執着
本日3話更新です。よろしくお願いします。
重苦しい空気が満ちたまま、誰もすぐには言葉を継げなかった。
すべてが張りつめ、少し触れれば裂けてしまいそうだ。
視線を落としたままだったミカエラは、やがてゆっくりと顔を上げる。
「……辛く……当たる?」
それは怒りでも嘲りでもない、純粋な疑問の声。
「そう見えるの?」
スタンリーは答えない。ただ真っ直ぐに見返す。
ミカエラの唇がわずかに歪んだ。
「あなた、本当に何もわからないのね」
その静かな口調には、長年押し込めてきたものが滲んでいた。
「私は、ずっと見ていたのよ。何もかも。あなたが商いに夢中になるのも、商会が大きくなるのも、あなたに……家族ができるのも……」
視線がゆっくりとサーシャへ向く。
「そして、その娘が……」
サーシャは息を呑んだ。
「ミカエラ様……?」
「あなたは知らないでしょうね。いいえ、知るはずがないわ。だってあなたは、最初から『与えられる側』だったもの」
ミカエラの目はサーシャを射抜きながら、言葉は違う相手を責めているようだった。
ミカエラの声は次第に揺れ始めていた。
「私はね、本来ここにいるはずだったのよ」
スタンリーの眉がわずかに動く。
「あなたが商会を、そして私が男爵家を支えて、ここを『私の家』と呼ぶはずだった」
吐き出すような声だった。
「あなたが爵位を蹴った日、私は何を失ったと思う?」
ミカエラは乾いた笑いをこぼす。
「全部よ」
誰かが息を呑む音がした。
「なのにあなたは平然としていた。すぐに別の女性を迎えて、商会を広げて、幸せそうにして……そして生まれたのがその子」
サーシャを指さす。
「私が立つはずだった場所に、何の苦労も知らない顔で立って」
震えて次第に荒くなる声。
「布に触れて、仕事を覚えて、皆に認められて……まるで当然みたいに!」
喘ぐような呼吸の音。
「どうして……どうしてあなたなの……」
それはもはや怒りではなかった。
ずっとたまり続けた澱が、水底からようやく姿を現したような──
サーシャは言葉を失っていた。
スタンリーはミカエラから目を逸らさない。
うなだれるミカエラを冷たく見下ろす目は、サーシャの知る父のそれではなかった。
「君は、自分を被害者だと? 私に捨てられたと、そう思っているのか?」
動かないミカエラにスタンリーが静かに語りかける。
「男爵家をモリスが、商会を私が継ぐと決まったとき、私は君に言ったはずだ。爵位はなくとも苦労はかけないと。そのうえで選んだのは、君だ」
ミカエラの肩がピクリと動き、ゆっくりと顔を上げる。
「爵位は……必要でしょう?」
そして今度こそすべてを吐き出すように叫んだ。
「どんなに大きくたって、所詮は平民じゃない! そんなもの、貴族の機嫌ひとつで揺らぐって、思い知らせてやりたかった! どんなに富んでも、華々しくても、子どもの些細な噂ですらはねのけられないなら、意味がないのよ!! それがどうしてわからないの!? どうして……ねえ……」
そうしてそれっきり、ミカエラは何も言わなくなった。
「サーシャ、せっかくの日にすまなかった。あとは男爵に連絡しておく。メリンダのことも悪いようにはしないから、お前はライナス様にハンカチをお届けしてくれ」
疲れた顔で話す父に、サーシャは言葉をかけることができなかった。
サーシャは胸に重く沈むものを抱えたまま、そっと頭を下げる。
「……わかりました」
振り返ると、ミカエラは動かない影のように椅子に沈んでいた。
サーシャは何も言えず、そのまま部屋を後にする。
手にしたサリシャの包みだけが、現実の重さを確かに伝えていた。




