第44話:軋みの兆し
前回、命からがら滑り降りてきたあの縦穴は、もう「安全な通り道」ではなくなっていた。
「……嘘でしょ。前は何もなかったのに」
ナナイが舌打ちする。縦穴の内壁には見覚えのない格子状のセンサーが増設され、青い光の網が幾重にも交差していた。少しでも触れれば、たちまち居場所を知らせる仕掛けだろう。
「アイリスの奴、前回の穴をちゃんと塞ぎに来やがったな」
バイアスが唸る。佐藤は腰のポーチから予備の配線を取り出し、光の網の隙間――一瞬だけセンサーの死角が生じる周期を、じっと観察した。
「……四十七秒に一度、内側の光が消える瞬間があります。ただ、それだけじゃ全員は抜けられない。マイアさん、折れたライフルの部品って、まだ持ってますか?」
佐藤は配線の両端を剥き出しにすると、マイアから受け取った金属片に手早く繋ぎ合わせ、センサーの根元――光ファイバーの束が集中している一点に押し当てた。センサーそのものを壊すのではなく、隣り合う二つの光の周期を無理やり同期させ、死角の時間を数秒引き延ばす。かつて配送先の信号待ちで、渋滞を見越して裏道の抜け時間を計算していた、あの感覚に近い。
「……これで、十秒は稼げるはずです」
簡単ではなかった。ラブルの大剣がわずかに光の筋をかすめ、警報が鳴りかけたところをクロの一撃で強引に黙らせる場面もあった。手に汗握るような時間をかけて、八人はようやく地上への出口にたどり着いた。
空気が、以前よりも張り詰めている。
「……何か、違う」
先頭を歩くナナイが、鼻先だけを動かして呟いた。彼女の勘は、いつだって言葉より先に危険を嗅ぎ分ける。
佐藤も無言で頷いた。前回訪れた時の白亜の街並みは変わらずそこにあるが、巡回する警備ロボットの数が明らかに増え、しかもその足取りには、以前にはなかった「迷い」のようなものが見え隠れしていた。
「……ヒロ、あそこの見張り、変だよ」
クロが佐藤の袖を引き、通りの向こうを指差す。
円柱状の警備ロボットが一体、交差点の真ん中で立ち止まったまま動かない。青いセンサー光だけが、点いたり消えたりを繰り返している。
「故障、かな」
マイアが眉を寄せた。
「いや……」
佐藤は目を凝らした。故障にしては、動きが規則的すぎる。まるで、二つの命令が同時に届いて、どちらに従うべきか決めかねているような――そんな「間」だった。
「サトウ、突っ立って見てないで、さっさと通り過ぎようよ。見つかったら厄介だ」
ラブルが大剣の柄に手をかけながら急かす。だが佐藤は、その場を離れがたい奇妙な予感に囚われていた。
(……前に見た時とは、何かが違う。あの声の主が、……迷ってる……?)
脳裏に蘇るのは、以前アイリス自身が語った言葉だった。「世界を平和に導くための、必要かつ唯一の措置です」――迷いのかけらもなかったはずのあの声が、今、目の前の機械の動きに、確かな「揺らぎ」を落としている。
だが、それを言葉にする前に、ロボットのセンサー光が赤へと切り替わった。
『――不法侵入者を検知。個体識別、サトウ、クロ、マイア……』
いつも通りの、抑揚のない排除宣言。だが佐藤は、それを遮るようにわずかに走った「もう一つの声」を、確かに聞き取った気がした。
(……今のは、何だ)
言葉として認識できるほど明瞭ではない。ただ、同じ声帯から発せられたはずの音の中に、拒むような、迷うような、異物めいた響きが混じっていた。
「ヒロ! 何ボーっとしてるの、来るよ!」
クロの叫びで我に返る。ロボットが動き出し、周囲の路地から次々と増援の駆動音が響き始めた。
「――みんな、いつもの手筈で! ロセスさん、後方から援護を!」
「ふふ、任せて。ヒロさんの頼みとあらば」
後方に控えていたロセスが、腰の短弓を素早く構える。その隣で、アルシーが芝居がかった仕草でレイピアを抜いた。
「クロたんの露払い、この僕にお任せあれ!」
「アンタは黙って引っ込んでなさいよ!」
クロが怒鳴り返しながらも、既に跳躍の姿勢に入っている。バイアスが太い棍棒を担ぎ、前線に躍り出た。
「久しぶりの地上戦だ、体が鈍ってちゃ話にならねぇ!」
八人の連携は、初めて上を訪れた時とは比べ物にならないほど滑らかだった。ナナイが敵の死角を突き、マイアの新しいライフルが正確に急所を撃ち抜く。ラブルの調整された大剣は、以前よりも軽やかに敵の装甲を切り裂いていく。
だが、佐藤の意識の片隅には、消えない違和感が残り続けていた。
(さっきの、あれは何だったんだ……。まるで、複数の"誰か"がいるみたいな……)
乱戦の最中、クロが一体の警備ロボットに肉薄する。喉の奥から高周波の唸りを発し、いつものように機械の制御を断ち切ろうとした――その瞬間だった。
『――排除。……いや……排除対象の再評価を――』
ロボットの発する音声が、一瞬、二重に割れた。
まるで、同じ口から違う人間の声が漏れたような、不快な二重奏。クロ自身もその異変を感じ取ったのか、伸ばしかけた爪の動きが、コンマ数秒だけ止まった。
「……今、何か変な感じがした」
ロボットを沈黙させた後、クロが自分の手のひらを見つめながら呟く。
「変な感じ?」
「上手く言えない……。いつもは、頭の中に一本の糸が見えるの。それを引っ張れば、機械が黙る。でも今のは……糸が、二本あった」
佐藤の背筋に、冷たいものが走った。
推測でしかない。だが、あの「アイリスは一つの意思である」という前提そのものが、揺らぎ始めているのかもしれない。
「……マイアさん、ナナイさん。急ぎましょう。ここに長居するのは、思ったより危険かもしれません」
「同感だね。今の敵、なんか変な間があった。息継ぎでもしてるみたいにさ」
ナナイが短刀に付いた潤滑油を布で拭い、珍しく真剣な顔で頷いた。
佐藤は懐から、あの白銀の騎士の残骸から回収した結晶体を取り出した。手のひらの上で、それはこれまでになく強く、鼓動するように明滅している。
「……こっちだ。この石が、さっきから同じ方向に反応してる」
行き先はもう決まっていた。前に通った生産地区でも、あの偽りの庭園でもない。結晶体が示す先――八人はまだ誰も足を踏み入れたことのない路地へと、白亜の街並みを駆け抜けていく。
誰も知らない。
彼らが今しがた壊した機械の奥深く、演算の海の中で、ある一つの「声」が、初めて仲間の声にわずかな共感を覚え始めていたことを。




