気が……!
絶え間なく襲ってくる強烈な眠気と目まい。
「い、井ノ原……さん……! 何、を……!?」
何とか絞り出した声は、驚くほど細く、かすれていた。じわじわと歪んでいく視界の中で、景色が溶けるように輪郭をなくしていく。
まさか……さっき飲んだカフェオレに、何か……?
どんどん遠ざかる意識の中、かすかに唇をしならせる井ノ原の横顔が視界に映り込む。
ヤバい──
霧散しそうな意識を必死に手繰り寄せようとした。が、抗おうとすればするほど、意識は黒く染まっていく。
「や……だ……」
最後にそう呟いたとき、もうほとんど声は出ていなかった。
――樹里が横たわるソファの前に立ち塞がった桐絵は、怒気を込めた目を井ノ原へ向けた。
「井ノ原さん……あなた、自分が何をしているのか、分かってるんですか?」
井ノ原の表情は変わらない。陰鬱そうな瞳でじっと見つめられ、桐絵の肌がかすかに粟立った。
「もちろんさ。で、桐絵ちゃん。君はここへ何しに来たんだい?」
「よくもぬけぬけと……。ジュリちゃんは連れて帰ります。あなたのことも、警察に通報させてもらいますから」
「……君は、彼女のことを嫌ってたのでは?」
一瞬、桐絵が顔をこわばらせる。そんな彼女のもとへ井ノ原は歩を進めた。
「ち、近寄らないで!」
井ノ原は止まらない。桐絵の前に仁王立ちし、濁った目で彼女を見下ろす。
桐絵は樹里を庇うように片手を横に広げたまま、井ノ原の顔を睨みつけた。刹那──
「あうっ……!」
パンッ、と乾いた音が静かな倉庫の中にこだまする。頬を力いっぱい張られ、桐絵は弾けるように地面を転がった。
「うう……」
「……邪魔をしないでほしいな。今日は僕にとって祝うべき終幕……フィナーレとなる日なのだから」
ソファに横たわる樹里の体へ、井ノ原がじっとりと視線を這わせる。
コンクリートの床で半身を起こした桐絵は、ゆらりと立ち上がると、再び井ノ原を睨みつけた。
「フィナーレとなる日……ですって?」
「ああ、そうさ」
井ノ原がくるりと桐絵に向き直る。焦点が定まってないような濁った目。不気味にしなる口元。何とも言えない悪寒が走り、桐絵の膝がかすかに震えた。
「意味が、分からないけど……今、大勢がジュリちゃんを探してる。ここにも、すぐ人が来るわ」
井ノ原の眉がぴくりと跳ねる。
「なら……もう行かなきゃな。せっかくなら、思う存分楽しんでからにしたかったが」
天を仰ぎながら呟く井ノ原を見て、桐絵は眉根を寄せながら首を傾げた。
……行かなきゃ? どこへ? いったい、どこへ行こうというの?
静かに寝息を立てる樹里の頬へ、井ノ原がそっと触れる。
「やめて。その子に、触らないで……!」
「さあ、そろそろ行こうか」
桐絵の言葉を無視して、井ノ原は樹里の体を起こそうとする。
「井ノ原……さん! もう、やめて……!」
絞り出した桐絵の言葉は、埃っぽい倉庫の空気に溶けて落ちた。
井ノ原を睨みつけたまま唇を噛む。一瞬目を閉じた桐絵は、意を決したように再び口を開いた。
「私が……私が、ジュリちゃんの代わりになる。だから、お願い。その子を、解放して」
井ノ原の動きがぴたりと止まる。そして、ゆっくりと桐絵のほうへ振り返った。
「残念だけど、君じゃ代わりにならないよ」
「……どうして?」
「だって……君は僕と同じ、持たざる者じゃないか」
桐絵の顔から表情が消える。
「……は?」
「どれだけ努力しても、どれだけ頑張っても……持たざる者は報われない。それは、君自身が一番よく分かってるだろう?」
「な、何を……」
「持たざる者の人生は惨めなものさ。奪われて奪われて、また奪われて……。君なら分かるはずだよ? 僕たちは同じ持たざる者同士なんだから」
桐絵の顔が次第に紅潮する。ワナワナと肩を震わせながら、井ノ原へ射殺さんばかりの視線を向けた。
「一緒に、しないで……! あなたなんかと……、一緒にしないで!」
「一緒さ。君も、そして僕も持たざる者だ。だから、君じゃ彼女の代わりにはならない」
桐絵はギリギリと奥歯を噛み締めた。そんな彼女とは対照的に、井ノ原がうっとりとした顔で宙へ視線を彷徨わせる。
「ああ……これでやっと、悪夢からも解放されるんだ。は、はは……! 最後の最後に、僕が持つ者から奪ってやるんだ! あは……は……あああっはははははははは!!」
「く……狂ってる……!」
恍惚の表情を浮かべて笑い続ける井ノ原。その狂気じみた姿に桐絵は慄いた。
膝が……腕が、震える。正直、逃げ出したいくらい、怖い。でも……!
桐絵が猛然と駆け出し、井ノ原に体当たりを喰らわせた。
「ぐ……!」
井ノ原がたたらを踏む。勢い余った桐絵が樹里に覆い被さるような格好になった。
「邪魔を……するな!」
「きゃっ!」
井ノ原は桐絵の髪を掴んで立ち上がらせると、みぞおちに強烈なパンチをめり込ませた。
「あうっ……!」
桐絵が顔を歪ませてうずくまる。
「頼むから、おとなしくしておいてくれよ」
井ノ原は粘着テープで桐絵の手足を縛ると、口にもテープを貼った。
「んー……! んんーーっ!」
芋虫のように床へ転がる桐絵を一瞥した井ノ原は、のそのそとした動きで樹里を抱きかかえた。
「さあ、樹里ちゃん……誰の手も届かない、彼方の世界へ行こう」
「んんーっ! んん、んんーー!!」
「じゃあな……桐絵ちゃん」
樹里をお姫様抱っこしたまま倉庫から出ていく井ノ原の背中を、桐絵はただ睨みつけることしかできなかった。




