光の喪失
本日3話更新です。よろしくお願いします。
その夜も次の夜もずっと、官舎の静けさにサーシャは怯えた。
一人の部屋、安らぎの時間であるはずなのに何かをする気にもなれず、ただぼんやりと考え込んでいた。
『思った以上に頑なだね』
『想像力が欠けている』
体を休めようとしても、そのたびに耳元で声がする。
穏やかに理性的な調子で、サーシャを優しく諭すように響く。そのまま目をつぶると、どこからかリシャの香りが漂うような気さえした。
仕事中には、人がそばにいてもいなくても、いつでも誰かの気配を感じた。
廊下を歩くときや人と話すとき、書き物をするときにまで、あらゆる瞬間に視線を感じる。見回しても振り返っても誰もいない。ただ気配だけがいつでもまとわりついていた。
見張られている?──まさか、ありえない。
けれど否定した次の瞬間にも、また感じる視線。
「……どうすればいいの」
小さく呟いて、顔を覆った。
「ああ、部屋もだいぶん片づいてきましたね。こうして見ると、私の部屋がいかに生活に不要なものであふれていたのかがよくわかります」
ライナスは物が少なくなった部屋をゆったりと見て回り、刺繍のタペストリーの前で足を止める。
「こちらに滞在した当初から飾られていたこの壁織物。これはとても素晴らしい。毎日眺めたこの品は、私が追憶のよすがに母国へ持ち帰ると話をつけてあります。そして──」
壁に添えていた手を離したライナスは、振り向いて明るい声で言った。
「あなた方をお連れしても良いと、ようやく侍女長からお許しをいただきました」
「もちろん無理やりにとはさすがに言いません。ですがどなたか一人でも二人でも何人でも、色よい返事をお待ちしていますよ」
そう話したライナスに、既婚のアンジーたちは即座に断りを入れて主を残念がらせた。
リゼとサーシャは顔を見合わせる。愛郷心の強い彼女もおそらくこの話を断るだろう。
では自分は?
帰りを待つ家族や商会の人たち。慕ってくれるメリンダやピコ。そして、カイ。
色々な人の顔が思い浮かぶ。離れたいはずがない。
それでも、守りたいものがある。
それがきっと、サーシャの『芯』だ。
「サーシャ!」
常にない焦った声で呼ばれる。
いつもは品よく整えられた髪を乱して、ニックが早足で近づく。
「……君は、そんなにも僕のことが嫌なのか?」
黙って首を横に振るサーシャに、ニックが言い募る。
「じゃあなぜ? 君は隣国へ行くんだろう? 大事な商会を捨ててまで」
ハッとしたニックの顔に笑みが戻った。それは端正な彼だからこそ凄みをも思わせる歪んだ笑みだった。
「そうだ、商会。ローディック商会が、どうなっても良いのか? 僕との噂が流れれば──」
「どうなるの?」
サーシャがニックの声を遮った。その声は落ち着いている。
「この国にいない私にたぶらかされたなんて言っても、商会は何も失わない。ましてやあなたは婚約者がいる身。信用を失うのは、あなたよ」
ニックは苦しげな顔をしたが、それでも絞り出すように言葉を発した。
「商会を、僕を置いて、隣国に行って……ずっと一人だけ、安全な場所で過ごすのか? 僕が諦めない限り?」
「いいえ。私は揺るがない力をつけに行くの。自分の足で立てるようになったら帰ってくるわ」
サーシャは落ち着き払って目の前の人を見据えた。
「だからあなたも、自分の足で立って。私じゃないあなただけの芯を見つけて」
「君は、馬鹿だ……」
王女宮の喧騒に、小さな声はかき消えた。




