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自覚

「サーシャさん、今日は曇り空に合わせて、落ち着いた色みのものにしましょうか。それともあえて快晴の空の色がいいでしょうか」


「………」


 答えないサーシャに、アンジーが「サーシャさん?」と小さく呼びかける。


 ハッとしたサーシャはあたふたとハンカチを準備した。


「曇り空ですものね。こちらのハンカチで、気分だけでも明るくなさるのはいかがでしょう」


 サーシャが手渡したのは、薄紅色のハンカチだった。

 ライナスは一瞬『ん?』という顔をしたが、ハンカチとサーシャの顔を見比べると、にこりと笑顔になった。


「ありがとうございます。今日も良い一日になりそうです」




 その日のサーシャは、著しく集中力を欠いていた。


 終わった場所をもう一度拭く。

 書類の届け先を二度三度と確認する。

 文字を書けば何度も間違える。



 理由は分かっている。

 カイの声が耳から離れないせいだ。


『……だからどこにもやりたくなかったんだ』


 そんなことを言われても、もうサーシャはここにいる。

 あの時、送り出してくれたカイの言葉に支えられながら。


 でも、本当は……本当は?


 縫製室を離れても、度々思い出していた。彼の言葉を、態度を、存在を。

 最近は思い出す声がもう二つ増えた。

 備品庫で聞いた彼の声。ひとつは、弱々しい声。そしてもうひとつは──


『サーシャ!!』


 初めて名前を呼ばれた。

 もう一度、聞きたい。

 でもきっと「あんた」でもいい。

 彼の声なら何だって、何度だって呼ばれたい。

 

 この気持ちは、きっと。




「サーシャさん。今日は私、少々ホームシックかもしれません。もちろんここの生活に不満などないのですが」


「では、奥様の御髪と同じお色のハンカチにしましょう。生地は、そうですね。柔らかいものを選んでまいります」


 主の声から間を置くことなくサーシャが答える。


 ハンカチを待つ間、ライナスとアンジーが笑顔で頷き合っていた。




 自覚した想い、浮き立つ心。

 けれども何かが変わるというわけでもない。

 お使いの帰りに縫製室の近くを通る。ピコに会うときにカイがいそうな時間を選ぶ。日々に、何でもない習慣が少し増えただけ。


 今日は思いがけず食堂の近くでカイの後ろ姿を見た。たったそれだけで、午前の疲れがなくなった。





「ねえ、聞いた? お仕着せの話。メリンダ様が──」


「ああ、ローディック姉妹で──」


「一人で考えたわけでもないのに──」


 そこかしこでひそやかに囁かれる噂話は、サーシャの耳にはまだ届かない。

次話から新章です。

引き続きよろしくお願いします。

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