2-1
タクリ・キサイスの公開処刑から一週間が過ぎた。
結局、ドリィには逃げられてしまったようで、その後あの青い目のドリィの行方は分かっていない。
リリが手にしていた首は、すぐに取り上げられ、それを持って役人たちは中央へと帰っていった。首だけを持って帰って、それをどうするのかリリは知らない。ナキルや他の仲の良い友達に聞いてみたけれど、誰も知っている者はいなかった。
残されたタクリ・キサイスの体は、村の共同墓地の片隅に葬られた。それがどんなに疎ましいマグスの死体であろうとも、埋葬をおろそかにすると、村に災いを呼ぶと信じられているからだ。
そうして、村には普段通りの日々が戻ってきた。あの公開処刑が、夢の中の出来事ではなかったのだろうかと思えるくらいに。
夕焼けに赤く染まった空の下を、リリは走り抜けていた。手に抱えるのは二つの空き瓶。向かう先は酒場である。
村に一軒しかない宿屋兼酒場。そこでしか扱っていない、普通よりもちょっとだけ高級な葡萄酒。それがリリの父のお気に入りであった。だからそのお気に入りを家でも飲めるように、週に一度こうして空き瓶に入れて分けてもらうのだ。大抵は父が飲みに出かけた際に、ついでにもらってくるのだが、こうしてリリがお使いに出される場合もある。
リリが走っているのは、もうすぐ日が暮れてしまうからだ。葡萄酒を分けてもらってくるようにと言われたのは、お昼過ぎのこと。けれど細々とした用事を片付けているうちに、こんな時間になってしまった。父は日が落ちるとすぐに晩酌を始めるのが日課であったから、急がなければ間に合わない。
もし、間に合わなかったとしても、父はリリを叱りはしないだろうけれど。
収穫祭まで、あと一週間。
リリは、自分を取り巻く環境が変わってしまったと思っている。
別に、住む場所が変わったとか、日々の習慣が変わってしまったとか、そういうわけではない。
ただ、周囲の人々の態度が変わった。
皆、遠巻きにリリを見ている。戸惑いがちな笑顔で、何かを誤魔化すようにリリに話し掛けてくる。腫れ物に触るみたいに。
皆の気持ちも分からないではない。一週間ののち、村の都合で死を迎えてしまうリリに、どう接していいのか分からないのだろう。
それは両親も同じだった。父も母も、不自然なくらいリリに優しくなった。リリが何をしても叱らなくなった。本当はこの葡萄酒だって、まだだいぶ残っていたのだ。葡萄酒が入った瓶を割ってしまい、その大半を駄目にしてしまったのはリリだった。それでも両親は「いいから、いいから」と笑ってリリを咎めようとはしなかった。
リリは例えようのない居心地の悪さを感じていた。こうして、周囲の人々がリリを特別扱いするほどに、リリは自らの命の期限を思い知らされてしまうのだ。
リリは足を止める。目的地の酒場へと到着したのだ。瓶を抱え直し、何度か深呼吸をして息を整える。それから正面入り口のドアを開けた。中からはわずかな話し声が聞こえた。客の数はあまり多くない。けれども酒場は日が落ちてからが書き入れ時である。これからこの店は、耳を塞ぎたくなるほどの喧騒に包まれることだろう。
「いらっしゃー……い」
カウンターの向こうの主人が開いたドアに気づいて声をかけてきた。けれどドアを開けたのがリリであることに気づくと、その声は一気に萎む。
ああ、まただ。
リリが入ってきたことによって、場の空気が突然よそよそしいものになる。店の主人だけでなく、まだ少ない客たちの間にも、その雰囲気は伝染していく。
「こんにちは! いつものお願いします」
それでもリリはその雰囲気を無視して、むりやり笑顔を作り、カウンターへと近づいていく。
「あ、ああ。いつものだね」
店の主人は、リリがカウンターの上に置いた空き瓶を手にすると、そそくさと奥へと引っ込んでいった。
この店の主人にも、リリと同い年の娘がいた。それだけに、他の人よりもリリに対するよそよそしさは強くなってしまう。それはリリにも分かるのだが、それでもどこかやり切れなくなる。今更そんな態度を取られても、こっちだってどのように対すればいいのか分からなくなるではないか。
そう、思う。
リリがあと一週間後に生贄になることは、何もつい最近決まったことではない。リリが生まれ、収穫祭までに村で出産がなかったことが分かった時から、リリは十五歳までしか生きられないことは決まっていたのだ。リリは生贄にされるために育てられたようなものだ。
だから、とっくの昔に覚悟は決まっていた。死に対する恐怖がないといえば嘘になる。けれども、自分なりに死を受け止めようとした。だから、あえて一週間前の公開処刑だって見に行った。リリの周囲の人々はリリにそれを見せたくなかったようだけれど。
リリが公開処刑を見て、「やっぱり死ぬのが怖い」と言い出すとでも思ったのだろうか。むしろ逆である。タクリ・キサイスの死を見ることによって、リリの心は穏やかになった。死を受け入れる準備が万端整ったと言ってもいい。
だから、皆にはよそよそしくなって欲しくないと思う。リリにはあと一週間しかないのだ。だから、いつも通りの生活を、じっくりと送りたかった。
けれど、そんなリリの気持ちを察してくれる者は、誰ひとりとしていなかった。
バンッ、という激しい音で、思考に沈んでいたリリは我に返る。振り返ると、二人の男が新たな客としてやってきたところであった。
最初に入ってきたのは、まだ二十歳そこそこといった風情の若い男。全身をすっぽりと覆った砂色のマントを軽くはたいて埃を落としてから、酒場へと足を踏み入れてきた。
男は一歩中へ入ると、ぐるりと中を見回し、
「悪くなさそうだ」
と一言口にする。それから、カウンターまで近づいてきた。そしてリリのすぐ脇へとやってくると、リリより頭一つ分ほど高い位置にある目が、リリへ不躾な視線を送ってよこした。目付きはだいぶ悪い。その視線がリリに留まっていたのはほんのわずかで、男はすぐにリリから顔を逸らし、カウンター席へ陣取った。
二人目の男は、見上げるほどの大男であった。屈まなければ酒場の入り口を通ることが出来ないくらいである。体つきもがっちりしていて、見るからに頑強そうだった。しかし不思議といかめしい印象は受けない。顔立ちが柔和であるせいだ。この大柄な男もカウンターへとやってくると、リリへと目を向けたが、その目は先程の目付きの悪い男とはうって変わってとても優しい。リリと目が合うと、にっこりと笑いかけてきた。リリはその微笑みにどう返していいのか分からず、とりあえず軽く会釈などをしてみた。
どちらもこの村では見かけない顔だった。リリも村人すべての顔を記憶しているわけではないから確かではないが、二人の男が旅装であることからして、余所者であることは間違いないであろう。
「ハイ、いらっしゃい。食事かい?」
奥へと引っ込んだ主人の代わりに女将が男たちへと声をかける。
「ああ、飯と酒だ。飯は何でもいいから、とにかく腹のふくれるもの。酒は一番安いやつでいい」
「はいよ。そちらさんは?」
女将は大柄な男へ聞いた。
「いや、俺は結構です」
目付きの悪い男の隣に座った大柄な男は、片手を顔の前で振りながら答えた。
「何も食べないのかい?」
「ああ、俺は腹へってないから」
「ふうん?」と女将は了解しつつも納得できていないようであった。片方だけが食事を取って、もう片方は何もいらないと言う。そんな二人連れは珍しいと、リリでさえ思う。女将は尚更そう思っていることだろう。
「それから」
大柄な男が言葉を続けた。
「部屋は空いてるかな?」
この酒場は宿屋も兼ねている。この二人が旅人ならば、一夜を過ごす宿を求めるのは自然なことだ。
「ああ、空いてるよ。二人部屋? それとも別々の部屋がいいかい?」
「どっちでもいい。ベッドがあってゆっくり眠れりゃあ、文句はねぇ」
答えたのは目付きの悪い男の方だった。どこか不貞腐れたような物言い。女将はとまどっている。「どちらでもいい」と言われたって、言われた方は困るだろう。そんな女将の気持ちを察したのか、大柄な男の方が、
「じゃあ、二人部屋を」
と頼んだ。
その声を聞いて、給仕をしていた下働きの娘がバタバタと二階へ上がっていった。部屋の用意をするのだろう。
「はい、どうぞ」
女将が二人の男の前にスープが入ったカップを置いた。
「これは?」
注文していないものが出てきたことに、不思議そうな顔をしながら大柄な男が聞く。
「おまけだよ。あんたも腹が減ってないからって、何も食べないのは良くないよ。心配しなくても、この分の金を請求したりしないから安心して飲みな」
「……ありがとう」
女将の気遣いに大柄な男はいっそう柔らかく笑う。けれど、彼はスープに手をつけようとはしなかった。
カウンターの奥から、葡萄酒で満たされた瓶を二つ、器用に片手で持った主人が戻ってきた。
「はい、お待たせ。いつものやつと……、ついでにこれも持って行きな」
ドン、と音を立てて瓶をカウンターへ置き、その脇に布巾がかぶせてある小さなカゴを添えて、主人が言った。リリが少しだけ布巾をずらしてみると、そこからは焼きたてのマフィンが顔をのぞかせている。
「うわぁ、美味しそう。ありがとうございます」
思わず顔がほころんでしまう。ここのマフィンは絶品で、リリの大好物のひとつであった。
その大好物をおまけしてもらったことは、とても嬉しかったけれど、心の片隅にどこか素直に喜べない自分がいることに、リリは気づいていた。
ここの女将はさっきのスープのように、気軽におまけをつけてくれる。しかし主人の方は、滅多にそういうことをしてくれない人物であった。その主人が珍しくマフィンを差し出している。その特別扱いに、リリはまたしてもよそよそしさを感じた。
心の中だけでため息をついて、カウンターに葡萄酒の代金を置く。主人は持ちやすいように二つの瓶を紐でくくってくれていた。
何気なく二人の旅人の方へと目を向けると、ちょうど目付きの悪い男の前に、リリがもらったものと同じマフィンが置かれたところだった。続いて、揚げ芋と腸詰めを茹でたもの。それからサラダが置かれる。
目付きの悪い男は、体の正面にあるマントの合わせ目から左手を出し、マントを背中へと流す。それからまた左手でフォークを握り、腸詰めを突き刺した。
リリの視線は、自然と目付きの悪い男の右腕へと注がれた。今まではマントに隠れて分からなかったが、目つきの悪い男には、右腕がなかった。わずかに上腕部が残るばかりで、肘も肘から手首をつなぐ腕も、掌も指も、見当たらなかった。
途切れた右腕に注目しているのは、リリだけではなかった。酒の入った杯をカウンターに置いた女将も、瓶を紐でくくっていた主人も、思いのままに酒を楽しんでいた他の客たちも、皆その右腕を見ていた。
酒場内から言葉が失われ、しん、とした空気が辺りを包む。酒場内の誰もが、見てはいけないものを見てしまったかのような気まずさを覚え、それでも男の右腕から目を離すことが出来ないようであった。
腸詰めにかぶりついていた男も、さすがにこの異様な空気に気づいたようで、その良いとはいえない目付きで辺りを窺った。そして皮肉げな笑みを浮かべ、
「何だ? 隻腕が珍しいのか?」
と言った。
確かに珍しい。この村に片腕の者は、リリの知る限りいない。
けれど違う。この気まずさは、この沈黙は、隻腕の珍しさにあるわけではない。
体の一部の欠損。それは嫌でもマグスの存在を思い出させた。
一週間前の、あの処刑を思い出させた。
「マグス……」
誰かがぽつりと呟いた。それは小さな呟きでしかなかったが、しずまっている酒場内には良く響く。当然、目付きの悪い男の耳にも届いただろう。
「オイオイ、片腕がないからってマグス扱いかよ」
もともと悪かった目付きをさらに険しくして、男は言った。
「短絡的だな。世の中には怪我や病気でやむなく手足を切断している奴なんざ、ごまんといるぜ。それをいきなりマグス呼ばわりかよ。田舎者は礼儀がなっちゃいねぇな」
「すまないね。この村じゃあ、一週間前にマグスの処刑があったばかりでね。皆マグスに対して過敏になってるのさ。あんたも、あまりマグスの話題を持ち出さないでおくれ」
田舎者、のくだりに気を悪くしたのだろう、女将が眉をしかめながら返した。しかし目付きの悪い男の言葉は止まらない。
「マグスの話を持ち出したのはそっちだろ? 俺はただ飯を食っただけだ。大体、何でマグスが悪者扱いされなきゃならないのかが理解出来ないね。確かにマグスは世界中どこへいっても鼻つまみ者だけど、今どき法で取り締まっているのなんてこの国ぐらいだ。ただマグスだってだけで処刑されるなんて、人権も何もあったもんじゃねぇだろ。一番始末に負えないのは、この国の王や大臣や法に関わる者たちが、マグスは悪魔の力を使うだの、ドリィは悪魔の力で作られてるだの、そんな不条理なことを本気で信じてやがるってことだ。そんな不条理な奴らが作った不条理な法で処刑されたマグスも哀れだね。そもそもマグスやドリィってのは、悪魔の力だの何だのといった胡乱なものとは対極に存在するもんだ。それを世の中のバカな奴らは全然理解していない。そのくせ何でも分かったような顔をして、マグスやドリィを批判する。やってられないよ、まったく」
口を挟む隙を与えることなく、目付きの悪い男は一気にまくしたてた。その言葉はひどく早口な上、聞きなれない単語が混じっていたせいで、リリは男の言っていることの半分も理解できなかった。それは酒場内の人々も同じようで、皆目を丸くして、喋り終えて一息ついた男を眺めている。その隣で大柄な男が、「またやった……」と呟きながら頭を抱えていた。
「気分害した。行くぞ!」
食べかけの料理をそのままに、目付きの悪い男は立ち上がった。踵を返すと、ギロリと酒場の中を睨むように見回し、ズカズカと出て行こうとする。目つきの悪い男が開け放った入り口のドアは、彼らが入ってきたときと同じように、バンと大きな音を立てた。
「お、おいイデ! 待てよ!」
大柄な男が呼び止めたが、目付きの悪い男の歩みは止まらなかった。
「すみません。代金、置いておきます」
カウンター席から腰を浮かし、幾ばくかの硬貨を放るように置くと、大柄な男は目付きの悪い男の後を追った。ドアのところで一旦振り向き、
「あ、宿泊はなしという事で。お手数おかけしました」
と軽く頭を下げる。
酒場内に取り残された者たちは、それからもしばらく呆気にとられたままであった。
「いちいちいちいち、やっかましいんだよ! お前は!」
リリが紐でくくった二つの瓶と、マフィンの入ったカゴを手に酒場を出ると、そういった怒鳴り声が耳を打った。見れば、少し離れた道端に、さっき酒場を出て行った二人組みが言い争いをしているところだった。
いや、言い争いではない。激昂しているのは目つきの悪い男の方だけで、大柄な男の方はそれを必死になだめているという感じだ。
「でも、久しぶりに屋根のある場所で眠れるって言ってたのはイデだろう? それなのに……」
「うるせえ! これからまた探せばいいだろ!」
「それはそうだけど、でも宿のことだけじゃなくて、あんまりああいうことを言うのは……」
「俺はな、ああいったウスラバカどもを見てると、頭に来るんだよ! 世の中バカばっかりだ。何せ、体の一部が欠けてるだけで、裁判にかけられちまう世の中だからな。利口な奴はどこにもいやしねぇ」
「要するに、イデは罪もない身障者が不当な扱いを受けていることが許せないんだろ?」
「だ、誰もそんなこと言ってねぇだろ! 勝手に要約すんな!」
「はいはい、分かってるよ」
「分かってねぇよ!」
言い合いは、大柄な男が優勢を勝ち取ったようだった。柔和な笑みを浮かべた大柄な男に比べ、目つきの悪い男は顔を紅潮させてなおも食いかかっている。しかし大柄な男はそれに耳を傾けず、顎に手をあてて思案する。
「それにしても、日が暮れる前に別の宿を探すのは難儀だなあ……」
「おいコラ、無視すんな! それと、お前!」
目付きの悪い男が、一つしかない人差し指をリリに向けた。突然こちらを指差され、リリの心臓は跳ね上がる。
「何、さっきからジロジロ見てんだよ、見せ物じゃねぇぞ!」
険しい目がリリを見据えている。リリは何とか言葉を発しようとしたが、咄嗟のことで何も口から出てこない。リリだって何も、理由もなく二人のやりとりを見物していたわけではないのだ。
ただひとつ、教えてやらねばならないことがあった。
リリは大きく息を吸って、気持ちを何とか落ち着かせると、この二人にとって重大であろう事柄を口にした。
「この村、宿はさっきのところ、ひとつしかないんだけど……」




