第29話 あなたの中の一番大事なものを差し出しなさい
スケールが違う公子の話の数々に、律子は動揺していた。
蛇ににらまれたカエルとはこういうことを言うのだろうか。
この人の話が本当なら、この殿上人という人たちは人間の歴史、人類史そのものを創造してきた人たちということになる。しかも、この人の話は新世界でホワイトエルフ族のエルードさんから聞いた話と被る部分が多い。この人の年齢不相応な気配のすごみといい、族長さんから聞いた話と共通する話の内容といい、単なるハッタリとかではないということは主観的な判断とはいえ明らかだった。
動揺を隠せない律子を見つめながら公子はさらに続ける。
「詰まるところ、この世はアイデンティティをめぐる戦いに過ぎない。善か悪かに普遍的な決まりはない。それらは所属する陣営によっていくらでも変わるわ。ある時代、ある組織で悪とされていることが別の時代や組織では善とされていることも多くある」
「律子。分かった?私はあなたのことを買っているの。だから私の部下になりなさい」
もう一度、公子は律子に要求する。
律子は考える。
確かにこの公子さんの提案はまるで宝くじで数億円を引き当てたようなものだ。一生の成功をいっぺんに獲得するチャンスが向こうから足を運んできてくれている。
霞先輩が誰もまねできないほどの努力をしてようやく入れたところへの切符がなぜか私の目の前に自分からやってきているのだ。
断る理由はない。通常ならば。
だが、この提案をしてきている殿上人と名乗る人たちの倫理観、人間観はやはり私たちと何かが違う。納得できることも多いけど、論理ではなく何か直感的に違和感を感じるのだ。あるいは真逆のようだが直感が納得しても詳細な論理の面で違和感を感じるということもできる。
一見矛盾した支離滅裂なことを自分でも言っていると思うが、この人の話からはそう感じるのだ。2つの相反する価値観を同時に持っているような気がするのだ。この殿上人という人たちは。
律子は意を決して尋ねることにした。
「条件は何ですか?あなたのところに入るのに?」
すると、待ち構えていたかのように公子は間髪入れず答える。
「あなたの心の中の一番大事なものを私に渡しなさい」
なに・・・、それ・・・。
律子は一瞬だけ理解できなかったが、すぐにその意味を理解した。
「私たちの世界に入るには、それ相応の対価が必要なの。だから入会にはそれなりのものをささげるのが常識よ」
「上級の世界に入る者たちは、みんな自分の中の一番大切なものを私たち殿上人にささげるのが決まりになっているの。それは人それぞれ違うところがあるけれど、大体各自の持つ自我、すなわち心そのものよ」
「殿上人以外に自我は必要はない。それが決まりよ」
律子の心に本能的な拒絶反応が生ずる。
聞くだけならとてつもない好条件なのかもしれない。
でも自分の一番大事なものをささげるって、自分が自分でなくなってしまうということなんじゃないの?
そういえば、霞先輩も新世界に行ってからおかしくなったけど、よく考えると霞先輩が霞先輩でなくなっていくような感じがしていた。この人が言うことが正確なら、霞先輩は自我を渡したっていうことなの?
・・・・・怖い・・・・・。
律子の頭にその言葉が無意識に浮かんできた。それだけしか思い浮かんでこないのだ。
律子が渋い顔をして回答を渋っていると、公子はいぶかしげな表情をしながら律子の真意を探るように言う。
「あなたをそこまでかたくなにしているものは一体何?立身出世のためならほぼ大半の人は私たち殿上人に心を差し出すのに?」
「今の時代、自分の努力だけで成功ができるなんて思ってはダメよ。いや、まあまあの生活すら努力しても難しい時代よ。あなたも知っているでしょう。この時代、女性であるあなたが安定した将来を約束される進路は限られているわよ」
「律子。私はあなたも経験したことがあるであろうことを言うわ。世の中の現実というものがどれだけ醜い偽善に満ちたものなのかを」
「みんなから好かれる。みんなと仲良くしましょう。この言葉がどれだけ間違いで、それをまじめに信じた人たちを不幸のどん底に落としてきたか分かる?」
「世の中というものは、各人が自己のアイデンティティを守るために戦いあっているにすぎないの。人類の歴史とは階級闘争であるとかつての左翼の学者は言っていたけどそれも事実よ。そこにはお互いがそれぞれの立場に基づいた正義というものがあり、客観的な正義の指標は人それぞれによって異なるの」
確かにそれはわかる。私も昔みんなと仲良くしようといわれて嫌な人と一緒のグループに入れられて嫌な思いをしたことがある。
「他の人間を弱らせて自分が優位に立って支配しようとする人間って最低よ。世の中はそのような人間であふれかえっているの。人って自分が優位に立ったらそうふるまい始める存在なの」
「私は違う。正面から向き合って戦いに勝つ。そして、相手に敬意を示すわ。そのうえで私はあらゆる一流の人を心服させてきたの」
「私はあらゆる人を平等に扱うべきだと思っていたわ。でもそれは間違っていた。逆に私が逆差別を受けたもの。私の祖先たちも同じようなことを言っていたと伝え聞くわ。この世界の人間は異世界で辛酸をなめた歴史を共有する私たちと違って、温情をかけたらどこまでもつけあがってくる。こっちが受け入れても、この世界の相手は違っていた。私の尊敬する祖先のことを馬鹿にする輩も多く見てきたわ。それだけじゃない。あなたがあなた、私は私。その考えが通用しない人がこの世には多すぎるの」
「いわばこの世界の人間は、私たちと違って進化し損ねた人間が多すぎるのよ。超越的な力が身についているとかではなく心の部分で」
「人をみて法を説け。これは真実だし、人はそれぞれの性質に応じて区別して当たり前なのよ。区別せずに一緒くたに一つの世界に押し込めるから争いが起こるの」
「私の世界はそんな心配はないの。その代わり心を私がもらう。ただそれだけなの。」
律子はしばらく考えたうえで、質問する。
「どうしてそんなに人の心を欲しがるのですか?」
「一つ目は殿上人としての人を支配したいという本能、二つ目は理想的なコミュニティに入会するのにもはや自我を持つ必要があるのは私たちだけだから。あなたたちは赤子のように素直に従っているだけで憂いのない世界を享受できるの。それらが理由よ」
「律子。あなたはなぜ派閥とか組織に入ろうとは思わないの?どうしてそんなにかたくなに個人という立場のままでいようとするの?」
「私は自分の育ったありのままの環境を守りたいだけ。新世界に行かざるを得なかったのも、三好霞先輩が新世界に行っておかしくなってしまった原因を突き止めたかっただけなんです。だから、あなたの言うように派閥とか組織に入れって言われても、そんなことは私には何が何だかわからないんです」
「でも、私は自分の祖先の名誉を守りたいと常に思っています。祖父や祖母から人生の大事なことを一杯教えてもらったので」
律子の言葉に公子はなぜか安堵の表情になって言う。
「私の遠い祖先たちは異世界での想像を絶する戦いに勝って力を得た。私の家では常にその話を聞かされて育ってきたの。だから祖先の尊厳を踏みにじる輩は絶対に許せないの」
「律子、祖先を大事にするという点で私とあなたは共通しているわ」
「私も昔はみんな平等に接さないといけないって思っていたわ。でも、それで待っていたのは逆差別よ。人間は平等なんかじゃない。私は私の祖先から受け継いだものをしっかり継承して生きていくわ。自分の立場を安売りしたり、自分の立場を否定してまで他人に譲歩したりは絶対にしない」
そういうと、公子は突然立ち上がった。
そして、頭を下げて玄関へと向かう。
「今日はあなたの信念に敬意を表して引いてあげるわ。でも、あなたのことを諦めてはいないわ。必ずあなたは私のもとに来ることになるの。覚悟しておきなさい」
「今日はいきなり上がり込んでしまってごめんなさいね。それではまた近いうちに会うことになるわ、律子」
一応、私はこの方を門前まで見送ることにした。
門前に差し掛かった時、公子は律子に振り返って言った。
「律子。私はいつでも待っている。あなたの気が向いたら、私のところにいつでも来なさい。歓迎するから」
その言葉と同時に公子はその日の中で最も素敵な笑顔を見せて彼女は去っていった。
“一体あの人は何だったんだろう洗脳を解くって、よくカルト宗教の脱会を支援する人とかがやることのように聞こえるけど、私のそれがあの人たちになんで厄介な能力とみなされるんだろう?”
突然の来訪者の深すぎる話の数々は公子が去った後もしばらく、律子の頭を困惑させ続けていた。




