第5章:偽りの婚約
第5章:偽りの婚約
激しい夕立が、オフィスの遮光ガラスを激しく叩いていた。
時刻は午後八時を回ったところ。フロアの人口はまばらになり、あちこちのデスクで蛍光灯が消され始めている。
「……はぁ」
私は複合機の前に立ち、詰まったコピー用紙を引き抜きながら、重い溜め息を吐き出した。
頭の中から、昼間の会議での麗奈さんの切ない横顔が離れない。
『浅田さんの前で見せるような湊斗さんを、私はまだ一度も見たことがありませんのよ』
あの言葉が、今も耳の奥で棘のようにチクチクと刺さっていた。
(私だって、あいつのそんな顔、見たくて見てるわけじゃないのに……)
複雑に絡み合う感情を振り払うように頭を振り、出力されたばかりの分厚い資料をトントンと机で揃える。これを役員フロアの新規事業室へ届ければ、今日の私の仕事は終わりだ。
エレベーターに乗り、静まり返った最上階へと向かう。
全面絨毯敷きの役員フロアは、いつも私がいる賑やかな商品企画部とは空気が違った。しんと静まり返り、どこか冷徹な緊張感が漂っている。
新規事業室の前にたどり着き、ノックをしようと手を上げた、その時だった。
「──約束が違います、お父様」
重厚な木製のドアの隙間から、張り詰めた声が漏れ聞こえてきた。
麗奈さんの声だ。いつもの気品ある声音が、今は微かに震えている。
「私は、自分の力でこの新規事業を軌道に乗せると約束しました。それなのに、なぜ……」
「何を言っている」
低く、有無を言わせない威圧的な声がそれを遮る。二条社長の声だ。
「坂井との婚約をこのタイミングでプレスリリースに盛り込むのは、我が社の株価にとっても、新ブランドのイメージ戦略にとっても最高の一手だ。営業のエースと私の娘の結婚──これ以上のストーリーがあるかね」
「湊斗さんを、会社のPR材料にするのはやめてください! 彼は、必死に現場で数字を上げている一人の社員です。それを、まるでお飾りのように……」
「麗奈」
社長の冷酷な声が、麗奈さんの反論をぴしゃりと叩き落とした。
「勘違いするな。お前を海外の大学院にまで行かせ、新規事業室の室長に据えたのは誰だ? お前が二条の人間として会社に貢献する方法は、何も綺麗な正論を吐くことだけではない。坂井を二条家に取り込み、次世代の経営基盤を強固にする。それもお前の立派な『義務』だ」
「……っ」
短い、息を呑むような音が聞こえ、その後は重苦しい沈黙が流れた。
私はドアの前で、完全に息を止めて硬直していた。
心臓が嫌な音を立てて早鐘を打つ。手にした資料を持つ指先が、じっとりと汗ばんでいくのが分かった。
(偽りの、婚約……新ブランドのイメージ戦略?)
社内中が「逆玉の輿」「大金星」と囃し立て、湊斗自身もどこか誇らしげに見せていたあの婚約の裏側。
それは、美しく着飾った麗奈さんを広告塔にし、優秀な湊斗を会社の駒として囲い込もうとする、社長による冷徹な「経営戦略」に過ぎなかったのだ。
足音が近づいてくる気配がして、私は慌てて物陰に身を隠した。
数秒後、勢いよくドアが開き、足早に歩み出てきた麗奈さんの姿が見えた。
いつもの完璧な縦巻きロール。
だけど、その肩は小さく震えていて、うつむいた顔からは一切の血気が失われていた。
彼女は私に気づくこともなく、逃げるようにエレベーターへと消えていった。
「……何やってんだよ、俺は」
誰もいなくなった廊下に、今度は掠れた声が響く。
部屋の中から出てきたのは、湊斗だった。
ネクタイを緩め、髪をがしがしと掻きむしりながら、天井を見上げて深い、深い溜め息を吐いている。
その表情は、私がこれまで見たどんな修羅場の時よりも、ひどく疲れ切り、傷ついているように見えた。
私は、物陰から一歩も動くことができなかった。
湊斗が営業のエースとして必死に走ってきたのは、純粋に仕事が好きだからだ。
それなのに、その努力すら「社長の娘の婿にふさわしい男」という枠にハメられ、利用されようとしている。
そして麗奈さんもまた、自分の実力を誰にも見てもらえず、ただの「社長の娘」という記号として、人生をコントロールされようとしていた。
誰も、幸せそうじゃない。
誰も、笑っていない。
私の大好きな湊斗も、私が嫉妬していた完璧なお姫様も、この華やかな婚約という名の檻の中で、息もできないほど苦しんでいた。
(……ふざけないでよ)
胸の奥から、ドロリとした怒りにも似た感情が湧き上がってくる。
失恋したとか、負け犬ヒロインだとか、そんなことはもうどうでもよかった。
ただ、必死に仕事に向き合ってきた二人を、こんな冷たいやり方で踏みにじる大人の事情が、私は猛烈に気に入らなかった。
手の中の資料を強く握りしめながら、私は自分のデスクへと戻るエレベーターのボタンを押し込んだ。
持ち前のお節介な性分が、私の頭の中で静かに、しかし確実に火を噴き始めていた。




