第20章:銀座フレンチの背伸び
第20章:銀座フレンチの背伸び
交際一ヶ月記念日の土曜日。
私は、銀座にある高級フレンチレストランの、眩いばかりのシャンデリアの下で完全に硬直していた。
「……美奈、そのドレス、すごく似合ってるよ」
「あ、ありがと……。坂井くんも、その……すごく格好いい、と思う」
対面に座る湊斗は、いつも会社で着ているリクルート上がりのスーツとは一線を画す、仕立てのいいシックなダークスーツを身にまとっていた。
さらに、ワイシャツの襟元には気品のあるネクタイではなく、上品な艶を放つネイビーのアスコットタイを締めている。
少し大人の色気と余裕を醸し出そうと背伸びした彼の姿に、私の心臓はさっきから変なリズムで跳ね続けていた。
付き合って一ヶ月。
「戦友時代には絶対に選ばなかった、恋人らしい特別なことをしよう」と、湊斗が意気込んで予約してくれたのが、この老舗グランメゾンだった。
しかし、現実は非情である。
(……う、動けない……!)
ふかふかの絨毯。静謐な空間に響く、クラシックの生演奏。
テーブルの上にずらりと並んだ、どれから使えばいいのか分からない銀のフォークとナイフ。
そして、私たちの微かな一挙手一投足を、鋭い審判のような目で見守るギャルソンの視線。
すべてが、新橋のガード下の焼き鳥屋や東陽町の汚部屋で愛を育んできた私たちには、あまりにも分不相応だった。
「……こちらの前菜は、ブルゴーニュ産のエスカルゴをハーブバターで……」
ギャルソンの流暢な説明に、私は引きつった笑みで、
「はぁ」
と頷く。
フォークを持つ手が緊張でプルプルと震える。
いつもなら、「ねえ湊斗、これ何て肉?」「知るかよ、とりあえず食えよ」と秒で終わる会話が、この空間では完全に目詰まりを起こしていた。
湊斗も格好をつけようとして終始背筋を伸ばし、聞いたこともないような上品な敬語で話そうとするものだから、余計に空回って会話が全く弾まない。
運ばれてくる繊細な料理は、間違いなく絶品のはずだった。
けれど、緊張のあまり砂を噛んでいるようで、全く味がしない。
「……美奈、メイン、美味しい?」
「ええ、とても。坂井くんの鴨肉も、美味しそうね」
よそよそしい。他人行儀にも程がある。
お互いに「恋人らしい、お洒落なディナー」を演じようと無理をしている空気に耐えかねて、デザートが下がる頃には、二人の精神的HPは完全にゼロになっていた。
高級な会計を済ませ、逃げるように店を出る。
銀座のきらびやかな夜風に当たった瞬間、二人同時に、
「ぷはっ!」
と、深く溜め込んでいた息を吐き出した。
◇
「……窒息するかと思った」
湊斗が真っ先にアスコットタイの結び目をゆるめ、がっくりと肩を落とす。
「私も……。緊張しすぎて、胃が捻転を起こすかと思ったわよ」
ドレスアップした格好のまま、私たちは銀座の交差点で顔を見合わせた。
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そして、どちらからともなく、お腹が、
ぐう、と。
情けない音を立てる。
「……なんか、お腹空かない?」
「うん。味、全然分かんなかった」
湊斗は苦笑すると有楽町の方へ歩き始めた。
間もなくすると懐かしいファミレスの看板が目に入った。
二人、目を合わせると、そのままファミレスへと滑り込んだ。
◇
チープなプラスチックのテーブル。
明るすぎる蛍光灯。
注文ボタンの機械音。
「──お待たせしました、山盛りポテトフライと、ドリンクバーです」
店員が置いていった、何の変哲もない、油の匂いが漂うポテト。
それを見た瞬間、私と湊斗は、同時に破顔して大爆笑してしまった。
「アハハハハ! もう何よこれ! 完全にドレスコード違反してるじゃない!」
「いや、しょうがないだろ! 端から見たら披露宴の帰りにしか見えないって。でもマジで緊張したんだって! 美奈が綺麗すぎるし、ギャルソンの目は怖いし、アスコットタイは苦しいし!」
湊斗はアスコットタイを完全に外してポケットに突っ込むと、揚げたてのポテトをマヨネーズにドップリ浸けて口に放り込んだ。
「うまっ……! マジで五臓六腑に染み渡るわ。やっぱり俺たちは、こっちだな」
「本当ね。フレンチの鴨肉より、ファミレスのポテトの方が一千倍美味しいわ」
私もメロンソーダをストローでズズッとすすりながら、いつものテンポで笑う。
張り詰めていた肩の力が完全に抜け、胸の奥がぽかぽかと温かくなっていく。
銀座の高級店でスマートにエスコートしてくれる恋人も、確かに素敵かもしれない。
だけど、私たちが七年間かけて積み上げてきたものは、そんな借り物の高級感なんかじゃなかった。
ドリンクバーで何杯もおかわりして、ファミレスでポテトを奪い合う。
そんな飾らない、泥臭い日常の地続きにしか、私たちの本当の幸福はないのだ。
「美奈」
湊斗が、ポテトを食べる手を止めて、私をじっと見つめてきた。
ファミレスの安い照明の下。
だけど、その瞳は銀座のシャンデリアよりも、ずっと甘く優しく煌めいていた。
「背伸びして、カッコ悪いところ見せてごめん。でも、俺、お前とこうして笑ってられる時間が、やっぱり一番幸せだわ」
「……知ってる。私も、あんたのダサいアスコットタイ姿、一生忘れないから」
「ダサいって言うなよ! これでも必死に選んだんだからな!」
また小競り合いが始まる。
けれど、テーブルの下。
お互いの靴が軽く触れ合う距離で、私たちはそっと、誰にも見えないように指を絡め合った。
背伸びをしない、私たちだけの恋人の形。
有楽町のファミレスという、最高に居心地のいい原点で、私たちの絆はさらに強固なものへとアップデートされていくのだった。




