光の象徴
中庭に面した小さな窓から、やわらかな昼の光が差し込んでいた。ライナスの部屋にいつもの賑やかな声音は聞こえない。
彼は今、王女殿下に随行する侍女たちに対して、隣国の茶菓子についての講義を別室で行なっている。
「お茶会なんて久しぶりですねえ。あっ、仕事です仕事」と足取り軽く出かけて行くのがおかしかった。
主不在の室内を、みなで手分けして徐々に片づける。
織物の箱は半分ほどが片づけられ、講義に幾度も使用された隣国の地図も、もう丸めて紐で縛られている。
「いよいよねえ」
アンジーが帳簿を閉じながら、しみじみと言った。
「毎日広げては片づけて、でしたものね。あの嵐のような散乱はさすがにもうないのでしょうか」
リゼの言葉に「そう願いたいわね」とみなが頷いた。
サーシャも書類を整えながら相槌を打つ。笑顔を保ちながら、心のなかは別のことで占められていた。
「サーシャさんは、ライナス様がお帰りになったあとどうするんですか?」
問われた瞬間、指先にわずかに力が入った。
「私は──商会に戻ります。みなさんもローディック商会をぜひご贔屓にお願いしますね」
「まあ! さすがですね」
「看板娘の復活だわ」
にこりといつもどおりに笑う。
少しの不安も顔に出すことなく、穏やかでのどかな昼の時間を過ごす。
──大丈夫。
心の中で繰り返す。
商会はこれまでだって乗り越えてきた。ローディック男爵家には世話になってきたけれど、バルケス伯爵家との縁などなかったはずだ。
評判の揺らぎも、資金の苦しい時期も、高位貴族と親密にならずとも何とかしてきたのだから。
自問自答を確信に変え、安心する。
けれどふと、あの穏やかな顔を思い出す。
『回復に貢献した』とさらりと言った彼。そこに気負いや恩着せがましさはなく、まして嘘の気配もなかった。
揺らいで、落ち着いて、また揺らぐ。
サーシャは首を振った。
手を止めないよう意識して、紙束を整えて箱に収める。
そのとき訪問者が告げられた。
「失礼。ライナス卿あての書類を」
それはここ最近、度重ねて聞くことのあった声だ。
ニックはいつものように淡い微笑みを浮かべ、封書を差し出した。挨拶も書類の受け渡しもすべて、疑いようもないただの業務だった。
彼はすぐに踵を返し、そして立ち去る寸前、サーシャに束の間の視線を寄越した。
思わずニックの後を追い、廊下の隅へと促す。
「……こんな風にされると困るわ」
「ただの仕事だよ、選り好んでるわけじゃない」
肩をすくめたニックが笑い、その笑みのままサーシャに訊ねた。
「それで、返事は決まった?」
返事など、問われるまでもない。
「私の考えは変わらないわ。商会はこれまでうまく回ってきた。これからだって大丈夫」
言い切ったサーシャに、ニックはほんのわずかに眉を寄せた。
「君は思った以上に頑なだね」
一歩、近づく。
「それに──想像力が欠けている」
ニックの顔から笑みが消えた。
背を屈め覗き込み、サーシャを壁へと追いやる。
「少し前に流れていた噂、知っているよ。君は話題に事欠かないね。もう一つくらい増えても、大丈夫かな」
指を一本立てて、サーシャの顔の前にかざす。
「貴族子息をたぶらかした、という噂」
目を見開くサーシャを見て、ニックは満足そうに続けた。
「現に僕は君に振り回されているし、それを知る友人もたくさんいる。単なる噂と思う人が、どれだけいるかな」
言葉は淡々としていた。
脅しの調子ではない。ただ可能性を説明するだけの声音。
どこからか、ほのかに香りがした。
サーシャの光の象徴、リシャ。
その香りから、初めて逃げたいと思った。
お読みいただきまして、ありがとうございます。
この章が実質の最終章となります。ニックの執着と、フェリナの選択、カイとの関係はどうなるのか、ぜひ最後まで見届けていただけますと嬉しいです。




