第6章:社長令嬢の孤独
第6章:社長令嬢の孤独
時計の針は午後十時を回ろうとしていた。
商品企画部のフロアは完全に無人になり、いくつかのデスクの上にあるスタンドライトだけが、暗闇の中にポツポツと小さな光の島を作っている。
その中の一つ、私のデスクの対面に、二条麗奈さんは座っていた。
完璧だったはずの縦巻きロールは少しだけ緩み、いつもは隙のないシルクのジャケットが椅子の背もたれにかけられている。
「……信じられませんわ。これが、世に言う『残業の味』というものですのね」
麗奈さんは、手にしたコンビニのプラスチックカップをまじまじと見つめていた。
中に入っているのは、私がさっき給湯室の電子レンジでチンしてきた、一個四百六十円の冷凍たこ焼きだ。
「おいしいでしょ? ソースとマヨネーズって、脳が疲れてる時には合法麻薬並みに効くから……でも『残業の味』って、カップ麺の方が一般的かな……」
私は自分の分のたこ焼きを口に放り込みながら、フフッと笑った。
数時間前、役員フロアで立ち聞きしてしまったあの冷酷な会話。
どうしても麗奈さんを一人にできなくて、私は「新ブランドの競合調査」という大義名分をでっち上げ、彼女を自分のフロアに引っ張ってきたのだ。
麗奈さんは小さなフォークで恐る恐るたこ焼きを口に運ぶと、ハフハフと不器用に熱がりながら、驚いたように目を丸くした。
「本当に……ジャンクですけれど、体に染み渡るようですわ。私、生まれて初めて食べました」
「えっ、たこ焼きを!? 人生の半分くらい損してますよ、二条さん」
「……麗奈、でいいですわ」
麗奈さんはカップを見つめたまま、ぽつりと言った。
「関西に行ったことは小学校の修学旅行でしかありませんでしたし、学生の頃は家と学校の往復だけでしたし……。親からやっと離れたアメリカでは忙し過ぎたのもあってピザばかり食べていたこともありましたけどね。その時だけかな? ジャンクフードに溺れたのは……」
麗奈さんは寂しそうな微笑みを浮かべながら、自分の人生を振り返っていた。
(いや……関西に行かなくてもたこ焼きあるし……街中で一緒に遊ぶような友達がいたこと無いってことか)
「ピザ……アメリカのドラマとかで見るヤツですね……」
「社内ではみんな、私を『二条さん』か『室長』としか呼びませんもの。誰も私個人を見ていない。腫れ物を扱うように距離を置いて、陰では『親の七光り』だと囁き合う……。浅田さん、あなたも本当は、私のことが煙たいのでしょう?」
ストレートな問いかけに、私は一瞬、たこ焼きを突く手を止めた。
暗いフロアに、換気扇の低い音だけが響く。
ここで「そんなことないですよ」と綺麗事を言うのは簡単だ。
でも、そんな薄っぺらいお世辞は、この聡明で孤独なお姫様にはきっと一瞬で見抜かれてしまう。
私は深く息を吸い、グラスのウーロン茶を一口飲んでから、思いきり「ぶっちゃける」ことにした。
「──正直に言いますね。最初は、めちゃくちゃムカついてました」
麗奈さんが、驚いたように顔を上げた。
「美人で、おまけに海外MBAホルダーで、仕事も完璧。その上、私の大切な……あ、いや、我が社のエースの坂井湊斗の婚約者。正直、神様は不公平すぎるって、先週の金曜日は本気で夜中にコンビニスイーツをドカ食いして枕を濡らしました」
「浅田さん……」
「でもね」
私は麗奈さんの真っ直ぐな瞳を、真っ直ぐに見返した。
「今日の夕方、見ちゃったんです。役員フロアで、社長と麗奈さんが言い合ってるところ」
麗奈さんの身体が、一瞬で強張る。
「立ち聞きしたのは本当に謝ります。でも、それを見て思っちゃったんですよね。なーんだ、この人も私と同じように、自分の力で認めてもらいたくて、必死にもがいてる一人の働く女子なんだなって」
私はたこ焼きのパックをトントンと叩いた。
「会社のために結婚しろなんて、いつの時代だよって話です。麗奈さんが孤独なのは、あなたが冷徹だからじゃない。誰もあなたの『必死さ』に気づこうとしないくらい、周りが勝手にビビってるだけです。だから……友達がいないなら、私が第一号になってあげてもいいですよ?」
「……っ」
麗奈さんは絶句していた。
大きな瞳を限界まで見開き、信じられないものを見るような目で私を見つめている。
言い過ぎたかな、と少し後悔し始めたその時。
「ふ、ふふ……っ」
麗奈さんの口から、小さな、しかし堰を切ったような笑い声が漏れた。
彼女は口元を両手で覆い、肩を震わせて笑い始めた。
いつも作っていた完璧な「令嬢の微笑み」ではない、お腹の底から溢れ出たような、年相応の少女の笑顔だった。
「おかしな人。本当に、あなたはおかしな人ですわ、美奈さん」
初めて名前で呼ばれ、私の胸がトクンと跳ねる。
「私の前で、そんな風に『ムカついていた』なんて言う方、今まで一人もいませんでしたもの。……でも、嬉しいですわ。政略結婚だなんて冷たい檻の中に、私の実力を見てくれる人が、こんなに近くにいたなんて」
麗奈さんは涙の浮かんだ目で、私に向かってにっこりと笑った。
その笑顔は、どんな高級ブランドの宝石よりも、ずっと綺麗で人間らしかった。
「私、負けませんわ。お父様の言う通りになんてならない。この新規事業を絶対に成功させて、自分の人生は自分で勝ち取ってみせます。……だから、手伝ってくださる?」
「もちろん。商品企画部の底力、見せてあげるから覚悟しなさいよ」
私はそう言って、悪戯っぽく笑ってみせた。
恋敵のはずなのに、私はもう、この完璧で不器用なお姫様を嫌いになることができなかった。
むしろ、彼女を絶対に幸せにしてやりたいとすら思ってしまっている。
自分の片思いの行方はますます迷子になっていくけれど、私たちの間には、確かに「女の友情」という新しい風が吹き始めていた。




