2-3
翌朝、リリはいつもより早く起床した。東の空がうっすらと明るんできているが、父も母もまだ起きてきていない。
リリは急いで身支度をすませると、台所へ行って卓の上に置いてあるカゴからパンをいくつか取り出した。それから干し肉をあぶり、鶏小屋から卵を失敬すると、その卵でオムレツを作った。それらをパンに挟んでバスケットに詰め込むと、両親が起き出してくる前に、家を抜け出す。
目指す先はもちろん秘密のお家である。南の森へ入り、獣道を抜け、段差を飛び降り、蔓のトンネルを通って行く。
あともう少しで到着するというところで、秘密のお家から話し声が聞こえてきた。もちろんあの二人の声である。何を話しているのかまでは判然としない。もう少し近づかなければ、聞き取ることが出来ないであろう。
しかしリリが近づく前に、
「誰だ!」
という叫びが飛んできた。その声の鋭さに、リリは体を震わせ、歩みを止める。誰何する声はイデのものだ。
リリは言葉を発することも出来ず、再び歩みだすことも出来ずにその場で止まったままだった。イデの声を聞いた瞬間、リリの心の中に暗雲が立ちこめ、リリから言葉と動きを奪い去ってしまったのだ。
イデの声は嫌い。心を惑わすから。
昨夜から、むくむくと育ちつつある迷いが、イデの声を肥料として、さらに成長していく。
駄目だ。このまま、回れ右をして引き返してしまおうか。
リリが本気でそう考えたとき、大柄な男――セージが蔓のトンネルを覗き込んできた。
「ああ、何だ君か」
にこり、と笑う。それを見ると、リリの中に張り詰めたものが、緩んでいくような気がする。
「お、おはよう」
何とか声を絞り出した。
「おはよう」
セージの声は、イデとは違う。どこまでも温和で安心出来る。リリはトンネルを抜け、秘密のお家へ入っていった。
「約束どおり、朝食持ってきたよ」
地面にバスケットを置いて、リリは腰を下ろす。意識してイデからは視線を外していた。
「わざわざすまないね。ありがとう」
セージはそう礼を言う。
リリはバスケットを開けた。中には二人分のサンドウィッチ。
「はい、どうぞ」
バスケットをセージへと差し出す。けれど、セージはどこか困ったような笑みを浮かべた。
「悪いけど、俺はいらない」
「どうして?」
そういえば昨日、セージはあの酒場でも何も食べようとはしなかった。女将が無料でくれたスープにも手をつけようとしなかった。
昨夜、ここに置いていったマフィンを、セージは食べたのだろうか。
「セージは何も食わない。食えないんだ」
イデの声。リリはびくりと身をすくませる。
「……く、食えないって?」
おそるおそるイデへと視線を向けてみた。彼はやっぱり険しい目で、リリをまっすぐ見ている。
「理由は言わなくても分かるだろ?」
イデはニヤリと口角を上げた。
「まさか、本当に……」
ひょっとしたら、とは思っていた。けれど、本当にそうだとは思いたくなかった。
マグスは体の一部が欠損している。……イデには右腕がない。
マグスのそばには必ずドリィがいる。……イデのそばにはセージがいる。
ドリィは人間ではなく人形だ。ゆえに食事を必要とはしない。……セージは何も食べない。
「ドリィ……なの?」
おそるおそる、セージを上目づかいで見る。セージはやっぱり困ったような笑顔で、浅く頷いた。
そうではないかと思ってはいた。けれど、同じくらい違うんじゃないかとも思っていた。
だって、セージは人形なんかには見えない。どこからどう見ても人間にしか見えない。一週間前に見た、あの青い目のドリィとはまるで違う。男性形、女性形という違いもあるが、それ以上に表情が違う。
青い目のドリィだって、人間と寸分違わぬ出来の人形であった。しかし、あのドリィには表情というものがまるでなかった。大通りを歩いているときも、断頭台がある舞台に上がったときも、タクリ・キサイスに命令を受けたときも、紅の十三使徒と対峙したときも、その表情はひとつも変わることがなかった。
なのに、セージはどうだ。こんなにも柔らかく笑う。それに優しいし、気づかいを忘れることもない。セージではなく、イデがドリィだと言った方がまだ信じられた。
「どうする? オーダーにでも突き出すか?」
イデが意地悪そうな声で聞いてきた。イデが喋るたびに、ざわりざわりとリリの心が波立つ。やはりイデのことは好きになれない。けれど――
リリが村の大人たちに、この二人のことを話せば、また村にオーダーや紅の十三使徒がやってくるのだろう。そうしたら、この二人はタクリ・キサイスと青い目のドリィのように捕まってしまうかもしれない。もし捕まってしまったなら、この二人は間違いなく処刑されてしまうことだろう。
処刑は……、やはり気持ちのいいものではない。
「ううん、言わない」
リリは首を横に振った。
その言葉を受けて、セージはほっとしたような表情を見せる。そして安堵を含ませた優しい声で、
「ありがとう」
と言った。
そう言うセージは、やっぱり人形には見えなかった。
結局、リリが持ってきたサンドウィッチは、半分をイデが食べ、もう半分をリリが食べた。急いで作ったからか、中のオムレツはパサパサしていて味も足りない。あんまり美味しく作れなかったな、と思い、イデが何か文句でも言ってくるのではないかとも思ったが、予想に反し、イデは何も言わなかった。
「ひとつ、聞きたいことがあるんだけど」
食事を終えると、セージがそう切りだした。
「収穫祭の生贄のことなんだけど……」
「生贄……?」
「そう、生贄になる子のことを教えて欲しいんだ」
そんなことを聞いてどうするのだろう。そういえば、この二人は収穫祭を目当てに、この村へやって来たと言っていた。収穫祭はあくまでも村内部のお祭りだ。あまり他所から見物にくる者はいない。それでもごく稀に見物にやって来る変わり者はいたし、この二人もそうなのかと思っていた。
「生贄になる奴に話がある」
イデがリリの戸惑いを読んだかのように言った。
「話って……?」
「それは生贄本人に話す」
ならば、リリには聞く権利がある。収穫祭の生贄は、リリ自身なのだから。
「わたしだよ……」
「あ?」
「生贄。わたしが生贄なんだ……」
二人が息を呑んだのが分かった。ドリィであるセージが呼吸をしているのかどうかは分からないけれど。
「……本当か?」
「嘘を言ったってしょうがないじゃない……」
「それもそうだ」
イデはひとつ、息をつく。そして目に剣呑な光を浮かべ、真剣な口調で問いかけてきた。
「じゃあ、生贄のお前に聞きたいことがある」
リリはごくりと喉を鳴らす。イデの姿を見たくないのに、彼の鋭い目から逃れられない。
そしてイデは、リリに問いを投げかけた。ごくごく単純な問いを。
「お前は、死にたいのか?」
リリは瞬きをすることも忘れてイデの瞳に見入った。
彼の問いはするりと耳に入ってきたが、その意味を解するまでに、やけに時間がかかった。考えることもないような、簡単な問いだというのに。
意味を理解しても、リリは口を開かなかった。
どう答えていいものか、それが分からなかったからだ。
どうしてそんなことを聞くのだろう。生贄に死ぬも生きるもない。生贄に選択肢はひとつしかないのだ。死ぬ、という選択肢しか……。
「おい、聞こえてんのか?」
固まったまま動かないリリに、しびれを切らしたのか、イデが眉をひそめてそう言った。その声に、リリはようやっと我に返る。
「……どうして、そんなこと……聞くの?」
「質問してんのはこっちだ。答えろ」
やたらと偉そうなイデの物言いに、腹を立てることも忘れていた。リリの頭の中には、さきほどの問いが繰り返し繰り返し響いていた。
死にたいのか? 死にたいのか? 死にたいのか? 死にたいのか?
自分は、死にたいのだろうか?
一向に答えようとしないリリに、イデは舌打ちをする。それから言葉を続けた。
「昨日、俺が言ったこと覚えてるか? 生贄は無意味だと言ったこと」
忘れるわけがない。その言葉のせいで、リリは大きく揺さぶられたのだから。
「お前は、その無意味な死を受け入れることが出来るのかって聞いてんだ」
「むい、無意味じゃ……ない」
ようやく出た言葉は、吐息と変わらないほどに小さかった。
「だって、村に災厄が起こらないように、そのために生贄は死んでいくんだもの。村を守るためよ……」
それを聞いたイデは、リリを馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「村に災厄が起こらないように? 本気でそんなこと信じてやがるのか? 生贄を出そうが出さまいが、災厄ってのは起きる時は起きるし、起きない時は起きない。そういうもんだ」
「そんな……。生贄を出さなければ、神は怒り狂ってしまうわ。そうなったら……」
「神! へぇ~、じゃあお前は神のご機嫌を取るために死んでいくわけだな?」
ご機嫌を取るために。イデの言葉は悪いが、確かにその通りだ。
「馬鹿じゃねぇのか、お前。神なんて見たこともないようなもののために死ぬのか」
「そ、そうよ。だってそうしないと……」
「そうしないと、村に災厄が起きるってか」
イデは軽蔑するかのような目付きでリリを見た。
「いいか、神ってのは心の弱い奴が信じるものだ。神なんて存在しない。もし神に例えられるものがあるとすれば、それは自然だ。村に災害を及ぼすのは神じゃない。自然だ。地震も、嵐も、山が爆発するのも、川が氾濫するのも、神のせいじゃない。ただの自然現象だ。お前の村の奴らは、それらを神のせいにして心の均衡を保っているにすぎない。
例えば、村に地震が起きるとする。その地震によって家を失い、家族を失ったとしたらどうだ。悲しいだろう? それと同時に理不尽な怒りも覚えるはずだ。どうして自分がこんな目に合わなければならないのか、ってな。けれど、自然に対して怒鳴り散らしてみても、泣き喚いてみても、どうにもならない。怒りや悲しみの持って行き場がないわけだ。だから人ってのは神を作り出した。そこに神を持ち出して、『神の怒りに触れてしまったならば仕方がない』と己を誤魔化そうとする。そうしないとやってられないんだろう。
更に人はいつ訪れるか分からない災害を恐れるようになる。そして出てくるのが生贄だ。生贄を捧げることによって『生贄を差し出したのだから、大丈夫だ。災害が起きるわけがない』とむりやり安心するわけさ。
つまり、お前は村の奴らが安心するためだけに死ぬんだ。お前が死んだからって、災害が起こらなくなるわけじゃない。ただ、村人が一時的に安心するだけだ。
どうだ、無意味だろう?」
リリは呆然とイデの言葉を聞いていた。イデの言葉はやはり早口で難しい言葉が沢山出てくる。怒涛のように押し寄せるイデの声に、最後の方はわけがわからなくなっていた。
けれど、イデの言葉の中にあったある一節だけが、リリに衝撃を与えた。
『神なんて存在しない』
その部分だけが、頭の中に反響していた。頭の中を跳ね回っていた。
「神は……存在しない……?」
「そうだ。神は人が作り出したまやかし。神に生贄を捧げる行為は、人が生み出したくだらない風習にすぎない。だから俺たちは、そのくだらない風習をぶち壊すためにここへ来た」
「そんな……、それじゃあ……」
今まで、毎回神に捧げられていた少女たちは、何のために死んだというのか。……自分は、何のために死に逝くのか。
「でも……っ、今まで生贄のおかげで村には何の災害もなかったのよ。生贄は村を守っていたわ!」
必死になって言葉をかき集め、イデに向けてぶつける。しかしそれはいとも簡単に弾き返されてしまった。
「今まで村に災害が起こらなかったのは、運が良かっただけだ。俺とセージはこの国のあちらこちらを旅して回っていたから知ってる。生贄を捧げたのに災害に襲われた村や町なんていくらでもある。
この村の近くには氾濫して困るような大河はないし、爆発する山もない。だから他の土地より災害が起こる確立が低いだけだ。でもいつかは嵐が訪れるかもしれない。大地震が襲うかもしれない。その時は、生贄を何人捧げてようが関係ないんだ。
自然に意思はない。自然は生贄を望んでない。誰が死のうと、自然は喜びもしなければ、怒りもしない。お前は収穫祭の日、無駄に死んで逝くんだ」
「無駄……」
「そうだ。だから聞いている。『お前は死にたいのか』ってな。死にたいのなら、俺たちは止めはしない。勝手に死ねばいい。だが、死にたくないとお前が言うなら……」
イデは一度言葉を止める。そしてわざとらしいくらいに大きく息をついて、
「助けてやる」
と言った。
助かる――。助かるの? 死ななくてもいいの?
小さい頃に読んだ絵本では、お姫様の絶体絶命の危機には、必ず王子様が助けにくると決まっていた。リリも考えなかったわけではない。自分が生贄に捧げられる収穫祭の日、リリを助けに来てくれる人が現れるのではないかと。
でも、そんなことがあるわけがないということは分かっていた。お姫様を助ける王子様は、絵本の中にしか存在しない。自分はこのまま成長し、収穫祭を迎え、村のために死んでいく。それを受け入れていたはずだ。
なのにどうだ。
『助けてやる』
この一言に歓喜している自分がいる。
表面上はそう見えないかもしれない。リリはイデの話にまだぼうっとしていた。けれど、リリは救いの言葉に歓喜していたのだ。救いの手を差し伸べてきたのは、王子様ではなかったけれど。それでもリリには充分だった。
「わたし……、死ななくても、いいの?」
神が存在しないだの、自然がどうのこうの、そういった話はまだリリの中で整理がつかない。急に聞かされたところで、すぐに理解できるものでもない。
ただ、イデの「助けてやる」という言葉が、曇天から差し込む一条の光のように、リリの心に差し込んできた。
そしてようやくリリは分かったのだった。
やっぱり、わたしは死にたくない。生きていたい。
自らの根底にその思いが燻っていたことを。
「わたしは……、死にたく……ない」
リリの呟きを聞いて、イデは安堵したかのように表情を緩め、目を伏せた。しかしその顔はすぐにまた引き締められ、鋭い目はリリを射る。
「じゃあ、もうひとつ聞く。お前は生きたいか?」
「え……?」
リリは先程からずっと疑問符を浮かべてばかりだ。けれどそれは仕方がないことだ。イデの言葉はみんなリリの理解の範疇を超えていて、分かりづらいことこの上ない。
『生きたいか?』それはその前に聞いてきた『死にたいのか?』という問いとどう違うというのか。リリは答えたはずだ。
『死にたくない』と。
リリの疑問を察したのか、イデは言葉を続ける。
「いいか? この場合、『生きる』ってことは普通とは違う。ただ命を続けるってことじゃない。お前は生贄の儀式から逃げ出すんだ。それがどういうことか、分かるだろう?
お前はもうこの村では生きていけない。ここから出て行かなけりゃならないんだ。もう家族や友達とも会えなくなる。それだけじゃない。お前が逃げ出せば、お前の家族だってただじゃあ済まない。村からつま弾きにされるかもしれないし、もしかしたら村を追い出されてしまうかもしれない。
それでも、お前は生きていたいかと聞いてるんだ」
そうだ。昨夜、「もしも、わたしが『死にたくない』って言ったらどうする?」と言ったときの母の表情。母はリリが生贄を拒否することを望まないだろう。母だけじゃない、父もナキルも村の人たちすべてが望まないだろう。
逃げ出すということは、母や父や友達を裏切るということだ。
リリに信頼を寄せる者たちを裏切って、すべてを失って、それでも……自分は生きていたいと願うのだろうか。
「さあ、どうする? 与えられる死を甘んじて享受するのか。すべてを捨てても生にしがみつくのか」
――分からない。
死にたくはない。でも、皆を裏切るのは嫌。すべてを失ってしまうことも怖い。
リリは無意識のうちに頭を抱えていた。何をどうすればいいのか。頭の中がゴチャゴチャしてしまって、何も分からない。
リリは充分すぎるくらいに混乱していた。
そしてそんなリリを見かねたのか、セージが口を挟んできた。
「まあ、別に結論を急ぐことはないよ。時間はまだある。ゆっくり考えてごらん」
そう言ってリリの背中をポンと叩く。イデはまだ何かを言おうと口を開きかけたが、セージがそれを目で制していた。イデはそっぽを向いて、口を閉ざす。
それからリリは、セージに促されるまま、この場を辞した。「少し落ち着いて、それから考えてみるといい」と、蔓のトンネルの外まで見送ってくれたセージが言った。
セージはこうも言っていた。
「イデの奴、口は悪いけど、根はいい奴だから」
「そうかしら」
少しだけ反抗的になって、リリがそう返すと、セージは笑う。
「イデはね、罪もない人が犠牲になることをすごく嫌ってるんだ。だから、生贄とか、そういった話になると我を忘れるぐらいに熱くなっちゃうんだよ」
セージは笑っている。笑っているのに、その瞳はどこか悲嘆にくれている。本当にこの大柄で柔和な男はドリィなのだろうか。
「……イデにはね、双子のお姉さんがいたんだ」
わずかにためらうように口をつぐんでから、セージは話を切り出した。
「でも亡くなってしまった。六年前に。生贄として」
「生贄?」
「そう。あの時、『どうして姉さんが死ななくちゃならないのか』ってイデは声を大にして訴えていた。もちろんそんなことを言うのはイデひとりだけだった。だからイデは村から煙たがられていてね。その上……」
唐突にセージの声が途切れた。どこか思いつめたような顔で、リリを見ている。
「セージ?」
セージの顔はリリに向けられているが、その目はリリを見ていない。今のセージはどこも見ていなかった。生い茂る雑草も、ざわざわと風に鳴る木々も、その隙間からのぞく木漏れ日も、何も見ていなかった。
彼の目は、過去に向けられている。
もう二度と戻ることの出来ないところへ。
どうしたというのだろう。「その上……」何だというのだろうか。何故、セージは言葉を続けない?
「セージ?」
もう一度呼びかける。その声に、セージはようやく現実へと戻ってきた。
「あ、ああゴメン……」
彼は数回瞬きをし、それから頭を振った。それらの仕草も、やけに人間じみている。
「すっかり日が昇っちゃったね。親御さんが心配するだろう。早く戻った方がいい」
セージは笑う。やはり笑う。先程、言葉を止めた時の表情が嘘であるかのように。
結局、笑うドリィの口から、あの話の続きを聞くことはなかった。




