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ドリィ  作者: 萩尾さく
第三章 生か死か
8/22

3-2

 収穫祭当日。リリは夜明け前に起床した。

 まだ日の射さない家の中、いつもと同じように顔を洗い、身支度をする。両親はもうすでに起きていた。いや違う、寝ていなかったのだろう。赤く充血した目を見れば分かる。

「おはよう」

 母の口から出た、いつもより力のない挨拶。リリも同じような挨拶を返した。父はむっつりと黙ったまま、リリから目を背けていた。

 母の目は充血しているだけでなく、瞼がはれ上がっていた。一晩中、泣き続けたのだろう。父の顔は真っ赤だ。こちらはずっと飲み明かしたに違いない。父の酒量がここのところ増えていたことに、リリは気づいていた。

 リリは挨拶をしたきり、何も話そうとしない両親から離れて、家の中をゆっくりと見て回った。

 自分の部屋、両親の部屋、台所、水場、物置、鶏小屋……。リリが生まれてからずっと、慣れ親しんだ場所。リリが帰るべきだった場所。

 もうこの家ともお別れだ。もう二度とこの家の中で眠りにつくことはない。母と一緒に家事をすることもないし、父と一緒に畑仕事をすることもない。もう、「ただいま」と言って、この家に入ることは出来ないのだ。

 当たり前のことだったのに。この家で生活することは当たり前のことだったのに。その当たり前のことが、今日を境にもう出来なくなってしまう。

 リリが、どちらを選択したとしても――。

 リリは庭先の一角でしゃがみこんだ。そこにはリリがずっと手入れを続けてきていた花壇があった。そこには今、鮮やかな秋桜がゆるやかな風に揺れている。

 昨日、家に閉じこもったまま、ずっと考えていた。イデに示された二つの選択肢のうち、どちらを選ぶのか。

 答えはまだ出ていない。

 死にたくはない。でも、皆を裏切ることもしたくない。

 どっちつかずのまま、時間だけがただ過ぎて行き、とうとう収穫祭当日になってしまった。あと数分もすれば、この家を出て、村長の家へと行く。そこで様々な準備をして、昼前には生贄の儀式が行われる森の中の祠まで赴くことになる。

 イデとセージが乱入してくるとすれば、祠での生贄の儀式を行っているときだろう。その時まで、あと数時間。それまでに、リリははっきりとした答えを出さなければならない。

「リリ」

 背後からリリを呼ぶ声がする。母の声だ。もう、村長の家へ行く時間なのだろうか。

「リリ」

 さっきより声が近くなる。母はリリのすぐ後ろに立った。振り向いて見たわけではないが、気配で分かる。

「母さん」

 リリは秋桜から目を離さずに、後ろの母へと呼びかけた。

「何?」

「わたし、死にたくないよ」

 思わず漏れてしまった本音。でもそう言う声に、感情はこもっていない。ただ、淡々と自らの心根を口にしてみただけだ。

「……母さんも、リリに死んで欲しくないよ」

 母の声も、リリに負けず劣らず淡々としていた。もう吐き出せるだけの感情は、すべて吐き出してしまったのだろう。

「ずっと、あんたを見てると痛ましくてしょうがなかった。別に病気でも何でもないのに、十五までしか生きられない。あんたが健やかに育てば育つほど、痛ましくて……、申し訳なくて……、しょうがなかったんだよ――」

「分かってたよ」

 母が、ずっと自分に気を使っていたことは。短い間しか生きられないことが決まっていたから、その短い生を充分に楽しめるように。ささやかではあるけれど、幸せであるように。

 ずっとずっと、母は微笑んでいた。

 母が泣いたところなんて、見たことがなかった。母はいつも大らかで、優しくて、にこにこと笑っていた。

 その母が初めてリリの前で泣いたのは、ほんの数週間ほど前のこと。収穫祭まであと少し、リリの命の期限がせまり、今まで押さえてきた母の感情は爆発してしまった。

 その日から今日まで、母はずっと泣いて過ごしていた。

 食事の支度をしては泣き、洗濯をしては泣き、掃除をしては泣き、農作業をしては泣き。それ以外の時は部屋にこもって泣いていた。

 それでも、母は出来るだけリリの前では涙を流さぬようにしていた。食事のときなどは、わざと明るくふるまったり、泣いていた時の反動からか躁状態になっていた。リリはその明るさがもたらす気まずさに、居たたまれなくなっていたが。

「もう、行こうか」

 リリはそう言って立ち上がった。リリがそう言いださなければ、母は決して「行こう」とは言わないだろう。

 父は見送りに出てこなかった。もう、リリの顔を見るのも辛いのかもしれない。

 リリは、村長の家までの道のりを、ずいぶんと久しぶりに母と手を繋いで歩いた。




 母とは、村長の家の前で別れた。これ以降、生贄は家族と話すことを禁じられている。これもしきたりだ。だいぶ前、リリがまだ生まれる前、支度をしている最中に家族が生贄の少女を逃がそうとしたことがあったらしく、それからというものの、家族は生贄の支度や儀式に関わってはいけないというしきたりが出来たのだそうだ。

 村長の家の前、母はなかなか繋いだ手を離そうとはしなかった。反対にぎゅう、とリリの手を握りしめ、その身を震わせていた。どれくらい、そうしていただろうか。リリの支度をするために集まった近所の女衆が、なかなか現れないリリを心配して様子を見に来るまで、ずっと母はリリの手を離さなかった。

「もう行かなくちゃ」

「……そうだね」

 これが母とリリとの最後の会話であった。そっけない別れだなと、リリは自嘲する。でもそれで良かったのかもしれない。口を開けば、出てくるのは思い出話ばかりになってしまうだろう。思い出話は、すればするほど辛くなるだけだ。

 リリが村長の家の中に入るまで、母はずっとリリを見続けていた。きっと、リリの姿が家の中に消えてしまっても、母は村長宅の門前に立ち尽くしているのだろうと思う。

 村長の家には、儀式に関わる者たちが勢ぞろいしていた。居間には男衆がたむろして、雑談に花を咲かせている。男衆は儀式が行われる森の祠まで、リリが乗った輿を担いでいく者たちだ。大体が二十代から三十代の男たちで構成されている。リリはその男衆に挨拶をするために、まずは居間へと赴いた。

 リリが居間へと入ると、つい今しがたまでざわざわとしていた男衆は、ぴたりとその口を閉ざした。皆、憐憫の目でリリを見ている。リリが、

「今日はよろしくお願いします」

 と頭を下げると、男衆も皆、肩をすくめるようにして頭を下げた。リリに声をかけてくる者はいない。これから死に逝く娘に、なんと声をかけていいのかが分からないのだろう。

 挨拶を済ませ、踵を返そうとしたリリは、居間の隅の方に、見慣れない者たちがいることに気づいた。人数は……、五人。この村の者でないことは、ひと目見ただけで分かった。五人のうち四人が、オーダーの鎧を身に着けていたからだ。残りの一人は深紅のマントを身につけている。

 深紅のマント。それは紅の十三使徒であることの証。

 その紅いマントの人物には見覚えがあった。あの眼球のないマグス、タクリ・キサイスの処刑の際にいた男だ。確か名はシン・トゥール。あの時逃亡した青い目のドリィがそう口にしていた。たった一度耳にしただけだが、あの時のことは鮮明に覚えている。

 シン・トゥールと目が合った。彼はリリに笑いかけてきた。ニヤリとした、いやらしい笑いだ。リリは気分が悪くなって、急いで居間を出ようとする。

 そこでリリとは反対に居間へと入ろうとしていた人物とぶつかってしまった。急いでいたから避ける間もなく、バフッというくぐもった音を立ててぶつかり、リリはよろける。ぶつかった相手がすかさず手を差し伸べてきた。リリはとっさにその手につかまり、尻餅をつくことから逃れられた。

「大丈夫?」

 ぶつかった相手が声をかけてくる。女の声だ。見上げるとそこにいたのはやはり女。背の高い、薄茶色の髪を短くした女。化粧気はないが、唇だけがやけに赤く見えた。

 赤いのは唇だけではなかった。彼女が身にまとっているマント、それまでもが赤い。

 リリは思わず居間の片隅にいるシン・トゥールを見た。彼女のマントと彼のマントは同じものだ。ということは彼女も紅の十三使徒だということか。

「あなたが今日のヒロインね? リリ……と言ったかしら」

 紅の十三使徒の女がそう問いかけてきた。にっこりとした笑みをつけて。

「は、はい……」

 その笑みがあまりに魅力的だったので、リリは半ば呆けているように返事をした。同じ紅の十三使徒でも居間の片隅にいる男とは違い、気味の悪さは微塵も感じられない。

「私は今日あなたの警護をさせてもらう者よ。ミゼルというの、よろしくね」

 そう言うと女は――ミゼルは、リリの手を両手で柔らかく包んだ。握手、のつもりなのだろうが、それにしては大仰な仕草であるように思えた。

「今日は安心してね。私たちがいるから何も心配はいらないわ」

 ミゼルはリリの手を解放すると、肩にたてかけるようにして抱えていた己の武器を持ち直した。

 居間の片隅にいるオーダーたちは決まりきったように剣を携えている。シン・トゥールの持つ剣は、片刃の珍しいものではあったが、それでも剣であることは変わりない。それに比べ、彼女の武器はずいぶんと変わった形状をしていた。一見すると槍のように見える。だが先端についているのは、錐を大きくしたような、先端のとがった金属であった。刃はついていない。あれでは突くことは出来ても切りつけることは出来ないであろう。

 しばらくそうしてミゼルの姿を見ていたリリであったが、名を呼ぶ女衆の声に慌てて居間を出た。

 ミゼルと別れ、女衆の案内で向かったのは水場だった。そこで水をかぶり、身を清めるのだ。水は凍るように冷たく、体が芯まで冷えてしまうようであった。何度も何度も水をかぶり、それから丁寧に濡れた体を拭く。それからまた女衆に導かれて、とある一室へと行った。そこでリリは、生贄のために用意された衣装に着替えた。

 衣装は、真っ白なドレス。女衆がこの日のために作ったものだ。生贄は白いドレスを着る、というのもしきたりだった。五年前の収穫祭の時も、男衆がかつぐ輿に乗った生贄の少女は、今リリが身にまとっているものと似たような白いドレスを着ていた。

 顔には化粧を施し、髪にも丁寧に櫛を通して、白い花飾りをつける。

 鏡に映った自分が、自分でないような錯覚に陥った。化粧なんてしたのは、生まれて初めてのことだし、ドレスを着たのだって初めてだ。

 これでブーケでも持っていたら、まるで花嫁のようだ。

 支度を手伝ってくれている女衆の一人にそう言うと、彼女は「生贄は神様の花嫁なのよ」と教えてくれた。

 支度が済むと、出発までの数時間を、リリは一人で過ごす。もちろん、部屋の外には女衆が逃げ出さないように見張っているけれど。

(さて、どうする?)

 リリは己に問いかけた。もうこれで最後だ。この数時間で答えを出さなければ。

 でも、もうリリは半ば考えることを放棄していた。

 家から持ってきたナキル手作りの人形。それをそっと手にとリ、じっと眺める。

 ナキル、父さん、母さん――。

(わたしは……、やっぱりあなたたちが大好きです)

 死にたくはない。それは本当だ。

 しかし、なんだかんだとここまで来てしまった。生を選ぶなら、もうとっくに選んでいてもいいだろう。それが出来ずにここまで来てしまったということは、やはりリリは生を選べないということなのではないのか。

 まだ時間はある。それまでもう少し考えてみようと思う。

 けれど、きっとリリは生を選べない。



 一人の時間は思いのほか早く過ぎ去った。日が高くなる前に、女衆がリリを呼びにやってきた。彼女たちにまた導かれ、今度は外へと出る。

 リリは何気なく村長宅の門の外を見やった。さすがにもう、母の姿はなかった。

 外には木材を組んで作ってある輿が用意されている。それを担ぐ男衆も、もう準備万端整っているようだ。

 村長が進み出てきて、リリに何かを言う。それは別れの言葉だったのかもしれないし、哀れみの言葉だったのかもしれないし、謝罪の言葉だったのかもしれない。リリはあまりよく聞いていなかったから分からなかった。

 村長の話が終わると、リリは輿へと乗った。男たちが「せーの」と声を掛け合い、一気に持ち上げる。リリの視線が、この場に居る誰よりも高くなった。

 これからリリを乗せた輿は、村の大通りを練り歩く予定だ。別に森の祠へ行くためには大通りを通る必要はない。それでもわざわざ遠回りをして大通りへ行くのは、村人へ生贄をお披露目するためだ。

 あの、タクリ・キサイスの処刑の時と同じように、村人は大通りの沿道に集っていることだろう。そして、やはりタクリ・キサイスと同じように、リリは集まった村人たちの目にさらされることとなる。

 イデの言う通りだ。あの時の処刑と何も変わらない。

 村長と村の重鎮たちを先頭に、リリの乗った輿はゆっくりと進んでいく。輿の後には、女衆が続く。輿の横には、リリの警護のためオーダーの面々が。そして右にはシン・トゥール、左側にはミゼルの両十三使徒がついて歩いていた。

 大通りの東端へ差し掛かる。大通りに入ると、行列の歩みはさらに遅くなった。ゆっくり、ゆっくり、苛立たしくなるくらいにゆっくりと行列は行く。

 沿道の人々は、リリの姿を認めると、低く歌い始めた。それは生贄のお披露目の時にだけ歌われる鎮魂歌であった。生贄に捧げる鎮魂歌。まだ死んでいないうちから、生贄の魂を鎮めようとしている。おかしな話だと思う。

 沿道の人々を見回すと、ナキルの姿が目に入った。彼女も口をぱくぱくさせて歌っている。リリは約束通りに、ナキルの人形を持ってきた。その人形を持った手を、ナキルへと向け振る。それを見たナキルは、大きく顔を歪ませた。ナキルがいた場所から、少し進んだところに両親の姿を見つけた。母は輿の上のリリを見ることすら出来ず、顔を両手で覆って泣いていた。母のわななく声が、鎮魂歌に乗って聞こえてくる。父はそんな母の肩を抱き、母を気遣っているようだった。その父の頬も、涙でぐちゃぐちゃになっていた。

 さようなら。みんな、さようなら――。

 リリは心の中で、静かに別れを告げた。

 育ててくれた両親に、心を通わせた友に、世話になった村のみんなに。

 こうして誰よりも高い場所から村の皆を見渡して、ようやくリリの心は決まった。

 イデ、やっぱりわたしは貴方と一緒には行けない。わたしは、死を選びます。

 イデは言っていた。神が存在しないとか、生贄は無駄だとか。

 それでも、リリは思う。生贄はまったくの無駄ではないと。リリはイデの話をすべて理解したわけではない。けれどもし彼の言う通り、神がいないのだとしても、生贄は村の皆を安心させることが出来る。

 だから、無駄ではない。

 リリは、生まれ育ったこの村が好きだ。この村の人々が好きだった。

 大好きな村の人々のためにリリは死ぬのだ。ただ無為に死ぬよりはいい。

 リリの死は、意味のある死だ。




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