第7章:悪寒
第7章:悪寒
「──ちょっと待って、これ二年前の夏キャンペーンの時と同じミスじゃない? 湊斗、あんたまた営業部の共有フォルダに古いデータ残したでしょ!」
「ゲッ、嘘、マジで!? ごめん美奈、すぐ差し替えるから怒るなよ!」
時計の針は深夜一時を回っていた。
会社近くの24時間営業のファミリーレストラン。
ドリンクバーの機械が低く唸る店内で、私たちプロジェクトの居残り組は、テーブルいっぱいに資料を広げて徹夜の作業に追われていた。
「ほんと、あんたは昔から詰めが甘いのよ。新人研修の時だって、最終課題のプレゼン資料のUSBメモリ、ホテルの部屋に忘れてきて私がダッシュで取りに戻ったんだからね」
「うわ、懐かしいな! あの時はマジで美奈が後光の差した神様に見えたわ。お礼にマックのポテトLサイズ奢ったっけ」
「ポテト一個で帳消しにされた私の大激走、今考えても割に合わないわ」
ハハハ、と湊斗が声をあげて笑う。
張り詰めた深夜の空気が、私たちのいつものやり取りで一気に和んでいく。
その様子を、少し離れた席でポテトをつまんでいた後輩の男子社員が、感心したような、呆れたような目で見つめていた。
「……いや、マジで不思議なんすよね」
「何が?」
私がストローを咥えながら訊ねると、後輩は真顔で言った。
「浅田さんと坂井先輩って、なんで付き合ってないんすか? 社内でもよく話題になりますけど、この時間に二人でいて、実家の幼馴染みレベルで息ぴったりじゃないですか。もう付き合ってないのが不自然っていうか、むしろ都市伝説の域ですよ」
「おいおい、変なこと言うなよ」
湊斗がドリンクバーのメロンソーダっぽいものをぐっと飲み干し、からかうように私の肩を小突いた。
「美奈と付き合うとか、そんなのあるわけないだろ。こいつはもう、俺にとって『家族』みたいなもんだからさ」
心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
「家族」。
その二文字が、深夜のファミレスの冷たい空気の中に、残酷なほど鮮明に響き渡る。
「えー? 家族って、それもう『嫁』ってことじゃないんすか?」
後輩が無邪気に食い下がる。
しかし、湊斗はフッと笑って、こともなげに首を振った。
「いや、オカンでしょ」
──オカン。
その瞬間、頭の中が真っ白になった。
耳の奥で、キーンという高い音が鳴り響く。
嫁、じゃない。オンナ、でもない。
あいつにとっての私は、身の回りの世話を焼いてくれて、小言を言って、どれだけ甘えても絶対に自分を見捨てない、都合のいい「母親」ポジション。
それが、七年間隣に立ち続けてきた私の、坂井湊斗の中での現在地だった。
あまりの衝撃に、言葉が出なかった。
「何言ってんのよ!」といつも通り笑い飛ばさなきゃいけないのに、喉の奥が引き締まって、乾いた空気しか出てこない。
視界が、急激に歪んでいく。
まずい、と思った時には遅かった。
ぽろりと、大粒の涙が頬を伝って、テーブルの上の企画書に小さなシミを作った。
(なんで……なんで今、涙なんか出るのよ。バカじゃないの、私)
下を向いたまま、必死に涙を拭おうとするけれど、一度溢れた感情は止められない。
隣に座る湊斗が、私の異変に気づいてハッとしたように息を呑む気配がした。
「え……美奈? お前、まさか……」
このままじゃ、バレる。
あいつを「好き」だという、私の七年間の情けない秘密が、全部バレてしまう。
そんなのみっともないし、何より今の湊斗には麗奈さんという婚約者がいるのだ。私のこの重い感情なんて、あいつを困らせるだけの最悪の足枷にしかならない。
──隠さなきゃ。全力で、いつも通りの「私」で、誤魔化さなきゃ!
私は下を向いたまま、右手をギュッと固く握りしめた。
そして、涙をボロボロと流した状態のまま、隣にいる湊斗の左肩を、思い切りグーでぶん殴った。
「ぶふぇっ!?」
鈍い音とともに、湊斗が肩を押さえて大げさにのけぞる。
「痛てぇえええ!? 何すんだよ美奈! ガチの拳じゃねえか!」
「オカンってなによ!!! 姉でしょ! せめてお姉さんって呼びなさいよ!!!」
私は顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、般若のような形相で湊斗に怒鳴り散らした。
泣いているのは「悲しいから」ではなく、「オカンと言われて猛烈にプライドが傷ついたから」という体にするために、ありったけの声帯を震わせる。
「はぁ!? お姉さん!? 何言ってんだよ、俺の方が二ヶ月お兄さんだろ!」
「二ヶ月なんて誤差よ、精神年齢は私の方が十歳は上! あんたが古いデータを残すから、私が夜中に泣きながら修正する羽目になってるんでしょ! これは悲しみの涙じゃなくて、あんたへの怒りの血涙よ!!!」
「血涙って、お前顔中涙だらけじゃねえか! 悪かった、オカンは取り消すから! 頼むからファミレスの真ん中でその顔で睨むのやめてくれ、夢に出る!」
「うるさい! ドリンクバーでカルピス混ぜて喜んでる幼児のくせに!」
「混ぜてねえよ、メロンソーダ単体だよ!」
「メロンソーダ! お子ちゃまでちゅねぇ!」
「精神年齢十歳年上のお姉様には昆布茶でもお持ちいたしましょうか」
「あ? おまえ!! マジで許さん!」
二発目のグーをあいつの背中に炸裂させた。
深夜のファミレスに、私たちの怒号──という名の全力の誤魔化し──が響き渡る。
対面に座る後輩は、チベットスナギツネのような顔をしてそこに座っていた。
「うわぁ……やっぱりオカンと反抗期の息子だわ……」と遠い遠い目で私たちを見ていた。
激しい言い合いの最中、湊斗がふと、自分のポケットからクシャクシャのハンカチを出して、私の目の前にポンと置いた。
その無自覚な優しさが、そのバグった距離感が、今の私には何よりも痛かった。
ハンカチの隙間から見える湊斗の顔は、やっぱりいつも通り、私に一ミリの警戒も抱いていない「戦友」の顔のままで。
私はあいつのハンカチを顔に押し付けながら、心の中で、これまでにないほど激しく、静かに号泣していた。




