第58話 悪魔の誘いは天使のように
机の上には今日最後の授業の教科書が広げられたまま。シャープペンシルに消しゴム、青ペンと赤ペンが置かれたままだ。タブレットを使うことが常識になった現代、紙の教科書を使うのは時代遅れな気がするが、わが校は今も使っている。もちろんタブレットも並行して使っているが、やはりペンを手に持って書くという作業も学力向上に必要ということで並行して使うことになっているとのことだ。
文字を書く作業は時代遅れだと言う人も近年いるが、文字を書くということは人間の頭脳を動かすうえで必要なことの気がするので個人的には感心しない。ただし、あまりノートに書くことばかりを重視してもよくないとも言われている。そう言っていたのは霞先輩だ。
曰く、あくまでも教科書や試験対象の重要な本を徹底的に理解することが重要だと。書くことも理解するための手段。何よりも大事なことはなぜそのような答えになるのかということを自分の頭で考えて、それを他の人に説明できるくらい理解するということだと。書くこともそのための手段であり、手段と目的を転倒させてはならないとのことだ。口で言うのは簡単で実際は難しいことだけど、霞先輩が教えてくれたやり方を私は心掛けて実践している。要は自分の頭の中にストックして思考しないとダメなのだ。頭という内蔵メモリをどうやって充実させられるか。私にとっても日々勉強の中で自問自答している。
重い教科書をいちいち持参しなくても済むよう、学校用と家での学習用の2冊を用意できるよう学校側は費用を負担してくれている。それに通学カバンはリュックだし、ノートとタブレットを持ってくるくらいで済むので通学はとても楽だ。
「律ちゃん。どうしたの?もう授業終わったよ?」
ぼーっと考えながら窓の外を見ていたら、知らぬ間に紗月ちゃんがそばにいた。心配そうな表情を浮かべて私を見ている。
「あっごめん。ちょっと考えごとをしていたから」
「律っちゃん・・・、少し前から元気ない表情をするときがある。何かあったの?」
「ううん、大丈夫。考え事をすることが多いんだ、こんな世の中だし」
紗月は律子の机の前に中腰で立つと、心配そうな表情で律子を見つめる。
「律っちゃん?私に何か隠し事をしていない?」
ドキッ!いきなりの質問に私は一瞬背筋が凍る感じがした。
「なっ何でもないよ・・・。どうして?」
「律っちゃん。最近物思いにふける感じになることが多いし、霞先輩とも会う機会がないって言っていたでしょう。私に何か隠してるんじゃないかなーって」
「何でもないよ、紗月ちゃん・・・・・・」
紗月ちゃんには言えない。紗月ちゃんは元のごく普通の生活と常識の世界のままでいててほしい。私は得体のしれない、まるで心が宙ぶらりんのまま毎日の日常を生きないといけなくなる事態に嫌が応なしに巻き込まれてしまったのだ。紗月ちゃんはこれを知ってはいけない!
紗月ちゃんは元の穏やかな表情に戻っていった。
「うん、分かった。律っちゃん、今日一緒に帰らない?」
「うん、そうしよう。・・・あっ、いけない!私、大事な本を数日前に部室に置き忘れてた!悪いけど紗月ちゃん、明日また一緒に帰ろう」
「うん、わかった」
茶道部部室の途中まで私は紗月ちゃんと一緒に行った。そして、別れの挨拶をして私が歩きだしたとき、紗月ちゃんの声が後ろから聞こえた。
「律っちゃん!」
「えっ!?」
紗月ちゃんは不安な面持ちと真剣な面持ちが入り混じった顔で私を見ていた。
「私は律っちゃんの味方だよ。悩み事があるなら何でも私に言って」
「ありがとう」
私はそうとしか言いようがなかった。
紗月ちゃんには厄介ごとを相談したくない。だから紗月ちゃんには新世界のことも公子さんたちのことも言っていない。でも、紗月ちゃんは私の置かれている状態を最近薄々気づいてきている気がしなくもない。
紗月ちゃんは結構感が鋭いのだ・・・。
茶道部の部室の前に着いた。古い引き戸式のドアはそれだけで年代物の雰囲気を漂わせているが、窓から差し込む夕日が廊下全体を照らす光景と合わさると、余計もの悲しさを引き立たせる。平穏な静寂と遠くから聞こえてくる運動部の掛け声が入り混じる光景は昔からみんながイメージする学校生活の一場面だ。だが、その光景は世の中がすさんでいく今の時代を知っている身からすると、かえってもの悲しさを引き立たせてしまう光景でもあった。
部室の中に入り、靴を脱いで忘れていた本を探す。確かこないだここに置き忘れていた気がしたんだけどなあ・・・。
ガラガラガラッ!
先ほど閉めたはずの引き戸が、ゆっくりとした感じで開く音がした。
誰!?
「久しぶりね、律子」
それはほとんど会うことのなくなっていた霞先輩だった・・・・・・!
ガラララッ、ピシャ!
霞先輩は部室の引き戸を閉めた。そして、入り口で靴を脱ぐと黙ってこちらへと近づいてくる。
その目は自信に満ちていた。いや、自信と表現してよいものなのだろうか・・・。知性のある鋭い眼光、品位のある気高い雰囲気、明らかに普通の人とは一線を画す気迫を感じる。しかし、同時にどこかうつろな、怪しい光が瞳孔にともっているような・・・。最近先輩とは面と向かって話す機会がなかったから気づけなかったけど、やっぱりこうしてみると以前の先輩と違う・・・・・・。
「かっ、霞先輩・・・。お久しぶりです。どうされていたので・・・」
霞先輩は私の質問に答えず黙ってこちらに近づいてくる。窓から差し込む夕日と、周囲に人気がない部室内に緊迫感のある空気が漂っていく。
霞先輩は私の目の前にまで来て口を開いた。
「改めまして、律子。元気にしてた?」
霞先輩の表情は突然朗らかになり、以前の先輩の優しい顔に戻っていた。
「あっ、霞先輩・・・。どうされていたんですか。もう数か月も先輩とお話しする機会がなくなっちゃって、相当お勉強が厳しいんじゃないかって心配していたんです」
「あら、私は毎日がとても充実しているわよ、律子。それよりも律子の方はどうしてる?勉強頑張っているかしら?」
「はい、おかげさまで」
よかった!昔の霞先輩に戻っていた。私や荒木先輩が感じていた前のおかしな態度は勉強が厳しくて他の進学校の人との兼ね合いがあったからだけだったのかな?
「律子。あなたはどうしてここにいるの?」
「あっ、私は今日部活の日ではないのですが、ここに忘れた本を取りに来ただけです。このあと塾もありますので早めに失礼いたします」
「そう、大変ねえ。私はおかげさまで殿上人様から直々に認めていただいたのに。律子もなぜ新世界で力を身につけて殿上人様から直々にスカウトしていただいている身なのにそれを拒み続けるのかしら?葦國公子さんも私のご主人様に匹敵するご立派な方なのに」
!!!!
今、先輩はなんと言った!?
新世界の磁場の力のことはこの学校では一切言っていない。それに公子さんのことも同じく誰にも言っていないはず?それをなぜ知っているの?やっぱり霞先輩は新世界でなにかされたんだ。きっとそうだ!
「私はすでに殿上人様の階級に入れてもらうことが決定しているの。あなたが私のことをとても心配してくれて唯と色々詮索していたみたいだったけど無駄骨だったようね」
「でも、あなたは新世界で私よりすごい領域に到達することができた。すごいじゃない!あなたは特別な試験などを受けずに生まれ持った素質だけで殿上人様の階級へ入る切符をつかんだのよ!なぜそれをためらい続けるの、律子!」
「それは、その・・・・・・。一番大切なものを・・・」
私が言いかけると、霞先輩は右手の手のひらをこちらに向けて私が話すのを止めた。
「あなたが言わんとすることはわかっているわ、律子。今日はあなたにそのためらいを乗り越えるおまじないをしてあげようと思っていたの。部室に行けば必ず会えると思っていたけれど正解だったわね」
そう言うと霞先輩は自ら持ってきたカバンから何かを取り出した。それはなんと小型の西洋風の短剣だった。それは西洋風のもので、見たところ軍隊の士官が持つ物に似た感じがした。
そして霞先輩の顔を見ると、先ほどまで元に戻っていたと思っていた表情は見る見るうちに妖しい雰囲気に変わってしまっていた。
そして、霞先輩はその短剣を引き抜くと、それで自らの右手の手首を切った。手首から鮮血が流れ落ちていく。
私は反射的に霞先輩に駆け寄った。
「なんてことをするんですか、先輩!!大変!!早く血止めをして手当てしないと!!」
そう私が言いながら先輩に歩み寄っていった次の瞬間、私の片手を霞先輩の左手が握った!手に力が入っており、逃げられない!
そして、霞先輩は血が流れる自らの右手を私の目の前に差し出してこう言った。
「律子。私の血を飲みなさい。そうすればあなたが常識と思い込んでいるものはすべて忘れられるわ」
「私、殿上人様から特別な儀式でを分けていただいたの。そうしたら殿上人様の心や世界を瞬時に理解できたのよ。あなたもこちらの世界に来なさい!!」
恐ろしいことを口にしながら、霞先輩は私に自らの血を呑ませようと迫ってきた!
どうしよう!?霞先輩はやっぱり何かをされたんだ!
そうだ!私には洗脳を解ける力があるんだった。今こそ霞先輩を元に戻す!
私は先輩がもとに戻ることを心の中でイメージして先輩の体をつかんだ。
だが!?
「ぐっ、止めなさい!!律子!!!」
ぐっ!!!
ドンッ!!!
気づいたら私は先輩から何かの力で弾き飛ばされたかのように吹き飛ばされていた。大事には至らなかったが部室の壁に背中を打ち付けてしまった。
「はあっ、はあっ、はあっ。殿上人様のおまじないがなかったら私元のステージに戻っちゃうところだった・・・。律子!殿上人様がおっしゃっていた通り、あなたの力はすごいわ。でも、今のあなたでは私たちには通用しないわよ」
私の近くにはお茶の葉を入れてある缶が転がっていた。一か八か!
私は缶の中のお茶の葉を霞先輩に向かって撒いた。霞先輩は一瞬たじろぐ。
私は間髪入れず、自分のカバンと靴を持って部室から抜け出した。
振り返ると、霞先輩は追いかけてこない。だが、私を見るその表情は怪しげな笑みを浮かべているように見えた。そして、私に向かってこう叫んだのだ。
「律子・・・。私はいつでも待っているわよ!あなたを不条理な世の中から救うために」
私は霞先輩のその言葉に、底知れぬ恐怖を感じ、一刻も早くその場を離れようと全力で走った。先輩はやはり追いかけてこない。
だが、霞先輩が先ほどの言葉を叫んだ後、私が走りながら後ろを振り返ると、先輩が自らの右手の血を口にしているのが一瞬見えた。
私は立ち止まらずに全力で逃げた。怖かった!何?血を相手に飲ませるって!?
まるで何かの危ない呪術みたいなことを何で霞先輩が!?
本当に・・・・・・・、本当にどうしちゃったって言うの!?霞先輩・・・・・・!?




