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あなたの不運を引き受けるのは今日までです。明日からはあなたのものです  作者: 九葉(くずは)


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10/10

第十話 今日はどこまで

初秋の、風の出ない日でございました。


朝、リディアが屋根裏から箱を下ろしてまいりました。中に、青い衣裳が畳んで入っております。


「一昨年、お姉様が出してたやつ」


「まだ持っておりましたのね」


「捨てるって言われてない」


袖を通しますと、肩のところが少し余りました。二年で痩せたのだと思います。裾は同じでございました。


畳み皺が三本、まっすぐに入っております。二年、同じ折り方で箱に入っていた証でございます。


「お姉様、今日は何をするの」


「決めておりません」


「誕生日なのに」


「誕生日ですから」


三年、この日の予定はいつも先に決まっておりました。収穫祭の前夜と、狩りの支度と、それからもう一つは何でしたか。思い出せません。


朝食のあと、玄関に立ちました。


杖を持って、門を見ました。門の外に街道があって、街道の先に橋があって、橋の向こうに丘がございます。丘の上に古い見晴らし台が建っております。


子どもの頃、あそこまでよく歩きました。


門から橋まで、およそ千二百歩。橋から丘の下まで、九百歩。丘を上るのに、四百歩ほど。


三年前に一度、途中まで行って、橋のたもとで引き返しました。


「リディア」


「はい」


「丘まで参ります」


妹はしばらく黙って、それから荷袋を取りに行きました。


「わたし、途中まで行く」


「途中でよろしいの」


「途中まで。それより先はお姉様が決めることだから」


門を出ました。


石突が土を打つ音は、柔らかうございます。詰めたばかりの丈は、体に合っております。右へ預けずに歩けますので、左の肩が上がりません。


四百歩ほど歩いたところで、一度止まりました。


「お姉様、痛い」


「いいえ」


「本当に」


「今日は、痛くありません」


千二百歩で橋に着きました。


三年前に引き返したのは、この欄干のところでございます。あのとき、わたくしは膝から下の感覚がなくなっておりまして、欄干に手をついて、しばらく水を見ておりました。それから、来た道を戻りました。


今日は、欄干に手をつきませんでした。


橋の中ほどで、番小屋の窓が開いております。中に年配の方が座って、紙に何か書いておいででした。


「フェイのお嬢様」


「今日はよろしくお願いいたします」


「へえ。お通りになりますか」


「参ります」


その方は紙に一行書き入れて、また窓の内に戻られました。


今年、七回目でございます。


四年前は、この番小屋の前を年に百八十二回通っておりました。


丘の下で、リディアが足を止めます。


「わたし、ここまで」


「ええ」


「上まで、どのくらいかかる」


「四百歩ほどの道です。今のわたくしですと、その倍はかかります」


「じゃあ、待ってる」


「お待ちにならなくてよろしいのよ」


「待つ。それは、わたしが決めること」


妹は道の脇の石に腰を下ろして、荷袋を膝に置きました。


丘は、思ったより急でございました。


途中に段が三つございます。今日は、一段ごとに杖を先に置いて、それから足を運びました。


三百歩を過ぎたあたりで、右の手首が鳴りました。移し身のときの鳴り方ではございません。ただ、力を入れすぎているだけでございます。


持ち替えました。


四百五十歩で、上に着きました。


思っていたより、少のうございました。


見晴らし台の土台だけが残っております。周りは芝でございます。


わたくしは杖を逆さに立てて、石突を外しました。


芝の上では、要りません。


袋に入れて、上着の隠しに仕舞います。それから、軸の先を芝に置いて、体を預けてみました。


音がいたしませんでした。


しばらく、そうしておりました。


丘の下に街道が見えます。その先に橋があって、橋の向こうに屋根が並んでおります。フェイの屋敷は木に隠れて見えません。ハーストのお家は、ここからでは方角が違います。


風が出てまいりました。


秋の初めの風は、上のほうだけを通ります。芝は動かずに、木の上のほうだけが鳴ります。


わたくしは芝に座りました。


座るときに、左脚を先に伸ばします。三年で覚えた座り方でございます。この座り方は、この先も変わらないでしょう。医者は、これ以上は良くならないと申しております。悪くもならないとも申しております。


そういうものでございます。


先日、王都から戻った父が、ハーストのお家の話を持ち帰りました。ドレイク家との縁組は流れたのだそうです。新しい話も、今のところないと。


それを聞いたとき、わたくしは晩の献立を考えておりました。それだけでございます。


足音がいたしました。


振り向きますと、ソーン様が上ってきておられます。


「フェイ嬢」


「よくここが」


「妹君にうかがいました。丘の下でお待ちでいらっしゃいます」


ソーン様は、少し息を切らしておいででした。上着の前を開けて、書類の入った鞄を提げておいでです。


「お邪魔でしたか」


「いいえ」


ソーン様は、わたくしから三歩ほどのところで立ち止まられました。


「お誕生日と、うかがいました」


「妹が申しましたのね」


「祝いの品ではございません。ただ、今日でなければならなかったものですから」


鞄から、紙を一枚出されました。


役所の様式でございます。上に整理の番号が入っております。


「これは」


「申告書の控えでございます」


わたくしは受け取りました。手袋を嵌めた手で、端を持ちました。


上のほうに、ソーン様のお名前と生年が書いてございます。その下に、細かい字で行が並んでおりました。


落馬。溺水。火傷。骨折。刃物による傷。落下。馬車の転覆。疫。以下、二十七行。


一つずつ、起こりうることの名前でございます。


「これは、何をなさったのですか」


「王立記録院の規程に、こういう条項がございます。当人が自分に起こりうる災厄をあらかじめ申告し、受理された場合、その災厄は移せません」


「移せない」


「申告によって、所有が確定するのだそうです。三百年前の条項でして、使う者はおりません。わたくしが調べた限り、この百年で二件でございます」


「なぜ、そのような条項が」


「移し身の家系が、他にもいくつかあったころのものでございます。移される側の家が、断るために作らせたのだと聞いております」


「断るために」


「はい。引き受けてもらうことを名誉とする家もございましたので、断りたい者には、こういう手続きが要りました」


わたくしは、二十七行を上から読みました。


疫、というところで指が止まります。


「これは、ずいぶん多うございますね」


「思いつく限り書きました。抜けがあれば、追加で出せます」


「抜けたものは、どうなりますの」


「そのときは、あなたが引き受けられます」


ソーン様は、そこで一度、丘の下をご覧になりました。


「ですので、これは、完全ではございません。二十七行しかございませんので」


「二十七行」


「はい」


「受理は」


「先月末に。今日から効力がございます」


わたくしは紙を膝に置きます。


風が紙の端をめくりましたので、手で押さえました。


三年、わたくしはこの手で人に触れて、そのたびに何かを引き受けてまいりました。引き受けないと決めてからは、触れないことで守ってまいりました。手袋は五組ございます。麻が三組と、羊革が二組。羊革のほうは、もう指の付け根が馴染みました。


触れないというのは、守り方でございます。


三年、わたくしは守り方しか持っておりませんでした。差し出すか、隠すか、どちらかでございました。


守り方は、選び方ではございません。


「ソーン様」


「はい」


「これを、いつからお考えでしたの」


「はじめてお目にかかった日に、条項のことは思い出しておりました。出すまでに三月かかりましたのは、条文の解釈で役所と揉めましたので」


「三月」


「先に申し上げなかったのは、受理されるか分からなかったからでございます。それから」


ソーン様は、そこで少し言い淀まれます。


「受理される前に申し上げますと、あなたが断りにくくなりますので」


わたくしは、その言葉をしばらく持っておりました。


「申告は済ませました。これで、あなたは何も引き受けられません」


そう仰って、ソーン様は手袋を嵌めたままの手を、膝の上で組まれました。


差し出されはしません。


わたくしは、紙を丁寧に畳みます。それから、上着の隠しに入れました。石突の袋の隣でございます。


右の手袋の指先を、一本ずつ引きました。


抜いたものを膝の上に置いて、それから、自分の手を見ました。


指の跡は、もう残っておりません。


わたくしは、その手を差し出しました。


ソーン様は、動かれません。


「二十七行では足りませんわ」


「はい」


「抜けたものは、わたくしが引き受けます」


風が止まりました。


ソーン様が、手袋を外されました。外すのに手間取っておいでです。指の付け根のところが、なかなか抜けませんでした。


その手が、わたくしの手に触れました。


何も起こりません。何も起きないということが、こんなにはっきり分かるとは思っておりませんでした。


墨の染みが、指の付け根にございます。洗っても落ちないものだとうかがっておりましたが、こうして近くで見ますと、色が三通りに分かれておりました。古いものと、新しいものと、その中間と。


ソーン様の手は、思っていたより温こうございました。三年、わたくしが握ってきた手は、いつも先に冷えておりましたので。


「フェイ嬢」


「ロザリンドと」


ソーン様は、しばらく黙っておいででした。それから、名前だけを、一度お呼びになりました。


丘を下りますと、リディアが石の上で立ち上がりました。


「遅い」


「そうね」


「上、どうだった」


「風が、上のほうだけ通っておりました」


妹はわたくしの手を見て、それからソーン様の手を見ます。両方とも素手でございます。


リディアは荷袋を持ち上げて、街道のほうを向きました。


「お姉様、今日はどこまで行くの」


わたくしは、上着の隠しから石突の袋を出しました。街道は土でございますから、これから先は要ります。


嵌めながら、答えました。


今日はどこまで歩くか、わたくしが決めます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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