準備
ライナスには、設けられた期限の間際に随行を願い出た。
彼は静かに頷き「本当に良いのですね?」と最後の確認をして、肯定を返したサーシャに握手を求めた。
同じ部屋付きの侍女たちはそれはもう惜しんでくれたが、サーシャの意思が固いことを知ると「送別会をしないとね」と張り切り、別れ間際でますます結束を強めることになった。
使者の出立に備えて侍女たちの業務量は増えているが、それでもサーシャだけは準備のためにと何かと気を回してもらい、ありがたく甘えることにした。
官舎の部屋で、荷物のそれほど多くない室内を眺める。
物は少ないのに、ひとつを手に取っては物思いにふけってしまい、思ったよりも時間がかかりそうだ。
ライナスからもらった珍しい端切れ。侍女仲間と同じ物を揃えた羽ペン。リゼからもらった綺麗な小石。
そして、桃色のハンカチ。
記憶よりも少し色あせたその布は、シミひとつなく洗濯されて、少しだけリシャの匂いがした。
もう逃げたいとは思わなかった。
「ありがとう、ニック……」
それは、あの頃伝えたかった言葉。
出立前に会っておきたい人を考える。
両親にはすでに手紙を出し、近日のうちに商会に帰る予定だ。
せっかくまた話せるようになったメリンダは、何て言うだろうか。たくさん泣いて手に負えないかもしれない。それでも、もうサーシャは涙を拭いてあげられないのだとわかってもらうしかない。
縫製室のピコは今が大詰めだ。会えないかもしれないが、行くだけ行ってみようと思った。
そしてカイは──
『時間を作ってくれないか?』
そう言っていた彼に、時間を作ってほしいと言わなければならない。
けれど、会って何を言えばいいのだろう。そして、何を言われるのだろう。
考えると、いや考えないようにしていても、胸の奥が痛くなった。
「ええ、侍女長から聞いているわ。隣国での身の振り方は決まっているの? ライナス卿の推薦であちらの王宮へ?」
ローラは相変わらず忙しく動き回っていて、彼女に会うのはなかなかに骨が折れた。
最終的に侍女長室の中で待たせてもらって、ようやく会うことができたのだった。
「いいえ。ライナス様の奥様のお相手をしてほしいと言われています」
「お相手? お世話じゃなくて?」
「そうみたいです。ご夫婦ともに身の回りのことはご自分でなさるから、私にはある程度好きに過ごしていいと」
ローラはなるほどと頷いてから、サーシャの両手を握りしめた。
「サーシャちゃん、くれぐれも体にだけは気をつけてね。あなたに何かあったら私、シンディに恨まれてしまうわ」
サーシャをいざなった時と変わらず力強い彼女の手を、ぎゅっと握り返した。
『ピコには今は会えないかもしれない』
そう思いながら訪れた縫製室は、自分の考えが甘かったと思うほどに凄まじい熱気の中にあった。
室内を覗くまでもなく扉は開け放たれ、短い叱責の言葉や指示の声、生地をさばく布の音がひっきりなしに聞こえる。
やはり無理かと立ち去りかけたサーシャを、気づいたピコが慌てて呼び止める。
「サーシャさん!」
「ピコ! 忙しいのにごめん!」
バタバタと駆け寄るピコは糸くずだらけで、手には指抜きが嵌まったままだ。
「あのね、私使者様について隣国に行くの」
前置きなしで告げられた言葉に、ピコは少し遅れて目と口を大きく開き、声もないほどに驚く。
しばらく口をはくはくさせてから、たどたどしく訊ねた。
「サーシャさんの『芯』、わかったんですか?」
「うん、たぶん。それをもっと強くしに行くの」
ピコは泣きそうな顔をしたがグッとこらえ、笑って「また会えますよね?」と聞いた。
「うん。必ず」
サーシャの返事とフレネの大声が重なる。ピコはしっかりと頷いてから踵を返した。
「絶対ですよ!」
縫製室に駆け込む寸前、振り返って大きく手を振りながらピコが叫んだ。
執務室にカイはいなかった。
メモを置き、話がしたいと日時を書いた約束を残す。彼との最初の約束。最後だと思いたくはない。




