5-4
「イデ! 大丈夫?」
そう問いかけてくる声に舞台の下へ目を向けると、フード付きマントを頭からかぶったリリが舞台のすぐ下まで来ていた。
「リリ……!」
インビジブルがいたのだ。当然その主人となったリリがこの場にいて当然ではある。だがイデは絶句せずにはいられなかった。まさかリリがこんな危険なところまでやって来るとは思っていなかったのだ。
「お前、どうして……」
「そんなこと、どうでもいいよ! 早く逃げよう! インビジブル、縄を解いてあげて」
リリに命じられ、インビジブルは縄の結び目に指をかける。しばらくそうやって縄を解こうとしていたようだったが、結局それはほどけずに、インビジブルは力任せに縄を引きちぎった。見た目とは裏腹に、この黒衣のドリィはやることが大雑把だ。
「待ちなさい」
顔を上げると、ミゼルがあの大きな錐のような武器の先端をこちらへ見せていた。
「このまま、逃がすと思っているの?」
「あんた、前に『逃がしてやりたい』って言ってなかったか?」
「そうね、言ったわね。でも、これが私のお仕事だもの」
イデは唇を噛みしめた。
「インビジ……」
「止めておきなさい」
命じようとしたリリを、ミゼルが遮る。
「インビジブルでは私に勝てない、これも前に言ったわね」
確かに言った。実際にミゼルとインビジブルは二週間前に戦い、インビジブルはこの女に傷ひとつ負わせることが出来なかった。
では、どうすればこの女を振り切って、この場を脱出することが出来るのか。
イデがまず考えなくてはならないのは、このことであった。だが、イデにはどうしても気になることがある。
「……あんた、どうしてこのドリィの名前を知っているんだ?」
ミゼルは紅の十三使徒だ。処断するべき対象の情報を持っていてもおかしくはないのかもしれない。けれどもイデは気になった。
インビジブルがこの場に姿を現したとき、真っ先にその名を呟いたのはこの女――ミゼルであった。
突然、見たくないものを目の前に突きつけられたかのような驚愕。そして、低く震えた声。その時のミゼルは、ただ紅の十三使徒として以上に、インビジブルを知っているのではないかと、イデに思わせたのだ。
「……察しがいいのね」
ミゼルが、ふっと口元を緩めた。
「そうよ。私はインビジブルを良く知っている。インビジブルのクセや身体能力、光学迷彩のこともね」
それは何故か。
「あなたも分かっているんでしょう? あなた、頭が良いもの」
ミゼルの言うとおりだ。イデにはその答えが見えている。だが、信じられない気持ちのほうが大きかった。
「そう、インビジブルを作ったのは……私よ」
ドリィを作ろうと思ったことに、主だった理由があるわけではなかった。ただ、クラフトとして今まで培ってきたものを、形として残したかったのかもしれない。
ただ、それが予期しない方向へミゼルを導くことになろうとは、夢にも思わなかった。
「綺麗だ」
「素晴らしい」
「作り物とは思えない」
出来上がる寸前のインビジブルを見て、タクリは何度もそう言った。
誉められるのは悪い気がしなかった。賛辞の言葉を口にしたのが、他でもないタクリであったせいかもしれない。タクリが誉めてくれるから、笑ってくれるから、ミゼルはよりいっそうインビジブルを作ることに心血を注いだ。
ミゼルは分かっていなかったのだ。タクリがその賞賛の言葉の裏で、何を考えていたのかを。
「ミゼル……、このドリィを俺にくれないか?」
タクリがそう言い出しても、ミゼルには彼の考えが見通せなかった。ミゼルはこのひっそりとした暮らしに満足していたから。だからタクリがそれ以上を望んでいたことに気づかなかったのだ。
「俺は、君が日の光の下を大手を振って歩けるようにしたい。君と老い朽ちるまで共にありたい。でもそれには、この世界を変えなくちゃ駄目なんだ」
彼はそう言って、マグスになることを求めた。クラフトと似た立場であるマグスに。
「大丈夫。みんな知らないだけなんだ。マグスやクラフトのことを。だから教えてあげればみんな分かってくれる。この俺がそうだったように」
タクリの口から飛び出すのは、いつも甘い理想論。クラフトとして長く過ごしてきたミゼルは、彼の言うとおりに上手くいくわけがないことを理解していた。
それでもタクリがその澄んだ青い瞳を差し出してきたとき、それを拒否出来なかった。そこまでした彼の想いを、無駄にしたくなかったのだ。
そして彼の青い目は、インビジブルのものとなった。
「すぐに戻るから」
タクリはそういい残して、インビジブルと共に旅立った。
彼は言葉どおりに、すぐにミゼルの元へと戻ってきた。深い絶望を伴って。
タクリは、己の甘さが世間では通用しないことを学んだ。そして諦めてしまった。
ミゼルもまた絶望し、もうクラフトであることをやめた。そして最も現実的な選択をし、こうして紅の十三使徒としての道を歩んだ。
『世界を変える』
そんな言葉など、ミゼルは信用しない。
「……でも、それが何だと言うの? 私がインビジブルを作ったことが分かったからといって、何が変わるわけでもないわ。それとも……、私が自分で作り出したドリィを壊せないとでも思った?」
舞台上の女は笑う。笑いながら、淡々と言葉を繰り出していく。
「いや……。あんたはそんなに甘い人間じゃないだろう?」
「そう、良く分かってるじゃない」
イデとミゼルの間に緊密な空気が流れていた。リリはただそれを見ていることしか出来ない。インビジブルの力を持ってしても、ミゼルに勝つことが出来ないのならば、他にどうすればいいというのだろうか。リリは手のひらに湧いた汗を、ぎゅうと握りこんだ。
「あんたは……、いったい何がしたいんだ……?」
イデが問いかける。ミゼルへと。
「クラフトであることを捨てて、それとは正反対の立場に身を置き、それであんたは何がしたかったって言うんだ!」
「前にも言ったわ。私は自由になりたかっただけ」
「自由だと? 今のあんたが自由?」
「そうよ。少なくとも私はあなたより自由だわ」
「そうか? 本当にそうかな?」
ミゼルの言葉を受けて、イデは鼻を鳴らす。
「俺にはとてもそうは見えないね。……俺には、あんたが悔やんでいるように見える」
ミゼルが眉をひそめた。
イデは何を言っているのだろう。武器をインビジブルに突きつけ、悠然と立つ凛々しき女。それが今、リリの目に映るミゼルだ。悔恨の表情などかすかにも浮かべてはいない。
「……今さら世迷言を口にしたって、惑わされたりはしないわよ」
「世迷言なんかじゃない。感じたままを言っただけだ」
「じゃあ聞きましょうか? いったい私が何を悔やんでいるというの?」
わずかな違和感。ミゼルの声に苛立ちが混じった。
「さあね、自分の胸に手を当てて考えてみたらどうだ?」
「…………」
ミゼルは沈黙した。胸に手を当てはしなかったが、イデが言うとおりに考えているのかもしれない。
イデはさらに言い募る。
「あんたが俺より自由だって? そんなことない。あんたは自由であることが出来たはずなのに、それを自ら捨てたんだ」
「捨てた……?」
「そうだ。クラフトだった頃のあんたは、少なくとも今よりは自由だったはずだ」
「あなたに何が分かるの? あの頃の私は自由なんかじゃなかった。毎日毎日、オーダーの影に怯えて、周りのみんなからの迫害を恐れて、隠れ住むしかなかったのに。それが自由だって言うの? そんなの、自由だなんて言わないわ!」
「でもあんたは選ぶことが出来たはずだ。選ぶだけじゃない、進むべき道を作り上げることだって出来たはずだ。それらを全部捨てて、あんたはすでに出来上がっていた道に逃げ込んだ。その方が安全だから。その方が安心だから。自分の保身のために……。違うか?」
進むべき道――
今、リリが失い、そのことにより困惑しているもの。それを見つけるために、リリはここへ来た。
だがイデはこう言う。
『作り上げることだって出来たはず』
見つからなければ、作ればいい。道がなくとも前へは進める。進んだその後に、道は出来るのだから。
やはりここへ来て良かった。イデという道標は、リリを導いてはくれないが、背中を押してくれる。一歩を踏み出す力を分けてくれる。
しかしミゼルは激しくかぶりを振った。
「勝手なことばかり言わないで! 叶うわけもない夢ばかりを見て、現実を見ようともしない。そして無謀なことばかりを繰り返す。これがあなたの言う『自由』なの? そんなのは自由じゃないわ。ただ馬鹿なだけよ!」
「俺が見てるのは『夢』なんかじゃない」
イデの瞳は遥か遠くへと向けられているのだろう。普通ならば見通せるわけもないほど遠くへ。そこは、優しく強く暖かい光で溢れているに違いない。だがやはりそこは遠く、そこへ行くための道なき道は険しい。ひとりで歩いていけるような場所ではないのだ。それでも、イデの瞳はそこから逸れることがない。
「俺が見ているのは、『未来』だ――」
ミゼルの腕が力を失って垂れる。その手に握られた大きな錐のような武器の先端も、インビジブルから逸れて地面を向いた。
「馬鹿よ……、本当に馬鹿……。そんなことを言って、結局あなたも諦めてしまうのでしょう……?」
「俺は諦めない。現実ならこの六年間、嫌と言うほど見てきた」
イデは立ち上がり、ミゼルへ背を向けた。そして舞台からひらりと飛び降りる。
「リリ、行こう」
そう言って、リリの先に立ち歩き始める。
「インビジブル、おいで」
リリは肯き、まだ舞台にいるインビジブルを呼んだ。黒衣のドリィはリリの隣へと降り立つ。
舞台上には、人間たちの動きに関心なくそびえたつ断頭台、いまだに怯え続ける役人、痛みを訴えるオーダー、そして……立ち尽くすミゼル。
リリは項垂れる女へと声をかけた。
「ミゼル……さん」
返事はない。かまわず続けた。
「本当は……、うらやましかったんでしょう?」
リリはミゼルのことを何も知らない。インビジブルを作ったと言うからには、彼女もかつてはクラフトだったのだろう。そして今、紅の十三使徒となっているのだから、クラフトとしての自分を捨ててしまったのだろう。
リリが分かるのはそんなことくらいだ。
でも、何となく感じた。ミゼルがイデへ、羨望の念を抱いているのではないかと。
彼女もまた、未来へ向かって走りたかったのではないだろうか。理想を描きたかったのではないだろうか。
それはリリの勝手な想像にしか過ぎないが、間違ってはいないと思う。
ただ彼女は、なりふり構わず生きていくには理性的すぎたのだろう。
イデとミゼルの違いは、ただそれだけなのだ。きっと――




