神門臣のお願い
神門臣の手が俺の髪の毛に伸び、びっくりした俺は思わず身を引いた。
「動かないで」
神門臣の声に金縛りにあったように動きを止める。
神門臣の身体が近づいてくる。細い指が俺の髪に触れる。途端に、髪の毛の先までどきどきしだした。髪の毛にも血管って通っていたんだっけ?
摘みたての花のような甘い香りに包まれ、頭の中が真っ白になり昇天した。
「髪に何かついてたから」
「え」
昇天した魂が急に身体に戻ってきた。
「香月くん、ちょっとお願いがあるの」
つやつやした肉感的な唇が動く。
ああ頭の中がマシュマロにでもなってしまったようだ。唇をちゅっとすればキスできそうなほど、こんな至近距離に神門臣がいるなんて! まるで夢の中にいるようで、ふわふわしていて実感がない。しかし次の一言で、いっぺんに目が覚めた。
「わたし、お手洗いに行くから、先に行っててくれる?」
「えっ?」
「お手洗いに行きたくて……だからお願い」
「でもトイレってゴールまでないんじゃなかったっけ」
「あそこ」
細い指のさした先、そこには朽ちた家があった。
凝ったデザインの家で、それがかつては豪邸だったことがうかがえる。神門臣を意識していたから、気にも留めていなかったけど、そう言えば、さっきから道のあちこちに古びた豪邸が建っている。
恐らく、かつてこのあたりは別荘地として栄えていたのだろう。この一帯に人が住んでいる気配がないから、不気味を通り越して、どっかの異世界感満載だ。神門臣がその異世界感満載の家の1つにむかって歩き出した。
「神門臣、待って、どこに行くの?」
「お手洗い。だから香月くんは先に行ってて」
「まっ、まさかあの家でお手洗いを借りるって言うのか」
「ええ」
意外と大胆な答えに眩暈を起こしそうになった。
「止めた方がいい」
「どうして?」
神門臣は立ち止まると俺を見た。
その目は、疑うことを知らない子どものように黒々としている。
「だって、どう見ても人が住んでいない家だよ。住んでいたとしても、知らない人の家にいきなり行くなんて危険だよ」
神門臣がちょっとびっくりしたような顔をした。
「そう?」
「そうだよ。お手洗いならゴールまで、いやそれは遠いいから。こっからならスタート地点まで引き返した方がいいよ」
「……そうね。わたしはスタート地点まで引き返すわ」
「俺も一緒に行くよ」
「いえ、香月くんは先に行ってて。その……一緒にお手洗いに行くの、恥ずかしいから」
神門臣の頬がぱっと赤くなった。それが妙な色っぽさで、俺は思わずドキッとした。変な想像をしそうになって、もげそうなほど頭を振る。
「ゆ、ゆっくり歩いているから、すぐに引き返して来いよ」
「うん」
☆☆☆☆☆
神門臣と別れ、少しずつ歩きはじめた。のろのろ歩いていると、どんどん別の班に抜かされていく。
「迷子かよ」と笑う奴らばかりで、本当に嫌になる。
ふいに冷たい空気が吹きつけてきた。雲が垂れ下がってきている。今にも降り出しそうだ。右手の方に湖が見えてきた。天気のせいか、湖面は鉛のような色に見える。事前学習で見た写真では湖の色は青や緑色だったのに……
神門臣はまだだろうか。振り返ると、誰もいなくなっていた。他の班の連中もいない。まさか全部の班に抜かされたってこと? なのに神門臣がまだ戻ってこない!
でも待て、落ち着け俺。スタート地点まで戻って、ここまで歩いて来るわけだから時間がかからないはずがない。ちょっとくらい時間がかかろうとも、知らない廃墟の家にトイレを借りるよりましだ。車止めの柵を越えて歩行者用の道に入ろうとした時だった。
「おう博美くん、何やってんだそんなとこで」
甲斐の声に驚いて振り返った。
甲斐と透子が歩いてくるところだった。甲斐は相変わらずニヤついているけど、透子にはいつもの明るさがない。なんだか甲斐に対して少しだけ距離をとり、顔を強張らせているような感じがする。気のせいか?
「それで何で博美くんは一人でいるんだ?」
甲斐がきょろきょろしながら言った。すると透子が皮肉気にふっと笑った。
「さては神門臣さんに置いてかれたな」
「違うよ、俺は神門臣を待って……そう言えば途中で神門臣に会わなかった?」
甲斐と透子が顔を見合わせた。
「見てない。というか俺達、先生に急かされながら最後にスタート地点を出てきたし、ここまで来るのに誰にも会ってない」
なんで引き返した神門臣と会ってないんだ? ここまでは一本道なんだ。絶対途中ですれ違うはずなのに……
突然、頭の中で警報が鳴りだした。神門臣は豪邸のお手洗いを借りようとしていた。やめた方がいいと言った時の神門臣の不思議そうな表情――。
「香月くんは先に行ってて。その……一緒にお手洗いに行くの、恥ずかしいから」
一緒に行きたがらなかったのは恥ずかしいからじゃなくて、最初っから引き返すつもりがなかったとしたら……
そう思った時には既に駆け出していた。




