幕間-1
森の中を一人の女が歩いている。
フラフラと、足取りはおぼつかない。
女の顔には表情がなかった。ただ前方を見据え、ゆっくりとゆっくりと定まらない足を進めている。
森は規模の小さなものであったが、それでも鬱蒼とした木々により日光は遮られ、昼間だと言うのに薄暗い。
女は人間ではなかった。
人の手によって作られた人形、ドリィである。名をインビジブルといった。
インビジブルは、ふと足を止めた。別に足を止めたことに理由はない。同じように、歩いていたことにも理由はなかった。インビジブルにはもう何もすることがないのだ。ただ、こうやって無駄に体を動かすことしか。
数日前に彼女の主人であったタクリは死んだ。彼と同じ種族であるはずの人間によって処刑されたのだ。そしてインビジブルは彼の最期の命令により、その場から逃げた。それから彼の言う通りにマスター登録を抹消。今の彼女には主人がおらず、また彼女は主人の命令なしでは何も出来ない未熟なドリィであった。
つまり彼女は、どうしたらいいのかが分からないのである。
タクリは断頭台に頭を固定されながら、「自由になれ」とインビジブルに言った。けれど、インビジブルは「自由」というものがどういうものなのかも分からなかった。タクリはその言葉の意味を教えてはくれなかった。意味を説明するように要求したかったが、もうタクリは死んでしまった。
「死」というものがどういうものなのかは分かる。「死」とは、もうこの世界のどこにもいないということだ。だからもう、「自由」の意味を教えてもらうためにタクリを探しても無駄なのだ。
インビジブルは再び足を動かし始める。右、左、右、左。
このまま進んだ先に何があるのか、インビジブルは知らない。知ろうとも思わない。ただ、歩くという行為がどういうことなのか、それを確かめてでもいるかのように、ゆっくりと足を交互に動かした。
やがて、インビジブルは森の中の開けた場所に出た。そこだけには木が生えておらず、丈の短い雑草がちらほらと確認できるだけだ。その開けた場所のほぼ中央に、石で出来た祠がある。それがなんなのか、何故このような場所にあるのか、もちろんインビジブルの知るところではなかった。
インビジブルは石の祠に近づいてみる。この行動にも意味はない。
祠のすぐそばまで近づくと、ぐるりと周りを一回周ってみる。
祠は岩の内部をくり抜いて作ってあるようだ。大きさは思いのほか大きい。内部は、大の大人が十人ほど寝そべることができるくらいの広さがあると、インビジブルは判断した。
それから祠の入り口であると思われる、やはり石で出来た扉の前に立つ。扉と言っても、祠の入り口に別の岩を置いて、蓋をしてあるだけのものだ。重さは相当あるだろう。力のある若い男が数人がかりでようやく動かせるぐらいであろうと、インビジブルは見当をつけた。
しかしその石の扉も、ドリィであるインビジブルにかかれば、普通の木の扉となんら変わることはない。インビジブルは石の扉に手をかけて、それをズルズルと動かした。そうたくさん動かす必要はない。人ひとりが中へ入ることが出来るくらいの隙間があればいい。
インビジブルはその隙間から、祠の中へと侵入した。
中は暗い。光源がまったくない。光はたった今、インビジブルがずらした石の扉から差し込むものだけ。それも森の木々にさえぎられ、ほんのわずかなものに過ぎない。石の扉のすぐ内側に立ったインビジブルには、祠の奥を見通すことが出来なかった。
暗闇に包まれた祠の奥からは、ひんやりとした空気と共に異臭が漂ってくる。インビジブルはその異臭がなんなのか、それを確認するために祠の奥へと踏み込んだ。
暗い。何も見えない。
異臭ばかりが鼻をつく。その悪臭は一歩一歩奥へと踏み進むたびに強くなっていった。
カロン……。
インビジブルの足が、何かを蹴飛ばした。立ち止まる。何を蹴飛ばしたのか見ようとするけれど、視界は闇に遮られている。
インビジブルはその場にしゃがみこみ、手を伸ばして蹴飛ばしてしまった何かを探す。左右に動かしていた手は数回空を切り、それから何かに触れた。掌でぴたぴたと叩いてみる。それから指先で押してみる。指は沈み込むことなく、それが柔らかいものではないということが確認された。
つかんでみる。そして引き寄せてみる。両手でその何かをまた触ってみるが、それが何なのか良く分からない。インビジブルは、その何かを手にしたまま、わずかでも光が差し込んでいる石の扉付近まで引き返した。
弱々しい光に、その何かをかざしてみる。そしてようやくそれが何なのかを理解した。
知識としては知っていたが、現物を見るのは初めてのことであった。
人が死ぬと、その体は死体となる。死体は時間が経つにつれ腐り、崩れていく。そして更に時間が経過すると人は肉を失い、骨だけを残す。
インビジブルが手にした何か。それは人の頭蓋骨であった。
インビジブルは特に驚くでもなく、ただ手に持った頭蓋骨を眺めた。気持ち悪いとかそういった感情は、彼女の中にはない。彼女はそれが死体のなれの果てであることを改めて理解していた。
頭蓋骨、骨、死体。
……タクリも、いずれこうなってしまうのだろうか。
考えるまでもなく、そうなるのだろう。タクリは死んでしまった。死体になってしまった。
「タクリ……」
思わず呟いていた。タクリが死んでしまってから、一度もその名を口にしてはいなかった。口にしたところで返事があるわけでもない。死人の名を口にすることほど無駄な行為はないとインビジブルは思っていたからだ。
しかし、知らず知らず名を呼んでいた。
どうしてだろうか。インビジブルは考える。しかしその答えは見えてこない。インビジブルはペタリとその場に座り込んだ。
彼女は混乱していた。彼女の中に、予想外のものが生まれつつあったからだ。
彼女は知らなかった。人の感情というものを。だから、己の中にそれが生まれたとき、どうしていいのか分からなかったのだ。
感情。それはドリィであるインビジブルには生まれるはずのないもの。だからそれは理解しなくてもいいものであったはずなのだ。
けれど、今確実にインビジブルには感情が生まれていた。
彼女はタクリを失った。そしてどうしたらいいのか途方にくれていたのだ。
……そう、インビジブルは、「淋しかった」のだ。




