相談
商会やサーシャを貶める噂はミカエラの悪意によるものだった──
それが判明し、彼女は今後完全にスタンリーから切り離されることになるだろう。
しかしサーシャの胸の奥にはまだ晴れないモヤが残っていた。
ライナスへとハンカチを渡す。
サリシャの生地に先日を思い出し、指先がわずかに震えた。
『どうしてあなたなの』
不意にミカエラの声が蘇る。そして、空虚を眺める視線も。
あの場の空気が、まだそこにある気がした。
「サーシャさん?」
ライナスの声にはっと顔を上げる。
「あ……申し訳ありません」
慌てて姿勢を正すと、ライナスは何も追及せず、穏やかに微笑んだ。
「このサリシャのハンカチは本当に素晴らしいですね。
前に聞いた話ではどうしても手触りが悪くなるとのことでしたが、これならハンカチとしてじゅうぶんの使い心地です」
彼は布を光にかざし、満足そうに頷く。
「お礼にひとつ、この私が何でも相談ごとを聞いて差し上げましょう。
おあつらえ向きなことに、今この場には私とあなただけ。平民同士たまには腹を割るのもいいと思いませんか?」
サーシャは戸惑った。
国賓である彼にそんなふうに言われても、同じ立場などとはとても思えない。
けれど──胸の奥のモヤを、どうすればいいのかわからないのも事実だった。
結局少し迷ってから、口を開いた。
「あの……ライナス様は、爵位があればと思われたことはおありですか?」
ライナスは一瞬きょとんとし、それから「ああ」と小さく笑った。
「それはもうたくさんあります……と言いたいところですが、幸いにも母国ではそれほどないのです。
私のような人間が学び研究する場を与えられ、あまつさえ特使などという誉れまでいただいて。
ああすみません、これでは相談になりませんね。サーシャさんは身分のことで何か悩んでいるのですか?」
サーシャは視線を落とし、言葉を探した。
『所詮は平民じゃない』
『貴族の機嫌ひとつで揺らぐ』
『思い知らせてやりたかった』
自分ではない声が反響する。
「……悩んでいるというか、わからないんです」
自信のない声がこぼれ落ちた。
「すごく爵位にこだわる人もいれば、あっさり手放してしまう人もいますよね」
ライナスは静かに頷いて、サーシャの声を聞いている。
「その違いって、どこから来るんだろうって……。生まれ育った環境なのか、それとも別の何かなのか……」
気づけば独り言のように続けていた。
「……私も、いつか何かを手放せなくて苦しむのかな……」
ミカエラの歪んだ表情が脳裏をよぎる。
彼女は、商会とスタンリーから離れていたら楽になれたのだろうか。それとも、離れることさえできないほどに囚われてしまったのか。
ライナスはしばらく黙ってサーシャを見ていたが、やがて静かに口を開いた。
「生まれ育った境遇ももちろんあるとは思います。ですが一番は──」
そこで彼は、手にしたハンカチで自身の手のひらを覆った。
「自分が何を頼りに立っているか、ではないでしょうか。
爵位でも、財産でも、家柄でもなく。
それらがなくなっても、自分のなかに芯となるものを持っているかどうか」
ライナスは手を上下させ、ハンカチをふわりと動かしながら続ける。
「それを持っている人は、あまり執着しません。なくても立てると知っているからです。状況が変わっても、柔軟に対応できる強さだってある。ちょうど、この素晴らしい布のように」
サーシャの目線が、しなやかに揺れるハンカチの縁をなぞった。
──自分のなかにある『芯』。それは何だろう。
ライナスの言葉は分かりやすいと思えたけれど、自身に置き換えてみると途端に輪郭がぼやけてしまう。
『芯』。その言葉は、サーシャの心にずっと居座り続けるのだった。




