5-3
ガキィッ!
硬質的な音と共に、シンが振り下ろした剣が止まった。その刃はイデの髪の毛にも触れていない。
「何だ……?」
静止した剣先を見てイデは言う。
いや、静止しているのではない。シンの剣はわずかではあるが震え、ギリギリと何か擦れるような音を立てている。シンの剣を握る腕もまた小刻みに動き、筋がくっきりと浮き上がっていた。シンは自ら剣を止めたのではないのだ。奴はまだ剣を振り下ろそうとしている。イデの体を切り裂こうと、力を込めている。それはシンの、歯を食いしばっている口元を見れば分かることであった。
シンの剣が止まったのは、奴の意思によるものではない。もちろんイデの力でもない。それは明らかに第三者の力によるものだ。だが、ミゼルも役人もオーダーたちも、誰もシンの腕にも剣にも触れていない。
それでも、シンの剣は止まった。
突如、イデの目の前に何か黒いものがちらついた。それは灯火が明滅するかのごとく、ちらちらと現れては消える。そして何度かちらついたかと思うと、それははっきりと人の形をとった。黒い服、黒い髪、そして白い肌。片膝をついた状態で右腕を頭の上にかざし、そこでシンの剣を受け止めている。それはまぎれもなく――
「……インビジブル」
黒衣のドリィの名を呟いたのは、女の声だった。
「ばっ、化け物……!」
役人がそう叫んで腰を抜かした。
無理もない。インビジブルは何もない虚空から突然姿を現したのだ。マグスとなってからクラフトの知識を得たイデには、何となく予想がつく。インビジブルは瞬間移動でもしてきたかのように見えるが、そうではなく、きっと光学迷彩でも使っているのだろうと。光学迷彩は、アドが趣味で取り付けたか、あるいはもともとインビジブルに装備されていたか。
まあ、それはどっちでもいい。イデにとって重要なのは、助かったということだ。目の前にいるのがセージではなくインビジブルだということが、少々意外ではあったが。
「またお前か……」
シンが剣を引き、忌々しげに吐き捨てた。
インビジブルは立ち上がる。剣を受け止めた右腕の皮膚が切り裂かれていたが、生身の人間とは違って、そこから血液が流れ出ることはない。
「ド、ドリィだ……」
そう言ったのは誰だっただろう。役人だったのかもしれないし、舞台を囲む群衆のひとりだったのかもしれない。
「オーダー! 何をしている、捕らえよ!」
口から泡を飛ばして、王が叫んだ。椅子から尻をわずかに浮かし、妙な格好になっている。もちろん自ら率先してドリィを捕らえようとしているのではなく、ただ逃げ腰になっているだけなのであろう。
ドカドカと、靴の踵を鳴らしてオーダーの面々が舞台へと上がってくる。もともと舞台上にいたシンは、もうイデにもインビジブルにも興味を失ったようで、あたりをキョロキョロとせわしなく見回していた。ミゼルは……、ただインビジブルを見つめて立ち尽くしているだけであった。
そんなミゼルの両脇をすり抜けるようにして、数人のオーダーが走りよってくる。先頭に立ったオーダーが、インビジブルへ斬りつけようと跳んだ。
「インビジブル!」
少女の声がする。インビジブルはその声に反応して、一気に先頭のオーダーの懐へ入り込み、みぞおちに強烈な一撃を叩き込んだ。その一撃だけで、先頭に立っていたオーダーは昏倒する。
その隙に二人目と三人目のオーダーがインビジブルの両脇に展開していた。二人が同時に斬り込んで来る。
インビジブルは左側からの攻撃をかわして、すかさず顎に下方から突きを入れる。だが右側からの攻撃にはまるで無反応だ。インビジブルは二方向から攻撃された場合、そのどちらにも反応するということがまだ出来ないのだろう。ニ方向のうち左側からの攻撃に反応したのは、そちらの攻撃の方がわずかに早かったからに違いない。右側から攻撃を仕掛けたオーダーは、完全にインビジブルを捉えたと思っただろう。だが次の瞬間、タァーンという音がしたかと思うと、彼は剣を取り落としていた。
「ぎゃあ!」
そう叫んで剣を落としたオーダーは、その場にうずくまる。剣を持っていた方の腕を押さえて。
タァーン、タァーン、タァーン。
続けて音がする。そしてその音が響くたびに、オーダーたちがひとり、またひとりと倒れ、もしくはうずくまっていった。
その音がどこから聞こえてくるのかは分からない。だが、近くではないことは確かだ。イデはなるべく遠く、この場所を見渡せるような高い場所を探した。そこにセージがいるはずだ。
オーダーたちを倒したのはセージだ。イデはそのことを確信していた。
おそらく銃を使ったのだ。アドは前々からセージに銃を取り付けたがっていた。銃に文句をつけるイデがいなかったのだ、間違いなくアドはセージに銃を装備させていることだろう。銃声は近くなかった。ということは、遠くから狙撃しているということになる。狙撃に適しているのは、高さがあって見晴らしの良い場所だ。
いた! セージだ!
イデから見て、おおよそ西の方向。三階建ての館、そこの屋根の上に、今まさに立ち上がろうとしているセージの姿が見えた。ちょうど太陽を背負うような位置にいる。逆光でその姿は影にしか見えなかったが、その大きな体を見間違えるわけもなかった。
「見つけた!」
シンは思わず歓喜の声をあげていた。
西側の建物の屋根の上、そこにシンの獲物がいた。約二週間前に、獲物と定めた大柄なドリィが。
ついさっきまでシンは、怒りに駆られて片腕の青年へ向けて剣を振り回していた。だが女のドリィが姿を現した時に、シンは自分が何故ここにいるのかを思い出したのだ。
そうだ、俺はあのドリィと決着をつける――
それを思い出したシンは、片腕の青年のことなどどうでも良くなった。どうしてあんなゴミ野郎に対して熱くなっていたのか。真剣にあの青年を殺してやろうと思ったことすら馬鹿馬鹿しくなった。
シンは舞台から飛び降りて、西へと走る。群がる蟻のような人々が邪魔で仕様がない。
「邪魔だ、どけ!」
怒鳴りつつ、邪魔をする者たちを押しのけた。勢いあまって何人かに斬りつけたような気もするが、そんなことはすぐに意識の隅に追いやった。
大柄なドリィが屋根の上から跳躍した。ズシンという音を立てて地面に着地する。そしてシンの方へと走ってくる。
シンも走る。シンとドリィを隔てていた者たちは、耳障りな悲鳴をあげて、あちらこちらへと逃げ去っていた。
ドリィの左腕から黒い筒のようなものがのぞいていた。ドリィは立ち止まり、それをシンへと向けてくる。シンの足元へと。そしてその黒い筒が火を吹いた。
ドンッ、ドンッ、ドンッ。
さっきのタァーンという音とはまるで違う。腹に響く音だった。シンはそれが何なのか分からなかったが、本能的に危険を察知して、脇に飛びのいた。
それからさっきまでいた場所を見てみると、そこの地面には小さな穴が三ヶ所開いており、そこからは白い煙がすうっと立ちのぼっていた。
何なんだ、あれは?
シンがそう考えている間に、ドリィは再び走り出していた。シンの脇を通り過ぎて、舞台へと真っ直ぐ。
シンは舌打ちをする。この俺を無視するのか、といった屈辱的な思いが全身を支配した。
「待て!」
ドリィの後を追って、元の場所へと引き返す。
お前は俺がぶっ壊してやる。バラバラにして、もう二度と人間の真似が出来ないように。
やはりこの銃という武器には馴染めない。
セージはその点でイデと意見を同じくしていた。銃は手加減というものが出来ない。当たれば間違いなく重傷を負わせてしまう。今も何人かのオーダーを撃ったが、命に関わらないように狙って撃つのは難しかったし、面倒なことでもあった。
だからセージはひととおりオーダーを撃ち倒すと、狙撃場所であった屋根から飛び降りた。アドには申し訳ないが、やはりセージは自分の拳で戦う方が向いているようだ。
大広場は人でギッシリと埋まっていたが、セージが一歩を踏み出すごとに、人々は勝手に道を開けてくれる。人々はドリィであるセージから逃げているだけなのだろうが、結果としては同じだ。
ただひとり、舞台の方からこちらへと走って来る者がいた。赤いマントをひるがえしたその姿には見覚えがある。二週間ほど前の生贄の儀式の時に戦った男だ。セージはその時に、男の戦闘レベルを「Bプラス」と認定していた。人間としてはかなり腕が立つ部類に入る。事実、男はセージとほぼ五分に戦っていた。それでも倒せない相手ではない。二週間前だって、インビジブルが止めに入らず、あのまま戦っていたならば、きっとセージは男を倒していただろうと思う。それは今だって変わらないはずだ。戦えば、きっと倒せる。
しかしセージたちには時間がない。一刻でも早く、イデを助け出し中央都から脱出する。これが現在の最優先事項であった。だからセージには男にかまけている時間などないのだ。
セージは一度立ち止まり、ライフルを単発射撃から連発射撃へと切り替えた。馴染めない銃ではあるが、せめて足止めぐらいには役に立ってもらおうと思ったのだ。
男の足元を狙って撃つ。男は銃など見たこともなかったであろうが、それが武器だということは理解したのだろう。脇へと跳びすさり、それをかわした。もともと威嚇のために撃ったのだから、当てるつもりなどなかったが、それでもその反応を見せた男にセージは感心してみせた。
だが、それもわずかのこと。セージは男の脇を通り過ぎ、さらに走る。
「待て!」
背後で男が叫ぶのが聞こえた。もちろん待つつもりなどない。
しかし――
ささやかな空気のうなりを、セージの耳がとらえた。とっさにセージは上半身を倒す。倒した背の上を、ブンと何かが通った。セージは背後へくるりと向きを変える。
赤いマントの男だ。奴がセージへと剣を薙いだのだ。
何という人間だろうか。セージはほぼ全速力に近いスピードで走っていたのだ。それについてくるなど、考えられない。
だが実際に男は、セージに追いついた。セージは少しばかり男を甘く見ていたのかもしれない。セージは男の戦闘レベルを「A」まで引き上げた。
「……逃がすかよ、人形!」
男は目を見開き、笑う。狂気じみた表情だった。
男は、セージをそう簡単に解放してくれる気はないようだった。




