第8章:それでも、好き
第8章:それでも、好き
「──ですから、僕のキャリアプランとしては、三十代のうちに海外法人の立ち上げに携わりたいと考えているんです。浅田さんは、パートナーの海外赴任にはついてきてくださるタイプですか?」
日曜日の午後二時。銀座の小洒落たホテルのラウンジ。
目の前に座る男性──マッチングアプリでマッチした高橋さん(二十九歳、大手外資系コンサル勤務、年収八百五十万、清潔感のある塩顔)は、完璧な角度のビジネススマイルで私に問いかけてきた。
スペックは申し分ない。メッセージのやり取りもマメだった。
なのに。
「あ、ええと、素敵ですね。私は今の仕事が好きなので、もしそうなったらリモートワークとか、現地でのキャリアを模索するかも……」
「なるほど。でも、コンサルの妻としては、家庭のマネジメントに専念してもらった方が効率が良いというデータもあるんですよ」
「……効率」
私は引きつった笑顔を浮かべ、一杯千八百円もするダージリンティーをそっと口に含んだ。
(……会話のラリーが、なんか、重い)
高橋さんの言うことはいちいち論理的で、何一つ間違っていない。
けれど、会話のキャッチボールというよりは、お互いの条件面を擦り合わせる「面接」を受けているような気分になる。
もし、これが湊斗だったら──。
私が「海外赴任?」なんて言った時点で、
『えー! 美奈が英語喋るとか、出張先で迷子になって泣く未来しか見えないんだけど! プーくすくすぅ! パスポート持った?』
とか何とか言って、速攻で茶化してくるはずだ。
そしたら私も、
『失礼ね! これでも英検二級は持ってるわよ!』
と言い返して、そこからしょうもない言い合いが始まって、気づけばお腹を抱えて爆笑している。
そんな、呼吸をするよりも自然な「会話のテンポ」が、この席には存在しなかった。
「浅田さん? 聞いていますか?」
「あ、すみません! ちょっと、来月の新作飲料のプロジェクトのことを考えてしまって」
慌てて取り繕う私に、高橋さんは少しだけ眉をひそめた。
「せっかくのデート中に仕事の話ですか? オンとオフの切り替えはしっかりした方がいいですよ。僕はオフの日は完全に趣味のゴルフとサウナに時間を投資しています。食事も、休日は栄養バランスより五感を刺激するフレンチと決めているんです。浅田さんは、お休みの日はどんなお店に?」
「えっと……休日は……」
脳裏をよぎったのは、金曜日の夜に湊斗と二人、錆びたパイプ椅子に座って食べた、新橋のガード下の焼き鳥だった。
汗だくの店主が焼く、一本百円のねぎま。
タレがワイシャツに飛びそうになって大騒ぎし、お互い口の周りをテカテカにさせながら、ビールを喉に流し込む。
あの、気取りも飾りもない、最高に美味しかった時間。
「……ガード下の、焼き鳥とか、好きです」
絞り出すように答えると、高橋さんは一瞬だけフリーズし、それから大人の余裕を見せるように苦笑した。
「ハハ、庶民的ですね。まあ、たまにはそういうジャンクなものも『体験』としては面白いかもしれません」
──体験、ね。
その瞬間、私の心の中で、何かがスーッと冷めていくのが分かった。
高橋さんは悪くない。スペックも外見も、婚活市場においては間違いなく「当たり」の部類だ。
悪いのは、あんな残酷なフラれ方をした直後だというのに、目の前の素敵な男性を、無意識にあらゆる角度から「坂井湊斗」と比較してしまっている、私のほうだ。
スマートな気遣いのタイミング。
何も言わなくても伝わる、食の好み。
沈黙すら心地いい、圧倒的な空気感。
私の世界のすべての基準が、もうとっくに、坂井湊斗という男によって構築されてしまっていた。
二時間の面接──もといデートが終わり、銀座の駅前で高橋さんと解散した。
「また連絡します」と言って去っていく彼の背中を見送りながら、私は地下鉄の階段をトボトボと降りる。
日曜日の一人きりの帰り道。
スマートフォンの画面を開くと、マッチングアプリの通知ではなく、会社のプロジェクト用グループLINEが動いていた。
【坂井】
『美奈、例の修正配合のデータ、島田さんからOK出たわ! 明日朝イチで共有するね。お疲れ!』
画面に映る、いつもの、なんてことのないビジネスライクなメッセージ。
それを見ただけで、さっきまで凍りついていた私の胸の奥が、じんわりと温かくなっていく。
「……あーあ。本当に、バカみたい」
私は駅のホームのベンチに座り、両手で顔を覆った。
あんなに傷ついて、あんなに惨めな思いをして、「オカン」だとまで言われて、もう忘れるって心に誓ったはずなのに。
別の人を見ようとすればするほど、湊斗の存在の大きさが浮き彫りになって、自分がどれだけあいつを好きだったかを突きつけられる。
どれだけ他の誰かで上書きしようとしても、私の心は、最初から最後まで、坂井湊斗という名前で埋め尽くされていた。
諦めることすら許してくれない、このしぶとすぎる初恋を抱えたまま、私は明日もまた、彼の「都合のいい戦友」として出社しなければならない。
重い足取りで電車に乗り込みながら、私は自分の往生際の悪さに、ただただ深い溜め息を吐き出すしかなかった。




