第3章:パーフェクトな婚約者
第3章:パーフェクトな婚約者
月曜日の午後二時。
二条ゼネラルフーズ本社の第四会議室は、まるでシベリアの氷原のような緊張感に包まれていた。
「──以上が、新規事業室から提案する『秋の新作オーガニック飲料』における、ブランディング戦略の修正案です。浅田チーフ、何かご質問は?」
涼やかな、しかし鼓膜を心地よく威圧するような声が会議室に響く。
プロジェクターの光を浴びて席に座っているのは、今期から我が社に降臨した社長令嬢、二条麗奈だった。
(……本物だ。本当に縦巻きロールだ……!)
私は手元の資料を見るフリをしながら、彼女の全貌に圧倒されていた。
緩やかに、そして完璧な螺旋を描いて肩へと流れる見事な縦ロール。
寸分の狂いもないタイトなシルクのスーツ。
海外MBA仕込みの、無駄が一切ない流暢なプレゼンテーション。
何より、周囲の人間を「一般市民」に格下げしてしまうような、圧倒的な完璧超人のオーラが全身から立ち上っている。
「あ、いえ……非常に論理的で、素晴らしいと思います」
私が萎縮しきった声で答えると、麗奈さんはフッと完璧な形の唇を綻ばせた。
しかし、その微笑みすら「貴族の慈悲」のように見えてしまい、私の自己肯定感はさらに削られていく。
HPのゲージがあったなら、きっと赤く点滅を始めていることだろう。
「それは良かったわ。坂井さんから『商品企画の浅田は我が社の宝だ』と伺っていたので、もっと手厳しい反論が飛んでくるかと身構えておりましたの。……ねえ、湊斗さん?」
麗奈さんが、隣に座る湊斗に視線を送る。
「だろ? 美奈の企画はいつも堅実だからさ。二条さんの尖ったブランディングと合わされば、絶対面白いものになるよ」
湊斗はいつも通り、人当たりの良い営業スマイルで応じる。
美男美女。社長令嬢と営業のエース。
二人が並んで座っているだけで、会議室の一角だけがハイブランドの広告のようだった。
私はその光景を直視できず、手元のペンを握りしめる。
昨夜の「忘れる宣言」が、早くも粉々に砕け散っていく音が聞こえた。
「では、本日のキックオフはここまでにしましょう。皆様、お疲れ様でしたわ」
麗奈さんの美しい手の一振りで、会議は解散となった。
他部署のメンバーが、目を合わせないようにしてそそくさと会議室を出ていく。
その様子を見て、私は違和感を覚えた。
みんな、麗奈さんに対して「敬意」を払っているというより、まるで「触れてはいけない爆発物」を見るかのように、腫れ物を扱うような態度なのだ。
「二条さん、お疲れ様。俺、この後すぐ外回りだから失礼するね。美奈、資料の共有よろしく!」
湊斗もまた、爽やかに手を振って部屋を出て行ってしまった。
気づけば、広い会議室には私と麗奈さんの二人きり。
気まずさに耐えかねて、私も急いでパソコンを片付けようとした、その時だった。
「──浅田さん」
背後から声をかけられ、私の肩がビクッと跳ねる。
「はいっ! 何でしょうか、二条さん!」
「そんなに怯えないでください。取って食べたりしませんわ」
麗奈さんはふう、と小さくため息をつくと、先ほどまでの完璧な姿勢を少しだけ崩し、椅子の背もたれに体を預けた。
配置された縦ロールの毛先を細い指先で弄びながら、ぽつりと言った。
「……皆様、私の前だとあんな風に、一刻も早く逃げ出したいという顔をなさるのね」
「えっ……」
「父が社長だからでしょうか。それとも、私の話し方が高圧的かしら。アメリカでは、これくらい自己主張をしないと存在すら認めてもらえなかったのだけれど……この会社では、私はどうやら完全に『浮いた存在』のようですわ」
自嘲気味に微笑む彼女の瞳には、隠しきれない寂しさが滲んでいた。
圧倒的なオーラ。完璧なスペック。誰しもが羨む社長令嬢。
だけど、その完璧すぎる壁が、彼女から「普通の人間関係」を遠ざけている。
社内で誰も本音を話してくれない孤独。
それが、今の二条麗奈のリアルだった。
「二条さん……」
声をかけようとした私に、麗奈さんはハッと我に返ったように再び背筋を伸ばし、いつもの完璧な仮面を装着した。
「失礼、忘れてください。……ただ、これだけは本当ですの。湊斗さんがいつも、私とのデートの最中でさえ『美奈ならこう言う』『美奈の企画が』と、あなたの話ばかりなさるの。だから私、あなたのことにとても興味がありましたのよ」
「……え?」
「それでは、今後のプロジェクト、よろしくお願いいたしますわね」
麗奈さんは気品溢れる足取りで、カツカツとヒールを響かせて会議室を出て行った。
一人残された私は、呆然と立ち尽くしていた。
湊斗が、デート中に私の話をしていた……?
それは嬉しがるべきことなのか。
それとも、それほどまでに私が「異性として意識されていない安全牌」であることの証明なのか。
(……どっちにしても、心が持たないってば)
そして何より──。
完璧超人だと思っていた二条麗奈が、実は誰よりも孤独を抱えているかもしれないという事実に、私の胸は奇妙なざわつきを覚えるのだった。




